世紀末美食伝説ムラサキ

白洲柿人

プロローグ

 まだ西歴と呼ばれた時代。

 文字通り世界を巻き込んだ大戦は、この世の文化を焼失させるに十分であった。


 生き延びた人類は、失くした隣人を偲び、戦争の愚かしさを嘆いた。


 ……そして、一しきりの憂いの後に、かつてあった文化的生活を渇望した。


 そう、気付いてしまったのだ。

 もはや自分達は、家電もスマホも無い生活に耐えられないと。




 世界の『大崩壊』から百年。人々の努力と幾許かの奇跡により、文明の再興は成った。


 しかし、文明の再現に比して重要度が低いとされた文化の再現は遅れ、時に見下され、その連続性を絶たれていった。


 伝統芸能、スポーツ、そして美食――


 世紀末美食伝説。


 それは、乱世を駆け抜ける革命の風。






 日本、関東。


 都会と田舎の狭間に位置する、流れ者どもの行き着く先。

 誰が呼んだかマッドシティ。


 物語は、高架下に構える一軒の寿司屋から始まる――




「だからよぉ父ちゃん、ウチも寿司を回すとかしないと、このままじゃ商売上がったりだぜ!」


「てやンでぃべらぼうめ! こちとら先祖代々真面目な寿司を売りにしてンだ、そンな浮ついた真似ができるか!」


 老舗の雰囲気漂う鮨処、『江戸前寿司』の店内に怒声が響く。

 時刻は夕飯時、だが店には、親子と思しき二人の他に客の姿は無い。


「斜向かいの店に常連さんもみんな取られたってのに、この頑固親父っ!」


「ンなっ」


 少年は言い放つと店の戸を開け、外に飛び出そうとした。


 行く宛など無い。

 ただ、何かせねばという焦燥だけがそこにあった。


 ――だが、戸を開けた彼は即座に立ち止まることとなった。

 そこに、ボロ布を纏った偉丈夫が立っていたからだ。


「な、軟水……」


 そう言い残し、男は倒れた。






「で、旦那。あンた、こンな辺鄙な場所で一体なにしとったンだ?」


 介抱され、意識を取り戻した男に父親が尋ねる。


「……人を、探している。」


「人? ははーン、さてはコレか?」


 そう言って、中指を立てたハンドジェスチャーを見せる父親。


「……まあ、そんな所だ」


「父ちゃんちょっと下品だぜ」


「――それよりも、ここは……寿司屋か。定休日に邪魔してしまい、すまない」


 男は水の入った湯呑みを片手に、店内を見回す。親子は揃って苦い顔をした。


「いやぁ、定休日っていうか」


「ふン、お前さンも外歩いてた時に目にしたンじゃないか? あのちゃらけた店が出来てから、毎日このザマよ。ご先祖様に合わせる顔がありゃしねぇ」


 そう言って息子は頬を掻き、父親は腕を組んで顔を背ける。

 のっぴきならない事情がありそうだと、男が何か言おうとしたその時だった。


「今日も邪魔するぜぇ、じいさんよぉ」


「ひぇっへっへ!」


 店の入口を勢いよく開けて現れたのは、ガラの悪い二人組の大男。

 落ち武者ヘアと、激しい寝癖のような名状しがたい髪型。

 明らかに客ではない!


「お、お前らまたッ」


「いってェ何ンの用だ!」


 敵愾心を隠さぬ父子の視線を意に介した様子もなく、闖入者は下卑た笑いを浮かべながら言い放つ。


「用ぉ? 決まってる、立ち退きの件だよ」


「へへっ、ジョーの兄貴の言う通りさぁ。――わかったらとっとと出てけってんだよ! もうこの辺りの寿司屋は、みぃんなオレ等に屈した。後はこの『江戸前』だけだ!」


「お、横暴だぞ! あんなに繁盛してるんだ、別にこの店が無くったって勝手に営業してりゃいいだろ!」


 少年が果敢にも言い返す。


 だがそれが虚勢であることは明白だ。

 大の大人二人、それも明らかに堅気では無い大男と対峙するには、少年には何もかもが足りなかった。


「……あぁ?」


 兄貴と呼ばれた男、ジョーが、五月蝿そうに少年へと目を向ける。


 彼に凄んだつもりは毛頭無い。

 だが、ただそれだけの動作であっても、幼い少年の足を竦ませるのに十分な威力を持っていた。


 ジョーは腰を落とし、少年に目線を合わせた。


「理由を知ってるか、ボウズ? 俺達が周囲の店を潰して回っている、その理由をぉ?」


 ジョーの張り付いたような薄ら笑いが、獰猛な笑みへと変わった。


「目障りなんだよ、お前らがな。大資本という大風で吹けば飛びそうな店の癖に、いつまでも反抗する。身の程知らずにも程がある弱小共が。そういう細かな汚れも残さず掃除する――それがあの方のご命令だ」


