番外編:佐希の元彼
今日は佐希と二人で買い物に来ていた。
大学を卒業して、社会人一年目。
正式に一緒に暮らし始めた俺の部屋のインテリアを買いに来ていた。元々佐希はうちで一緒に暮らしていたようなものだったけど、きちんと荷物も運んで一部屋を佐希の部屋にする。本格的に同棲することになった。
お洒落なインテリアショップに入って、佐希とキッチン用品を見る。
「ねぇ、京。これ良くない?」
「なにそれ?」
「これで簡単に温泉たまごが作れるんだって」
「へぇー、って温泉たまごってなに?」
「え、うそだ」
「あはは。ほんとに分かんないよ。教えて?」
「じゃあ、買って帰って一緒に作ろ」
佐希が楽しそうに笑う。
本当は温泉たまごぐらい知っていたけど、こういう時の佐希は可愛いから黙っておく。
いるのかどうか分からないキッチン用品をやたら買いこんで佐希は、買いすぎかなーと満タンになったかごを見ている。
それを持ってやって、自由に買い物をさせると、おそろいのマグカップを手にした佐希がこっちを見て笑う。
「可愛くない?」
「うん。可愛い。買おっか」
「買いすぎ?」
「そんな事ないよ」
何度も聞く佐希に返事をしながら、佐希の後ろを着いて歩いた。
多分嬉しがってくれてるんだと思う。ずっと住んでいたとはいえ、正式に同棲する事になったのは初めてだし。
喜ぶ佐希が可愛い。
新しく大きなベッドを買おうかな、ベッドシーツを悩んでいる佐希を見ながら思う。
今まで使っていたベッドだと嫌かもしれない。
シーツや枕は変えた。佐希は何も言わないけど、シーツを変えるだけじゃ何となく気分がよくないかも。
今まではそんな事なんて考えつきもしなかった。
だけど、最近は佐希に対してヤキモチを妬く事もあるから、そういう事にも気付くようになった。
「佐希。ベッドシーツはまた今度にしよ」
「ん? なんで?」
「新しくベッド変えよっかなと思って。今度もう一回り大きいの買おうよ」
「えぇーもったいなくない?」
「んー、でもスプリングも弱くなってきたし。父親に言えばいいベッド運んでくれるから」
佐希は曖昧に頷いてベッドシーツから手を離した。
アンティーク小物のコーナーに来ると、佐希が楽しそうに目を輝かせた。
「わぁー、私アンティークっぽいの大好きなんだよね」
「そうなの? じゃあベッドライトくらい買う?」
「可愛いのあったら買おっかな」
佐希が物色していると、こっちをじっと見ている男が目に入った。
その男はスーツを着ていて、同じくアンティーク小物を見ている。
隠そうともしないぶしつけな視線が気になってじっと見ていると、男が俺に気付いて少し顔を伏せた。
なんだろう。
佐希の知り合い?
それか佐希があんまり可愛いから見てるとか?
