兎と亀 ver.ワイルド

楠木静梨

第1話

 アメリカ、西海岸のバーにて1人、肩に深い傷跡を残した男が酒を呑んでいる。

 店の扉が開き、カウベルが鳴った――――男が目をやると、今日この店に男を呼び出したサラリーマンが帽子を脱いでわざとらしく礼をしていた。


 男が呆れながら首を振ってこっちへ来いと示すと、サラリーマンも頭を上げて男の居るテーブルに近寄る。

 

「こんな場所に呼び出して遅刻とは、いい根性だな」

「悪いね、向こうさんの話が長引いたんだ」

「向こうさんね…………で、それは今日まで隠してた依頼内容に関係しているのか?」

「もちろんだ――――アンタに頼みたい仕事はね、兎の退治だよ」

「帰る」


 男は途端に機嫌を悪くして、席を立った。

 それをあらかじめ察知していたかの様にサラリーマンはため息をこぼし、足を出して進行妨害を。


 そして、入店時から持っていたアタッシュケースを男に見せた。


「報酬は弾みますよ」

「この仕事なら最初から来なかった」

「知ってますとも。でも、貴方にも責任はある」

「責任だと!? 俺は5年前のあのレースで兎の名を失った上に、こんな傷まで残した! お前に今の俺の気持ちが分かるか!?」


 言うと、男は服の袖をまくって、凄惨な傷痕を晒した。

 サラリーマンは目を細めてその傷を見て、それから小さなため息を漏らす。


「…………貴方、今ここ西海岸で自分がなんて呼ばれているか知ってます?」


「知ってるさ…………亀だ! 俺だって自分をそう思ってる、アレからチンケな運転しか出来なくなった!」


 男は怒鳴り、テーブルを思い切り叩いた。

 グラスが倒れ、中に残っていた酒が溢れる――――サラリーマンがそれを勿体無いと、テーブルから溢れた水滴を手で受け止めて飲んでしまい、それから男に再度着席する様促す。


「貴方が兎の時代は良かった――――あそこには活気と、そして秩序があった。だが今の兎は違う。アレはただ騒ぎ、野放しにし、好きに駆け回るだけの集まりだ。私達はアレの被害に遭い、客足が遠退いて店では閑古鳥が泣いている。皆願っているのですよ――――また、貴方に兎になって欲しいとね」


 兎とは、ここ西海岸に於ける走り屋のトップの事だ。

 兎の命令ならば皆は警察の足止めでも、盗みでも、殺しだってやる。


「金ならあります、マシンもこちらで用意しましょう――――だからどうか、再び兎へとお戻り下さい」




「…………俺の、レーススタイルは知ってるな?」

「勿論ですとも、即決即断。レースを取り付ければ、その日の内に必ず行う。用意は出来ていますよ」

「一度だけだからな」


 男は店を出る。

 酔いは既に冷めていた。


 店の外にはニヤニヤと男を眺める集団が――――そして道路には、2台の車がスタンバイしていた。


 1つは金髪の男――――即ち、今代の兎が乗った車。


 そしてもう1つは空席。

 この男が乗るための車だ。


「よう、ノロマの亀――――また負けに来たのか?」

「知ってるか? 驕った兎は最後に負ける――――異国日本の昔話だ」


 車のエンジンは既にかかっている――――ハンドルを握り、これから走る道を睨み、アクセルに足を置く。


 車の傍に立つ美女が旗を持ち、カウントダウンを開始。


 3…………2…………1…………そして0と同時に旗は振り上げられ、二つのエンジンが大きく唸った。


 ゴールラインは向かう先、道脇に聳え立った1本の木だ。

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