「うっ、あっ……」


 ジョーの迫力に完全に飲まれた少年は立っていることもままならず、客席の椅子にしがみついた。その双眸には薄っすらと涙が滲む。


「それにこれは、損切りするなら早い方が良いという慈悲でもある。見ろよこの店内を。書きいれ時だってのに客の一人も――」


 そう言いながら見回す男が、隅の席で水を飲む偉丈夫を、この時はじめて認識した。


「――あ? 客、か?」


 その偉丈夫はこの騒ぎにまったく動じた様子も見せず、湯呑みに口を付ける。


「……すまねぇなあ兄ちゃん、食事中によぉ。だがあんた、この辺のモンじゃぁねえな。――何で分かったかって? なに簡単なこった、ここいらで寿司を食おうと思ったら、こんな寂れた店じゃあなく、向かいに入るからなぁ! ハイカラでソフィスティケートな、俺達の『コンベヤ寿司』に!」


 落ち武者ヘアの大男はそう大仰に言い放った後、懐からカラフルな紙を取り出した。


「そうだ、今クーポンを配っている所でな。良かったら一枚や――」


 次の瞬間!


「……話は終わりか?」


 偉丈夫はクーポンごと大男の手を握り込む。折角の鮪一貫百円クーポンがクシャクシャだ!


「て、てめぇ……」


 落ち武者ヘアは、実の所これでも彼なりに偉丈夫を慮っての行動だった。

 それを無碍にされたと感じた彼は、偉丈夫に掴まれた拳を振りほどき、挑みかかろうとする。

 それを止めたのは弟分だ。


「兄貴ぃ、こんなヤツに構うだけ無駄っすよ。それより、澤さんの件を伝えてとっとと帰りやしょうぜ。オレぁ腹が減っちまってよぉ」


 この刹那、偉丈夫の目が僅かに窄められた。


「……それもそうか。命拾いしたなぁ、兄ちゃん! ――だがこの店は終わりだ」


 落ち武者ヘアは懐から別の紙を取り出し、それをテーブルに叩きつけた。


「立ち退きを賭けた『美食争覇』の知らせだ。当然、不参加は認められねぇ。これが何を意味するか……耄碌したあんたにも、理解わかるだろ?」


「ぐっ……」


 店主である父親の表情が、苦虫を噛み潰したようなものに変わる。


「日時は明日! 正午! 場所は眼の前の広場だ! くれぐれも遅れるなよ……いや、何したって結果は同じだがなぁ」


「へっへっへっ、そゆことそゆこと」


 そうして下卑た笑い声を上げながら、男達は店を出ていった。




 静寂を取り戻した店内に漂う空気は、残された者達の心情を表したかのように沈痛だった。


「…………すまねぇな旦那。騒がしくしちまって……詫びと言っちゃぁなンだが、何か握らせて貰っちゃぁくれないか? なに遠慮すンな、このままじゃどうせ廃棄になるだけのネタだ。有効に使ってやらねぇとな……」


 先程までの威勢はどこへ行ってしまったのか。父親の背中からは哀愁さえ感じさせる。


「……『美食争覇』と、そう聞こえたが」


「ああ、旦那にゃあ耳馴染みの無い言葉だと思うが……元々は、料理人同士が己の誇りを懸けた神聖な勝負だったらしい。だが、奴らにかかっちゃあそンな伝統も己の都合で如何様にも捻じ曲げられるッ! 勝負とは名ばかり、御用審査員を抱え込んだ、完全なる八百長試合さ」


 顔を伏せて話す父親の表情は読めない。

 だが、遣り場の無い怒りと悲嘆が、その声からは伝わってきた。


「……これのことさ」


 少年がそう言って、先程の大男達が持ってきた紙を偉丈夫の前に突き出した。彼は、それに目を落とす。


 そこには、ポップな字体でこのイベントの詳細が書かれていた。




”『第五回 市開催 美食争覇、開幕!!』


地域の食の安全を守るためのイベントが、大好評につき今月も開催!


真に美味しい寿司を出すのは、一体どのお店なのか?!


生き残りを懸けた真剣勝負を見逃すな!


主催:市 地域文化課

協賛:コンベヤ寿司

審査員:地域文化課 袖ノ下尊宅、御樫山吹恵、御食事健”