「佐希、向こう行こっか」
「えー、もうちょっとここ見ちゃだめ?」
「……うん、いいよ」
そう言われたらどうしようもなくて、機嫌を取るように佐希が握ってきた手を握り締めた。男は佐希の近くをうろうろして、ようやく佐希を真正面から見た。
「……佐希」
見た目よりも低い声が彼女を呼ぶ。
佐希は驚いたように男を見て、びっくりした声を出す。
「え、うわー、久しぶり。健介」
「おう、元気だったか?」
明らかに年上の男の人に、佐希がタメ口呼び捨てで話をする。すぐに元カレかなと見当をつけたけれど、一応黙っておく。
「うん、元気だよ。大学、卒業したんだよ」
「おー、もうそんなになるか」
佐希の頭にぽんぽんと手を乗せた時点で、すでにイライラとはしてたんだ。
「あ、健介。えっと、この人彼氏なんだ」
佐希も頭を撫でられたことに警戒してか、俺を紹介してくれる。
男は値踏みをするように俺を見て、営業用みたいなうさんくさい笑みで笑ってみせた。
「初めまして」
こっちが一応挨拶すると、向こうも優雅にお辞儀をする。
「どうも。佐希は面食いだな。こんな王子様みたいな彼氏連れて」
「えぇー、うん。まぁ京はかっこいいけど」
褒めているのか馬鹿にしているのか分からない言葉なんていらないから、早くここを出たいのに。
明らか営業職にでもついていそうな男。
口がうまくて褒め言葉もすらすら出てくる、でもその反面どこか相手を見透かすような視線。
営業にしては綺麗な革靴と、ボッテガの鞄に、時計はフランクミュラー。何とも狙いすぎている。
すらっとした長身に、うっとうしくならないくらいの黒髪。
佐希を見下ろす視線は優しげで、それが妙にイライラする。
佐希と五つは離れているんじゃないだろうか。三十くらいに見えるその人は、俺を見てもにこにこと笑う。
だけど、俺は彼ほど大人じゃないから、むすっとした表情を隠せないまま、黙り込んでいた。
「佐希。帰ろ」
「あ、うん。健介さんまたね。元気でね」
「またね、佐希」
健介さんとやらに手を振った先を連れて、レジへと向かった。
かごの中身を精算して、家に送ってもらうように指示するとすぐに店を出た。佐希の手を握ってずんずんと歩いて行く俺に、慌てたように付いてくる。
「京、どうしたの? 歩くの早いよ」
大通りのど真ん中で歩みを止めた俺に、佐希が不思議そうに見上げてくる。
「ごめんね、暇させちゃって。んー、あの人、昔、付き合ってた人で。それで怒ってる?」
何となく素直に頷くのも癪で、黙ったままでいると、佐希がなだめるように首を傾げた。ほんの少し困ったような笑みを乗せて。
そんな顔も可愛すぎて腹が立つ。
「あの人何歳上?」
「えーっと、多分八個上だったかな。今三十くらい?」
「どれくらい付き合ってたの?」
「えー、一年半くらいかな」
「ふうん」
佐希が苦笑する。
機嫌を取るように俺の手を握ってくる。
別に過去の事なんて関係ない。俺の方がもっと、もっと、佐希には言えないようなぐちゃぐちゃな恋愛もどきばっかりで。
人の事を言える立場じゃない。
だけど、俺が過去に築いた身体だけの関係じゃなくて、何となく二人の間に。
お互いを懐かしむような感じが見えたから。
それが苦しかった。心臓が痛くなって、切なく軋む。
佐希が一年半も同じ人と一緒に過ごしていただなんて聞きたくもないし、見たくなんてなかった。
そんなのはただのわがままだって知っている。
そう思うと、ずっと同じベッドを使っている事なんてとても無神経に見えてきて、自分にも嫌気がさした。
「京?」
「佐希。愛してるよ」
君は俺のものだ。
何回言い聞かせたって、佐希の全ては俺のものにはならなくて、もどかしい。
例えば、この髪の一束や、小さな爪のついた小指だって、俺のものになる事はない。
全ては佐希のもので、佐希だからこそ愛しいのに。
そう、矛盾しているんだ。
だけど、今だけは俺のものだとどうか。
