第42話

『まどか、俺と別れてほしい』

 あの時、もう抱きしめ返してなんてくれなかった。


「……順平の優しさは、全部嘘だったのかな。あたしだけが大好きで、そばにいたくて、触れていたくて、あたしは一人でも大丈夫だろうからって。あんまり、張り切りすぎちゃったのかな。出来ないことも出来る様にって、順平の為に頑張りすぎちゃったのかも。あの笑顔が見たくて、喜んで欲しくて、いつまでも、抱き締めていて欲しくて……」


 心が満たされない。

 あたし一人だけの好きが溢れて、こぼれ落ちるばかり。順平はその好きを、受け止めてはくれなかった。


 また、涙腺が熱くなってきた。

 涙が溢れ出すのを我慢するために口をきつく結んだあたしを、ふわりと優しく成海くんは包み込む様に抱き締めてくる。

 背中に回った腕が、より強くあたしを引き寄せる。


「今だけ、俺を……順平だと思っていいから」


 消えそうな声で言われた。

 さっきまで重ねていた順平の姿が、成海くんのその一言で、透明に重なっていたはずなのに、抱きしめてくれる成海くんの優しさで、色濃く鮮明になっていく……

 あたしは、下がった両手を上げて、背中を抱きしめ返した。

 こうしたかったんだよ。本当は。

 ちゃんと、あたしを見てほしかった。


「……順平……」


 小さく呟いたあたしは、ますます強く抱きしめられる腕に、気が付けば、自分から顔を上げて首に腕を回す。目の前にいると錯覚してしまっている順平の唇に、そっと口付けた。

 一度触れて、もう一度。長く、何度も繰り返す。息が続かなくなるくらいに。

 抱きしめられていた腕が解けて、ニットの下の肌に触れてくる。繋がれた唇が首筋に降りていって、吐息が漏れた瞬間、鼻を掠めた甘い香水の香りに、あたしは我に返って両手を突き出していた。


「違う……順平じゃ、ない……」


 重なって見えたのは、あたしの妄想。こんなのだめだ。だって、目の前の人は、順平じゃない。順平を重ね合わせたって、順平じゃないんだ。そんなの、満たされない。こんな、愛のない抱き合いやキスをしたって、あたしの心は埋まらない。


「……ごめん……成海くん……」


 俯きながら離れるあたしに、成海くんはそれ以上近付かない。

 何してるんだろう、あたし。成海くんの優しさを、良い様に使いすぎだ。成海くんに順平を重ねるなんて、最低だ。


「……順平を忘れるなんて、あたしには、まだまだ無理かもしれない」


 こうやってまだ、順平を求めてしまっている。抱きしめる手も、優しいキスも、順平だと頭で思っても、やっぱり違う。

 成海くんに、キス……しちゃった。ほんと、今度こそ大失態だ。こんなあたしに、成海くんは呆れてしまっているだろう。謝っても、謝りきれない。

 ため息を吐き出したあたしのことを、甘い香りの成海くんがもう一度優しく包み込む。


「俺が順平だと思っていいって言ったんだ。まどかちゃんは悪くない。気持ちに正直に動いただけだから……いつになったら、まどかちゃんから順平が消えてなくなるんだろう。もう、今すぐにでも、消えてほしいのに」


 苦痛のも感じる声に、罪悪感を感じてしまう。あたしは、成海くんの優しさに甘えすぎだ。

 なのに、成海くんはまたすぐにあたしを甘やかしてくる。だから、あたしはそれから離れられなくて、結局、またすぐに甘えてしまうんだ。

 気持ちが沈んだまま、あたしは一旦家に帰った。


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