「……」


「これに出させられた店は、衆人環視の中、あることないこと言われてぜんぶ潰れた……今度はいよいよ、ウチの番ってわけだ」


 少年は悲しく笑ってそう零した。


「……すまんな旦那、なんだかもう気力が湧いてこねぇ……ちぃとばかり休ませてくれ」


 父親は力なくそう言うと、店の奥の戸を引き――


「シロー、飯はお前が作りな。炒飯くらいなら、できるだろ」


 そう言い残して去った。




「…………おいらさ、あいつらの店、一度だけ食いに行ったこと、あるんだ」


 沈黙に耐えかねるように、シローと呼ばれた少年が俯いたまま口を開く。


「出来たばっかりの頃、偵察にさ。父ちゃんにはやめとけって言われたんだけどさ」


 顔を上げた少年の顔は、滂沱の涙に濡れていた。


「やめときゃよかった! ……旨いんだよ、普通にさぁ! 機械で握ってるくせに! こんなんじゃ、例え八百長じゃ無くったって、勝てっこねぇよぅ……」


 少年の悲痛な叫びに、偉丈夫はしばし瞑目し――


「――どうせ何をやっても結果が見えているなら」


 勢いよく目を見開き、立ち上がった。


「俺に任せてみないか、すべてを」






◇美食争覇、当日


「――念の為、再度確認しておく。本当に良いんだな?」


 割烹着に身を包んだ偉丈夫が、側に立つ少年とその父親に尋ねる。


「ああ、こうなりゃヤケだ! どうせ何出しても同じってンなら、精々腐った役人共に目にもの見せてくれるのも一興だ!」


 父親は完全に捨て鉢といった様子で、もはや運を天に任せるかのような姿勢でいる。


 ただしそれはあくまで外見上の事。


(一つ気になることがあるとすれば、このあンちゃんの真剣な目だ。職人魂になにか引っかかりやがる。こいつぁもしかすると、もしかするかもしれねぇ……)


 父親も、完全に諦めたわけではなかったのだ。


「あ、来たみたいだぜ」


 少年の指差す先に、我が物顔で闊歩する、ガラの悪い大男達の姿。

 その横にはスーツ姿の役人達。

 なにやら歓談をしながら、役人達は誰も彼もがすり鉢を手に、必死に胡麻を擂っている。


「あいつら……不正を隠そうともしちゃいない」


 怒りを押し殺した少年の声。

 彼が言うように、このイベントには敵方の店舗が深く関わっており、審査員にも敵の息がかかっている事は、眼の前の光景からも一目瞭然なのだ。


「そいで旦那。あンた、勝算はあるのか?」


「……それはこれから作る」


「――ハッ、面白ぇ! こいつはとンだ拾いもンかもしれねぇな」


 無策とも捉えられるその返答に、父親は満足げに頷いた。


「……そういやあんちゃん、バタバタしてて、まだ名前も聞いて無かったっけ」


 少年がふと思い出したように切り出す。そして自分を親指で指しながら自己紹介をした。


「おいらは寿司郎スシロー。皆からはシローって呼ばれてる」


「おれっちは寿コトブキ、江戸前寿だ」


 腕組みをした偉丈夫は、


「…………ノボル、と……そう呼んでくれ」


 と応えた。






「よぅ、逃げずに来たようだな……で、あんたは昨日のお客か? 何であんたまでそこに居やがる?」


 ガラの悪い二人組がニヤニヤと嗤いながら近付いてきた。


「……今日の美食争覇だがな、ここにいる若者、ノボルにすべて任せることにした」


 シローの父親、コトブキが、腕組みをしたまま首だけで隣の偉丈夫を差す。


「……はぁぁぁあ???」


「どうした爺さん、気ぃでもれたかぁ?」


 予想外に過ぎたのだろう、気の抜けた声で呆れる二人。

 だがあくまで堂々とした態度を崩さないコトブキの様子に、眼の前の人物が伊達や酔狂で言い放ったわけでは無いことを理解した。


「……と言うかよぉ、じいさん。もう知ってるんだろ? 何やったって結果は同じ。最初ハナから決まっているって。もしや自棄ヤケを起こした……いや、違うな。あんたそんなタマじゃあない」


 兄貴分の大男が、そこで一度目を眇めた。


「そうか、そういうことか。敗けの責任を部外者に押し付けようって魂胆ハラだな? そうは問屋が降ろさねぇぜ! 何があろうと敗けは敗けだ! そこを覆す事だけは有り得ねぇ!」


「ふン、何とでも言っていやがれ」


 いきり立つ兄貴分の男に、横からノボルと名乗る偉丈夫が、


「……いいか? 聞いておきたいことがある。実はほぼ何も聞かされていなくてな……『美食覇』? だったか。ルールや対戦方法など、知っておくべきことがあったら教えてもらいたい」


 遠慮がちに右手を耳の高さに挙げてそう声を掛けた。


「うん? ――ッハッハッハ! こいつぁ傑作だ! いいぜ、気の毒な兄ちゃんに親切に教えてやろう。……『美食争覇』ではッ! 対決する両者が、互いにテーマに沿った料理をその場で調理する! そして審査員達の評決によって、勝敗を決するのさッ!」


 そこで一息入れた男は悪辣な笑みに口の端を歪めた。。


「――そうそう、条件は対等にしなきゃあならんよな? 、な」


「……」


酢飯シャリ寿司種ネタは、こちらが用意したものを使用してもらう」


「な、なんだってッ?!」


 あまりの横暴な提案に、シローが思わず悲痛な叫びを上げた。


「それじゃあ今朝早起きして選んだ魚も、仕込んだ酢飯も、何にも使えないってことかよ! 直前になってそんなのあんまりだッ!!」


「直前ん~? そんなことねぇぜ~? 渡したチラシに、ちゃあんと書いてある。ほらここ。詳しくはコチラ、という文字が見えるだろ?」


 大男の指し示す箇所には、確かに『詳しくはコチラ』の文字と共にURLが記載されている。

 だが紙媒体の資料に印字された長大なURLなど、誰も開きはしない!

 人間の心理を巧みに突いた、男達の作戦勝ちだ!