「佐希は俺のもの?」
「ん? うん、でもそうすると、その代わり京も私のものになるよ?」
佐希がいたずらっ子のような顔で言う。
だけど、全然いたずらなんかじゃない。
俺はとっくに君のものだ。
心の中は全て君に明け渡している。
知っているだろうか。
佐希と同棲させてもらう時に、佐希のご両親にご挨拶に行った。
見た目が整っているというだけで特に女性にはどこに行っても好かれた俺に、最初見透かすような視線をお母さんが向けて来た。
値踏みするような、決して好意を抱いていない、警戒する視線だった。
これが親というものかと実感した。
佐希がお手洗いに消えた時、ずっと黙っているお父さんと、俺を見て口を開いたお母さん。
「こんな事を言ったら佐希に怒られそうだけど」
「はい」
「別にもう新しい時代なんだからうるさく言うつもりはないけど、同棲するなら結婚が前提にあってほしいのが親の本音なのよ」
「……はい」
「もちろんあなたたちは今大学卒業をしたばかりなんだから結婚なんて遠い話でしょうけど、少しはあなたの未来に佐希がいるのかしら。いやぁ、ね、あなたがあんまり綺麗な見た目してるものだから現実味がなくって」
佐希のお母さんはそう言ったけれど。
実際は俺がどれだけ今までだらしない人間だったかを知っているのかもしれない。佐希は俺のせいで随分苦しんだし、それをこの両親は知っているのかもしれない。
それとも俺の見た目にはそういう雰囲気が出ているのかもしれない。だらしなさそうな雰囲気や人相がご両親に伝わったのかも。
反対するのも当然だ。
佐希を愛するこの両親には、到底言えないようなだらしない生活を送ってきた。
セックスする事は、息を吐く事と同じくらい自然だったし、女の子が毎日変わる事だって当たり前の事だと思っていた。
だけど、今は違うから。
この人たちに伝えなくてはいけない。
「あの、僕はまだまだ頼りないですけど、佐希さん以外と結婚する気なんてありません。彼女しか、嫌だと思っています。悲しませないように精一杯努力します。見ていて下さい」
頭を下げた。
言葉は上手な方で、すらすらと会話することに何の苦労もなかった。だけど、こんなに言葉に詰まったのは生まれて初めてだった。
「佐希をよろしくお願いします」
お父さんがやっと言葉を発してくれて、深々と頭を下げたまま、その言葉をしっかり耳に入れた。
「ちょ、京。何頭下げてんの? お母さん、京になんか言ったでしょ」
「佐希、いいんだ」
困ったように俺を見る佐希に笑いかけた。
佐希はだけど、嬉しそうに頬を緩ませて俺を見てくれた。
ご挨拶に行った時の事を思い出すと、佐希をもっと大事にしないと思う。
こんな風に駄々をこねている場合じゃなくて、もっと。もっと大人になって。そして彼女を安心させるように。
「俺は佐希のものだよ。君の事しか考えてない」
「なんか、京大人になったね」
佐希がびっくりしたように言う。それに首を傾げる。
「んー、前はもっと自分の感情優先だったのに」
「最近我慢というものも覚えたからね」
ふふんと笑うと、佐希が楽しそうに俺の腕に抱きついてくる。
髪を撫でると、俺の手に深く馴染んだ。
「京ってほんと可愛いよね」
「そう? さっきの佐希は可愛らしかったね。前の彼氏には甘えてたの?」
「え、えー、まぁ向こう年上だったから」
「ふぅん。俺には甘えてくれないの? なんか俺ばっかり甘えてない?」
「そんな事ないと思うけど……」
佐希が困ったように俺の腕を掴む。
焦っている様子が目に見えて分かって、何とも可愛らしい。
「ごめんごめん、いじめたね。ご飯食べて家帰ろっか」
「うん。お腹すいた」
ホッとしたように笑う佐希の手を引いて、ご飯に行った。
その後、家に帰ってきて、仕事のメールをパソコンでチェックする。
テーブルに座って、地べたに座りながらパソコンを見ていると、後ろから佐希が抱きついてきた。
