とある恋の終わり

楠木静梨

第1話

「私達、分かれよ」


 ドライブの帰り、助手席の江見えみが言った。

 運転席の浩二こうじは大きなリアクションこそ取らないが、充実した一日の締めくくりとは思えない程、表情が陰る。


「何か、俺に嫌な所でもあった?」

「違うの」

「じゃあ何で?」

「……結婚、することになったの」


 それを聞いて、浩二は口をキュッときつく結ぶ。

 突発的に出かけた文句をなんとか飲み込み、一度深呼吸をして、何とか声が震えぬように心を落ち着かせてから、重々しく口を開く。


「浮気してたの?」

「お父さんの工場が、今ちょっと危なくて。取引先を離さないように、お見合いをしなくっちゃいけないんだって」

「じゃあ何、政略結婚みたいな?」

「……うん」


 言葉を飲み込み、冷静でいてよかったと、数秒前の自分を顧みる浩二。

 しかし、だからと言って歓喜出来る状況ではない。

 

「見合いって、いつ?」

「来週、土曜日」

「すぐじゃん。相手はどんな?」

「私と同い年で、二十六。取引先の社長の、一人息子なんだって」

「会って、破断とかは……?」

「向こうからはあるかもしれないけど、私の方からは……そんなことしたら、本当に工場潰れちゃうよ」


 浩二は考えた、自分は今どうするべきなのだろうか、どうしたいのかと。


 江見は自分なんかよりもずっと大人な心持ちで、愛する家族の為に、己の人生を費やそうとしている。

 自分も江見のように大人になり、悲しみながらも快く頷いてやるべきなのか。

 それとも、江見に家族も何もかもを捨てさせて、どこか遠い街にでも逃げてしまうべきなのか。

 浩二は頭を悩ませながら、暫くの間黙って運転する。

 すると、そんな浩二の考えを見透かしたように、江見が口を開く。


「私も、本当は分かれるなんて嫌。でも、お父さんの大切な工場が潰れて、そこで働く人達を路頭に迷わせるのも同じぐらい嫌」


 江見は静かに言うと、手を硬く握る。

 また暫くの沈黙が続く内に、車は江見の住むアパートへ到着。

 だが下車することはなく、まだ黙ったままで二人ともが座っていた。


「俺には、どうにも出来ない?」

「……うん」

「もう、どうにもならない?」

「うん……」

「…………分かった。いままで、ありがとう。何もできなくてごめん」

「私の方こそ、ごめん」


 そう言って、江見はシートベルトを外し、ドアへ手を伸ばす。

 ドアノブに指を掛けたところで動きを止め、僅かに手を震わせた。


「一つ、とても酷いお願いをさせて」

 

 江見はドアノブから手を離し、浩二の方に振り向く。

 言葉がつまり、何度か言いかけては躊躇ってを繰り返し――やっぱり何でもないとでも言って車を降りようと心に決めた瞬間、声を発したのは浩二だった。


「俺からも、頼みがある」

「……何?」

「最後に一度だけ……キスをしよう」


 それは、江見が言おうとしたお願いと、一言一句違わぬ言葉。

 江見は返事などせず、浩二に体を寄せキスをした。

 普段よりも大人しく、ただ唇を重ねるだけ。

 だが長く、これまで二人で過ごした時間を思い出しながらしっかりと、キスをしたのだ。


 唇が離れると、江見は車を降りた。

 暖房の効いた社内とは違い、冷える空気にコートのボタンを占めてから、窓をノック。

 浩二が窓を下ろすと、今度は躊躇いなく言葉を発した。

 

「私からはもう連絡しないから、もう連絡してこないでね」

「分かってるよ」

「写真も、全部消すから」

「了解」

「あとは、そうだな…………」


 江見は考えてから、小さく息を吐き。

 とびっきりの笑顔を作って、浩二へ向けた。


「私のことなんて忘れて、早く次の彼女作ってね!」


 この女は何てことを言うのだと、浩二は思わず笑いを漏らした。

 アクセルに足をかけて、ハンドルを握り直し、それから笑みを真似て笑顔を作る。


「忘れてやんないよ」


 その一言だけを残して、浩二は車を発進させた。


 互いに未練はある――だが、振り返ったり立ち止まったりは決してしない。

 ただ、例年よりも寒さが身に染みる冬を、それぞれ歩き始めるのだ。

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