「ち、畜生……おいらがあの時、面倒くさがらずに手打ちしてりゃぁ……」


「……気を落とすな、シロー。おれっちも十分かけて入力したが、広告ばかりで必要な情報には容易に辿り着けない仕組みになっていた」


 落胆する息子を、父親が慰めた。

 事実、指定されたURLの先は六十秒待たないとスキップできない広告が幾度も表示される仕様であった(しかもスキップするとストアページに誘導する広告が出て、これを閉じると再度待ち時間が発生するタイプだ)。

 コトブキ自身、度重なるヘタクソなプレイ動画に耐えかね、情報そっちのけでまんまとそのゲームをインストールさせられていた。

 とてもシローを叱責できる立場では無かったのだ。


「良いだろう……ただし、こちらからも一つ条件を出させてもらおう」


「何ぃ?」


 まったく動じた様子を見せない偉丈夫が、今度は右手人差し指を一本立て、


「ガリ、ワサビ、醤油はこちらで用意したものを使う」


 と告げた。


「てめぇ、調子に乗――」


「良いだろう」


 凄む特徴的な髪型の弟分を制して、落ち武者ヘアの兄貴分が頷いた。


「あ、兄貴、そんな勝手なことしたら……」


「大丈夫だ、これくらい。こっちの準備根回しは完璧だ。……だが三つ全部はダメだ。一つだけ、選びな」


「…………ならば、を」


 この時、考え込むように伏せた偉丈夫の目が爛々と光ったことを、その場の誰もが気付かなかった。






『皆さんお待ちかね! 第五回美食争覇、本時刻を持って開催させていただきます!!』


 マイクを通した司会の声が会場全体に広がり、それと共に熱気が最大限に高まる。


 広くスペースがとられた対戦会場の両翼には、今回の主役が各陣営のメンバーと並んで立つ。

 それぞれの眼の前には広い机があり、そこに今回使用する食材や調理器具などが用意されている。


 シローはお櫃に入った寿司飯を見て、


「父ちゃん、このシャリ……なんか変色してないか? まさかアイツら、傷んだ食材を回したんじゃ――」


「いや違う。これはだ」


 憤るシローを、偉丈夫は冷静に諭す。


「赤……シャリ?」


「そうだ。赤酢を用いたシャリ、すなわち赤シャリ。赤酢は一般的な米酢に比べ、酸味がまろやかで刺激が少ない。寿司との相性は良いが作るのに長い年月を要する、高価な調味料だ」


 偉丈夫が淡々と語る内容に、シローは打ち拉がれることとなった。


 庶民派を標榜するとは言え、寿司屋の倅である自分がまったく知らなかった事に。

 そのような高級なものを惜しげもなく提供する敵の強大さに。

 そして、明らかにその筋でないと知り得ない知識を有する、眼の前の人物に。


「お前さン、やはり――」


 目を瞠るコトブキだったが、継ごうとした二の句は司会の大声に遮られた。


『おおっと! コンベヤ寿司陣営が、何か機械のようなものをセットし始めたぞ?! これは一体ッ……』


 司会の言う通り、ガラの悪い大男二人が、何やらメタリックな直方体の物体をいそいそと準備しているようだ。


「あ、あれは!」


 心当たりがあるのだろう、シローの顔が苦悶に歪む。


『そう! 皆さんご存知、コンベヤ寿司の誇る寿司マシーン「握るくん弐号」だッ! これまで数多の挑戦者の自信とプライドを打ち破ってきた、冷徹なる機械! それが今回も堂々登場です!』


 煽るような司会の言葉に会場も沸き立つ。

 完全なるアウェーの空気。当然それは、等間隔に散った敵方の偽客サクラが齎したもの!

 よくよく見れば、遣る瀬のない表情の観客の方が多いのだ。

 しかし、総体としてはそれを感じさせない、プロフェッショナルな仕事振りは敵ながら天晴と言う他無い!


 弟分がお櫃に入った赤シャリを機械に投じると、多少の駆動音が鳴った後、即座に俵型に整形されたものが排出口から文字通り飛び出してきた。


「おっとっと、シャリの方も活きが良いねぇ」


 兄貴分がすかさずそれを皿でキャッチ。小気味の良いシャレに審査員も満足そうだ。


(おいッ、設定が店で使う時のままじゃねぇか! あれほどよく確認しろと言っておいただろッ!)


(す、すいやせんジョーの兄貴……)


 だが、笑顔の裏で兄貴分は鼻息を荒らしていた。


 コンベヤ寿司では、開店当初こそ

①マシンからシャリを受け取る

②人の手でネタを乗せる

③気持ち握る

④皿に乗せる

⑤コンベヤに流す

という規定の手順を踏んで作業していたのだが……如何せん客が増えすぎた!