「んー?」
振り向くと、佐希がお腹に腕を回しながらぎゅうっと抱きついてくる。
「寂しい? ちょっと待ってね。すぐ終わるから」
「ううん。時間かかてもいいよ。こうしてる」
珍しい。
こんな風に佐希が甘えてくるなんてめったにないから、やっぱりお昼の出来事を気にしているのだろうか。
「甘えてるの?」
「うん。私、京と付き合えて幸せだなぁと思って」
「そう?」
「お母さんたちも大事にしなさいって言ってた」
「ほんとに? それなら嬉しいけど」
結局パソコンのメールチェックをやめて、佐希に後ろから抱きしめられたまま、身体を揺らす。もたれかかってみると、佐希は楽しそうに笑った。
「佐希。可愛がってあげるからこっちおいで」
そう言ってあぐらをかいた太ももを叩くと、恥ずかしそうに佐希が顔を俯けた。ゆっくりと近付いてきて、足を跨ぐときに照れくさそうに笑う。
その反応が可愛くて、頬を撫でると、佐希がぶるりと身体を震わせた。
「ごめん、京。仕事の邪魔したね」
「いいよ、そのつもりだったんでしょ?」
「ち、違くて。そうじゃないんだけど」
「いいって。佐希から甘えられるのも嬉しいし」
顔を斜めにして、正面にある唇に口づける。
佐希が黙ったまま、まぶたを閉じて、黙って受け入れてくれた。
「ね、佐希。久しぶりに一緒にお風呂入ろ」
「えぇー、やだぁ。恥ずかしい」
「洗ってあげるからおいで」
「余計に嫌、自分で洗う。京だけ洗ってあげるから」
「ふぅん」
佐希を見下ろすと、「なによぉ」と怒った口調で返事が返ってきて、「はははっ」と声に出して笑う。
俺が笑うと、佐希がぼーっと見てきて、そういえばいつもそうだなと思いついた。
「なんでじっと見てくるの?」
「んー、京が笑うのって結構珍しくて。前はあんまり笑わなかったよね」
「そうだっけ?」
「うん。なんていうか、微笑むくらいはあったけど、声に出して笑う事って少なかったよ」
「じゃあ、佐希のおかげかな」
「ふふ、なんか嬉しくっていつも見ちゃうんだよね」
可愛い事を言う佐希がたまらなくて、風呂場へ行くのを変更して、寝室へと向かった。
佐希が慌てたように手を掴む。
「ちょ、京? お風呂は?」
「なんかそれよりやりたいんだけど。風呂でやると佐希怒りそうだからベッドで」
「……相変わらず露骨だよね」
佐希が呆れたように俺を引っ張る。
風呂場に連れて行かれそうになって、「どうした?」と声を掛けると、佐希がかぁっと顔を赤くする。
「一緒にお風呂入るんでしょ!」
「え、うそ。入ってくれるの?」
「ほらぁ、早く脱いで」
「えー、佐希のえっち」
「京のばか。意地悪なとこ直した方がいいよ!」
笑いながら、Tシャツを脱ぐ。
俺が上半身裸になっても、佐希はまだ靴下なんかを脱いでいる始末で、遅そうな着替えに笑えてくる。
「なに。脱がしてほしいの?」
「え、いいよ。先に入ってて」
「ふぅん。じゃあ、三分しても入って来なかったら佐希の全身洗ってあげるね」
「ちょ、えぇ!」
慌てる佐希を置いて、佐希にお風呂に入った。
湯気の向こうで、佐希の慌てる姿が見てとれた。
幸せな気分になって湯船に浸かって、目を閉じた。口元には笑みが浮かんで、早く可愛い彼女が中に入って来ないかと待ちわびる。
「佐希ー。おいで。あぁー、あと一分しかないよ」
「うそぉ! 京絶対嘘ついてる」
「ほら、あと四十秒」
「やだー。まってまって」
君との生活は笑いに満ちている。
俺は毎日君といると笑えるし、泣けてくる。
全く飽きないし、君といる未来がいつまで経っても続けばいい。甘えてくれたって、甘えなかったって、佐希は佐希だから。
俺が君にしか見せない顔を見せているのなら。
君も俺にしか見せない君を見せてくれればいい。
そうして、二人で幸せになりたい。
おわり
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