 そこで今では、シャリの排出速度を最高にすることで

①マシンからシャリがコンベヤ上の皿に飛び乗る

②その上にネタを落とす

という、まさにパラダイムシフトとも呼べる手法で提供までに掛かる時間を短縮させていたのだ。


 弟分は、うっかりこのシャリ排出速度の設定を元に戻さずに起動させてしまったが――兄貴分のファインプレーにより、あたかもそれらは最初から定められていた演出かのように見なされた。


 事なきを得、落ち着きを取り戻した兄貴分の男は、改めて手にした皿に乗るシャリに目を落とす。


(形状、握り加減、いずれも問題ない。パーフェクトだ。……まあ、それもそのはず。ウチの導入した握るくん弐号は特別製だ。機械特有の再現性で、そこいらの木っ端寿司店なんざ目じゃないレベルの寿司を提供できる)


 そして、件の機械に目を向ける。

 丁度、弟分が再設定を終えたようで、動作の確認をしているところだ。


(――何せ、金にモノを言わせて数々の職人の握り方を強化学習させた上、マニピュレータには培養した職人の手を用いている。更に、このに流す人工血液の温度は約三十八度! 自然、握る手の平の温度もそれに近い値を維持できる。万全のコンディションと言って良いだろう)


 兄貴分の男は、今にも哄笑しそうになる自分を諌めた。

 まるで敗ける気がしない。もし審査員を買収していなかったとしても、だ。


「兄貴ぃ! シャリの準備、できやした」


「おう」


 弟分が、審査員の人数分の皿を持って来た。ここからは、自分の仕事だ。


「……本日は中トロを用意いたしました」


 そう言って兄貴分が机の上の大皿に被せられた布巾を取り去ると、そこには既に切り揃えられた中トロが赤く煌めいていた。


 兄貴分はそれらから見た目の良いものを何キレか選別すると、菜箸でシャリの上に乗せていった。それは、彼の厳つい見た目からは想像もつかないほど丁寧な所作であった。


「さあ、審査員の皆様。コチラが我がコンベヤ寿司の品となります。ご賞味あれ! ……まあ些か食べ飽きたやもしれませんが」


 審査員席まで寿司を届けた兄貴分は、顔に似合わないにこやかさでそのように宣った。


「いやいや、いつ食べても美味しいですよ」


「うーむ、やはり旨い!」


「脂のノリも良い、完璧な中トロですこと!」


 ネタの端に少量の醤油をつけた審査員達は、口々にコンベヤ寿司を褒め称えた。

 それは心のこもらぬ、上辺だけの称賛。

 だがそれで良いのだ。この業界は勝ったほうが正義。正義とはマネーなのだから。


「……さぁて、次はお前達の番だ。準備はでき――」


 満足そうに振り向いた兄貴分は、


「てねぇじゃねえかッッ?!」


 試合開始からまったく動いた気配のない『江戸前寿司』の面々に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。


「て、てめぇらやる気あんのか?! 寿司はどうした寿司はッ?! 早く握ってお客様にお出ししろッ!!」


 食って掛かる兄貴分に、偉丈夫は何処吹く風といった様子で、余裕の態度を崩さない。それどころか、


「ジョー、と言ったか。ルールを教えてもらったな。条件は対等に、だったか。ならば――」


 『握るくん弐号』を指差し、


「俺も、その機械で握ったものを使わせてもらおう」


 と、不敵に言い放った。


「な、何ィッッ?!」


 ジョーは驚きの余り取り乱した。

 今この男は何と言ったか? 使わせろと言うのか、寿司マシーンを。


「て、手前で握らないでどうするッ?! 仮にもこれは勝負だぞ勝負ッ! 寿司職人の誇りは無いのかッ?! そ、それにそもそも、握りで差をつけなきゃあ、一体全体何で勝つつもりなんだッ?!!」


 詰め寄るジョーに対し、


「俺は寿司職人ではない」


 偉丈夫は堂々と言ってのけた。


「――そ、そういやぁそうだった。コイツは単なる客、寿司の心得が無くったって不思議じゃぁねぇか……」


 偉丈夫の余りに明け透けな態度が、ジョーに冷静さを取り戻させた。


「……良いだろう、俺も男だ。前言を翻す真似なんかしねぇ。おいAエー! シャリを用意してやんな」


「へ、へぇ……」


 指示された弟分が再び機械を稼動させ、先ほどと同じだけのシャリが、先ほどと全く同じ様に準備された。


「……親父さん。中トロ、握ってくれ」


「なに?」


 偉丈夫は、後方のコトブキを振り返らずにそう言った。


「……おれっちは旦那に全部任せ――」


「親父さん。あんたが任せた俺が言っている。握ってくれ。寿司を」


 なおも振り返らない偉丈夫の声に、何か並々ならぬものを感じたコトブキは、


「――わかったよ。ちぃと待ってな」


 僅かに微笑み、腕を捲った。






「……まったく読めねぇ。一体何を考えてやがる」


「大方、他の店とおんなじで諦めてるんじゃないんすかね?」


 陣営のスペースに戻った二人は訝しげに対戦相手の方を伺う。

 丁度、手洗いを済ませた江戸前寿司の大将が、寿司を握り始める所であった。


(諦めてる、か――だが奴からは、そうした匂いを感じられねぇ……なにか、なにか嫌な予感がするぜ……)






「……兄ちゃん、本当に勝てるのか? 一体どんな手を使えば、この状況を変えられるんだよ……こんなの、こんな試合……あんまりだぜ……」


 今にも泣き出しそうなシローに偉丈夫は、


「考えられる手段は十。事前準備など、今回の条件下で可能となると四。そのうち、もっとも禍根を残さぬものを選んだ」


 腕組みのまま応じた。圧倒的に不利な状況だと言うのに、その声音からは確かな自信がみなぎっている。


「そ、それって……?」


「単純な事だ。料理勝負の基本に立ち返る――ただ、心の底から旨いと思える寿司を出せば良い」






「……ん? ああ、そうか。一応、相手の寿司も食べるんだったか」


 数分の後、もはや仕事は終わったとばかりに脱力する審査員達の前に、寿司の乗った皿を手にした偉丈夫が居た。


「ああ。食べてもらおう。『江戸前寿司』の皿だ」


 そうして供された皿の上には、それぞれ二貫ずつの中トロ寿司が鎮座している。

 ネタはシャリと一体化しているがごとく。陽光に照らされたそれは、まるで岩に撓垂しなだれる美女のような艶めかしさだ。


「まあこれも仕事ですので、食べますか……」


 俄に食べ始めようとする審査員達に――


「少し待ってもらおうか」


 偉丈夫が待ったをかける。


「この寿司は、この醤油で食べてもらおう。ネタにたっぷりと醤油を付けるのだ。漬け込むように、たっぷりとな」


 そう言って、懐から黒い液体の入った瓶を取り出した。


 この要求に、審査員のみならず会場全体がどよめきに包まれる。


「き、聞き間違いかね?! 醤油を、たっぷりとつけろと聞こえたが。そんな事したら、味も何も分かったものじゃないだろう?!」


「そんなの子供ガキや味に頓着の無い下郎のする事! 大人であるアテクシ達は、そんな品のない食べ方はせず、素材の味を大切に――」


「――いいや、つけてもらう。たっぷりと、だ」


「我々に塩分過多で死ねと言うのか!」


 紛糾する会場。多くが『江戸前寿司』側の無茶とも言える条件に対しての非難だ。

 だがそんな状況にあって、偉丈夫は強硬な態度を崩さない。


(――これは、チャンスだ!)


 落ち武者兄貴分、ジョーの顔面に、瞬間的に喜色が走る!

 正体不明の敵が犯した決定的なミス。これに漬け込ま、いや付け込まない手は無い!


「……審査員の皆々様! お騒がせして申し訳ない。だがこれは神聖な『美食争覇』の場です。この兄さんの意思を、汲んでやっちゃあくれませんかね?」


 表面上は穏やかな笑みを浮かべるジョーだが、内心は小躍りしたい気分であった。

 今まで潰してきたどの相手にも感じたことのない違和感。

 それを払拭することができる絶好の機会だ。


「う、む……コンベヤ寿司さんがそう仰るなら……」


 審査員達は渋々といった様子で偉丈夫の要求を飲むことにした。


「……つければ良いのかね?」


「ああ、そうだ」


 上目遣いに睨めつける審査員に、偉丈夫は居丈高にそう言いつつ、醤油皿に黒い液体を注いだ。


「たっぷりとだ。ネタをシャリから外して、全体が浸るように」


「ぐ……これでは食に対する冒涜だ……」


 蛮行とも呼ぶべき偉丈夫の振る舞いに、審査員の心証は最悪に近い。

 ジョーの理性が勝利を確信した。


 ……だがその一方で、直感は継承を鳴らし続けていた。


(俺は一体、奴の何にビビっているんだ……? 突拍子も無い事をしでかす、単なる阿呆に)


 この言語化できない焦燥感の正体は、自身の内にこそあるのではないか。

 そう考えたジョーは、事ここに至り省みる。偉丈夫との出会いから今まで、その間感じた恐れの根源を。


 そして気付いた。


 それが、かつて一度だけ謁見することが叶った、マスターに感じたものと同種の畏怖であったことに。


(ま、さか――)


 だがその気付きは、あまりにも遅きに失していた。




 それは審査員の一人が、ネタから黒い液体が滴る寿司を、ええいままよと丸ごと口へ放り込んだ次の瞬間の出来事だった。


「うまいッッッッ!!!!!」

『うまいっ!』


 御用審査員、袖ノ下尊宅が文字通り飛び上がって叫んだ。

 そのあまりの勢いに、どこからともなく甲高い謎の音声が被さった!


「何という旨さだッッ! 醤油とマグロが、これ以上無いほど調和を果たしているッ! 醤油という調味料は、マグロのために存在していたのかという錯覚すら覚えるほどに!」


 その常とは異なる様相を目の当たりにした残る審査員達も、唾で喉を鳴らした後に恐る恐る寿司を口に運んだ。


「う、うまッ! この旨さはなんだ?! つけ過ぎと思えた醤油も、口の中でマグロの良質な脂と溶け合って心地よい程の塩梅だ」


「何ということ――! マグロの脂の持つコクが口の中に広がり、同時に今まで食したことの無いほどの旨味を感じる?! いえこれは、お醤油……お醤油自体に旨味がある?!」


 空気が一瞬で変わった!


 今や会場のあらゆる人々が、それを成し遂げた人物の言葉を待っている。一体どんなからくりを使ったのか?!


「……まず、誤解を解いておかねばなるまい。世に出回る謎の作法――最初に数本、何もつけずに食べる……端にだけつゆをつける……ネギはつゆに入れずに合間に食べる……刺身につける醤油はほんの少し……」


「最後以外蕎麦の話じゃん」


「こうした下らない幻想(※個人の感想です)に囚われ、美食を真に愉しむことのできていない愚者のなんと多いことかッ! 違うと言うのならば、マグロの切り身、その断面を見よッ!」


 シローの茶々を無視し、偉丈夫が指し示したのは用意された中トロ、その使われなかった残りだ。


「斜めに包丁を入れている。それは断面積を大きくするため……それは何故かッ! 醤油をたっぷりとつけるためにほかならないッ! マグロは醤油をたっぷりつけて食べるのが正道なのだッッ!」


「何とッ!」


 腹の底に響くような偉丈夫の声に感化され、審査員達のみならず観客達もが、あたかも社是に啓蒙されたばかりの新入社員が如き相貌をしている。


「そして当然、醤油にも秘密がある……今回使ったのは――」


 偉丈夫が手にした瓶を回転させる。

 今までその大きな手に覆い隠されていたラベルが聴衆の前に曝け出される。


 嗚呼、嗚呼! そこに書かれていたのは、雄々しい『牡蠣』の二文字!


だ!」


「かき、じょうゆ?」


「知っているか?」


「俺、売ってるの見たことあるぞ」


「何だか良く分からないけど、すごい!」


 偉丈夫の発言に会場が色めき立つ。


「牡蠣醤油とは、文字通り牡蠣の旨味が詰まった醤油……言わばオイスターのソースだ」


 耳慣れぬ調味料の存在にショックを受ける人々を鎮めるがごとく、偉丈夫は説明を始める。

 それは今回、いかにして審査員達にうっかり賛辞の言葉を叫ばせたのか、その技のすべて!


「――マグロの旨味成分であるグルタミン酸と、醤油のグルタミン酸、そして牡蠣が豊富に含むコハク酸の三つが合わさり、言わば旨味の効果とでも言うべき現象を引き起こしたのだ!」


「加算効果!」


「つまり、1+1+1=3ということか!」


「なるほど……実に定量的だ」


 ジョーが呆けている間に、会場の流れは明らかに変わりつつある。


 このままではまずい。非常にまずい。


 早急に何か手を打つ必要がある。それにはまず、現状を正確に把握することだ。


「――ッ。そ、そんな、醤油だけで変わるもんかッ!」


 ジョーは審査員の一人がまだ手を付けていなかった寿司を乱暴に奪い取ると、ネタが下に来るよう回転させ、牡蠣醤油をたっぷりとつけた。


「あぐっ………………んんッ?!」


 そうして寿司を頬張ったならば、口腔内に広がるのは暴力的なまでの旨味の日本海流!

 審査員らの言っていたことが真実であると、強制的に理解させられた。


 美味いものを食したら美味いという言葉が出る――人に組み込まれたそうした本能を抑えるのに全神経を注いだジョーは、その場で硬直したかのように動きを止めた。


「――そ、そうか! これで合点がいったッ! ここまで巧みに醤油を使える漢なんざぁ、日本中、いや世界中探したってそうそう居るもンじゃねぇッ!」


 興奮した様子のコトブキがにわかに立ち上がり、大声で叫ぶ。


「そう、料理の味を左右する、五つの頂点調味料ッ! すなわち、砂糖、塩、酢、背脂、そしてソイ・ソース! それを極めし五人の特級料理人!」


 そして、偉丈夫を指差し――


「間違いねぇッ! 美食五聖天、ソイ・ソースのムラサキ!!」


 美食五聖天!!


 ムラサキと呼ばれた偉丈夫は、否定も肯定もしなかった。

 だがその佇まいが! 鋭い眼光が! そして成し遂げた偉業が! 雄弁に語っている! この漢の正体を!!


「び、美食五聖天だって?!」


「通りで旨いはずだ……」


「五聖天……あの方と同じ……」


 ざわめきが大きくなる会場の観客達。そして絶句する弟分。




「「「……」」」


 三名の審査員は、互いに目配せをし合う。


 たんまりともらっている後援資金――それは魅力的な特産品の無いことでふるさと納税から出遅れたこの市において、必要不可欠な財源であった――の手前、コンベヤ寿司を無碍にすることはできない。


 一方で、まさかあの名高き美食五聖天の顔に泥を塗るわけにもいかない。


 悩み抜いた末に三名が出した結論は、ムラサキ側の勝利。


 ただし完勝は失礼に当たるため、じゃんけんで負けた尊宅一人がコンベヤ寿司に票を入れた。




「あ、兄貴……オレは夢を見ているのか? まさか、オレ達が敗けちまうなんて……」


 傾きかける太陽の光の中、弟分が腑抜けた声でそう呟いた。

 先程まで有していた気迫も無く、ただ呆然とするその様は、まるで行き場を失った少年のようでもあった。


「敗け……敗け、か」


 ジョーは独白のようにそう零した。


「醤油の違いなんざ、気にしたことも無かった……濃口より薄口の方が、なんでか知らねぇがちょっとしょっぱいって……精々そんな程度のもんさ……それがいけなかったんだなぁ……」


 そうして思い浮かべるのは、幼い頃憧れた職人の姿。

 それが今日、寿司を握るコトブキの姿と重なった。


「それに、やっぱり……最後は人の手で握る。そこで生まれる一体感。それこそが寿司を小さな宇宙たらしめる。恐らくそれが決め手になった……恐らくそれが、一番重要だったのかも知れねぇな……」


「え、審査員は一度剥がしてたけど……」


 シローの突っ込みはジョーの耳に届かなかった。


「オ、オレ達この後どうなっちゃうんだ? あの方に……あの方にオレ達っ」


 焦燥する弟分。そこへ近づく大きな影あり。

 それは、美食五聖天ムラサキその人だ。


「……この女に見覚えはないか?」


 そう言って懐から取り出したのは、一枚の写真。

 そこに写っていたのは白銀の髪を持つ美しい女性の姿だった。


「えっ……いや、見たことねぇ、です……」


 すっかり萎縮した弟分が応えた。

 ムラサキはジョーにも同様に写真を見せたが、返答は同じであった。


「……そうか。なら教えてもらおうか。お前達のマスターの居所を。ヴィネガー澤――美食五聖天、『酢』を極めし男の」


「えっ?!」


「隠しても無駄だ。お前達とヤツが繋がっていることは、あの赤シャリを見た時に確信した。さあ吐け!」


 ムラサキが、今まで見せたことの無い凄みで二人を圧する。


「い、いや、本当に知らないんだ! なにせ俺等から見れば雲の上のお人だ!」


「………………そうか」


 そう言ってムラサキは瞑目し、写真を再び大事そうに懐へと戻した。


「――邪魔をしたな。俺はこれで失礼させてもらう」


 ムラサキはそう告げると、夕陽に向かって歩き出した。

 今までがそうであったように、当て所無い道行き。


 その背中に哀愁を乗せて。

 だが心には、確かな覚悟を乗せて。


「あ――」


 シローは男の背中に声をかけようとして、思い留まった。

 自分が何を言いたいのか。本当にそれを口に出して良いのか。

 そうした理性がはたらいた。


「………………シロー。お前は今、人生の岐路に立っている。今日の美食争覇の顛末は、時を置かず広まるだろう。そうなれば『江戸前寿司』は一躍その名を馳せ、大躍進が約束される――大資本コンベヤ寿司を打ち破った、美食五聖天御用達の店としてな。順当に行けば、お前はそれを継ぐのだ」


「え、おいら大人になったらVTuberに……」


「だがなシロー。それは何も今ってわけじゃあねぇ。俺の背中を見て育って欲しい、当然その気持ちはある。けどな、それと同じくらい、お前には広い世界っちゅうもンを見て欲しい」


「……」


「だからシロー。行って来い! そして一回りも二回りもでかい男になって帰ってこい! この店もそれに負けねぇくらいでっかくして待ってるから、お前もこの店に負けねぇくらいでっかくなってッ!」


「と、父ちゃん……おいらは、おいらは――」


 コトブキの男泣きに心揺さぶられたシローは、袖で顔を擦り、


「おいら、行くよ! ムラサキの兄ちゃんと一緒にッ!!」


 晴れやかな顔でそう宣言し、脇目も振らず走り出した。男の去った夕陽に向かって。


 それを見守る誇らし気なコトブキの顔を、同じ夕陽が照らしていた。





「――澤様、か……あの方は敗北を許してくれる程甘くはねぇ……俺達もコンベヤ寿司も、もう終わりかもな」


 プレッシャーから開放されたジョーは、地面を見つめながら力なくそう吐露トロした。

 弟分もまた、悲嘆に暮れている。


「……なあお前さン方、行く宛が無ぇってンなら、ウチで働く気はねぇか?」


 コトブキからの思いもよらぬ提案に、揃って目を丸くする二人。


「これから何かと忙しくなるってのに、カミさンも下の娘も野暮用で出ていったきり。人手が要るンだよ」


「あんた、いや大将……本気なのか? あんな事した俺達を? さっきまで敵同士だったじゃないか」


「『ワンサイド、ノーチーム』。勝負が終わったら後には引き摺らねぇのが男気ってヤツだ」


 厳しい顔つきに隠された、コトブキの優しい眼が二人に向けられる。

 感極まった二人は、咽びながらも右手を差し出した。


「佐護ジョーと言います……」


「オ、オレはAボゥイ」






 かくして一つの戦いが終わった。

 ある者は自身の進むべき道を見定め、またある者は未だ道を探している。


 その果てには、一体何が待ち受けているのだろうか。




 ――世紀末美食伝説ムラサキ。


 物語はまだ、始まったばかりである。





プロローグ・了


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