友情の一線はあっけなく
コウの着信画面をじっと見つめているうちに、電話は切れてしまった。かけ直そうかと思ったけど、顔が見たかった。どうしても顔を見たくて、涙を拭いて化粧をしてから家を出た。
下半身が少し痛かった。
雄大は付き合っていた時と同じように私を抱いたけど、私は全然感じなかった。そのせいで、下半身が痛い。その痛みを無視しながら、コウの家まで電車で向かった。
ただひたすらコウに慰めてほしかった。
マンションに着いて、部屋の前に立つ。コウはびっくりするかもしれない。私がいきなり来たらびっくりするだろう。コウの電話の用事はなんだったんだろう。
でも、心は雄大の事で闇にぶち落とされていて、泣きそうな思いに蓋をしながらインターフォンを押そうとした。その瞬間、声が聞こえる。
「ねぇ、どこにご飯食べに行く?」
「んー。居酒屋でも行くか?」
そっか。そっか。そうだよね。
あの電話の時に言ってたもんね、これでようやく彼女が作れるって。
ごめんね、コウ。こんなところまで来て。
やっとコウから離れるって決心したんだもんね、やめておこう。
こんなに辛くたって、いつかは一人で生きていかなきゃいけないんだから、コウにすがるのはやめておこう。あの人が飼っている太陽は私に向けられたものじゃないはずだ。そんな事ずっと前から知ってる。
今更何を悲しがる必要があるんだ。コウはずっと同じで、ただ、私がまた一人になった。ただ、それだけの事。
そう思って、踵を返した。
今日は歩きやすい靴にしようと思って、ウエッジソールだ。
ピンヒールと違って、音は静かだ。コウは気付かない。帰ろう。コウに迷惑をかけるのは本当にもうやめにしよう。
そう思ってエレベーターへとまた歩きだした。なるべく足音を立てないように数歩歩くと、後ろでガチャッと扉の開く音がした。
え?
思わず後ろを振り返ると、コウがジャケットだけを脱いだスーツ姿で私を唖然と見ていた。
あれ。
出てくる予定だったのかな。そんな事を考えたのかもしれない。
でもその間にも私の涙腺は急激に痛んで、コウの顔を見た瞬間、心が違う事でいっぱいになった。
「浅美? …………あ、なんかお前がいそうな気がして、何となく扉開けたんだけど、え……まじで」
コウが何か喋っていたけど、私の耳には一つも入ってこなかった。
会いたかった。会いたかった。会いたかった!
そんな激情だけが胸の内から溢れ出て、私はぼろりと涙を零した。コウの元へと走って行って、ドアを支えているコウに抱きついた。コウは私が突進した衝撃で、ドンとドアへと押されたけど、しっかりと受け止めてくれた。
わんわん泣きわめく私の背中をしっかり抱きしめると、コウは私の後頭部をゆっくり慰めるように撫でた。
「どうした、浅美。なにか嫌な事でもあったか」
「………………っ」
「ん? どうした。ゆっくりでいい。ゆっくりでいいからな」
「…………コウっ。コウっ…………」
「うん。大丈夫だから。俺がそばにいるから」
ああ、もう。コウが好きだ。好きで、好きで、どうしよう。
泣きたいくらい好きで、もうどうしようもない。しばらく抱きしめ合っていたけど、それは第三者によって遮られた。
「コウ!? 何してんの? …………ていうか、誰!?」
部屋の中の女の子だった。
コウは私の体をゆっくり離すと、涙でぐちゃぐちゃの私の顔をじっと見る。
女の子もその時、私の顔を初めて見たので、目が合った。綺麗なモデルみたいな人だった。華奢で顔のパーツが大きく小顔に配置された美しい人だった。
でも女の人は私を見てかなりびっくりした顔をして、ぱくぱくと少し口が開く。私の事を知っているんだろうか?
でも私は見覚えがない。
「コウ。浮気……? それとも私が浮気だった? この人、元カノでしょ?」
女の人はなにか勘違いをしているらしい。それでも、コウは女の人を見ないで私だけを見てくる。
「浅美。どうした。俺に話せるか?」
その力強い声に私は涙をさらに流して、コウの大きな胸板に、ドンっと握りこぶしを突き付けた。もう部屋の中の女の子なんて見えてなかった。
「コウっ!」
「どうした」
「うぅーっ……うぅー!」
「どうした、浅美。言ってみろ。何でもしてやる」
コウの顔は揺るがなかった。ただ、絶対的な私の味方だった。
いつだって、そうだった。
コウだけが私の味方だった。
「雄大を殺して!!!」
私の叫ぶようなその言葉に、コウはチッと舌打ちしてから、私の頭をきつく掻き抱いた。その締め付けが愛しくて、私は心の底からこの人以外好きになれないんだろうと思い知った。
もうそれでいい。
愛してもらえなくてもいい。
ただ、お願いだから、そばにいてほしい。
「悪い。帰ってくれるか?」
その言葉は部屋の中の女の人に向けられたものだった。
女の人は私たちの尋常じゃない様子に、戸惑ってから敵意をあらわにした。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。
謝ることなら何十回でも何百回でもするから。コウを私から取らないでください。…………どうか、私にください。
「な、何それ。コウ? 私が浮気だった?」
「……………………」
「なんなのよ、あんたら。なに、コウは私と別れんの」
「ごめん」
「…………最っ低!!」
女の人はずたずたと足音を立てて、エレベーターへと向かった。
私はコウの胸に抱かれながら、部屋の中に招き入れられた。後ろ手にドアを閉めたコウは私の肩を強く掴んで、体を少し離した。
その拍子にコウをじっと見上げる。
顔がぐっと寄ったかと思うと、あっけなく唇を奪われた。それは、七年間の付き合いで初めてだった。
私はたったそれだけで、死んでもいいと思った。
「んんっ…………ふぁ……コウっ」
胸のドキドキが尋常じゃない。きつく抱きしめられすぎて、かかとが宙に浮く。普段クールで無愛想なくせに、こんな時はとても情熱的らしく、そのギャップにくらくらとめまいがした。なんでこういう事になっているのか分からない。
でも。
私には拒否する事なんてできない。
ずっと。ずっと。こうしてほしかった。コウとキスがしたかった。今までの彼氏とのキスはキスじゃなかった。コウとして初めて、キスというのはこんなに胸が震えるものだと知った。
唇が触れあうだけで涙が出るほど嬉しいのだと知った。
「浅美……っ」
「んん…………っ」
コウが切羽詰まったように私を呼ぶ。
情事の前にするような情熱的なキスをしているのは、私とコウだ。信じられないけどそうなんだと何度も確認する。コウのいつものさわやかな香りがあまりにも近くでする。立ったまま奪われるようなキスをしていたせいで、腰が崩れそうになる。
それを見計らったかのように、コウが腰をぐっと片手で支えてくれて、私は壁に押し付けられた。どうしたんだろう。ほんとに。一体コウに何があったんだろう。
今までだって彼氏に振られて、コウに泣きついて行った事は結構あった。今まではただ振られたーって言ってただけで、今回は少し違うけど。奪い尽くすようなキスをされて、ようやく唇同士が離れる。そこに銀の糸がつーっと伝って、とんでもなく恥ずかしい気持ちになった。
私とコウがキスをした。
顔を離すと鮮明にその事実がのしかかってきて、恥ずかしさに死にたくなる。なんていうか、友達づきあいが長すぎてそういう事とは無縁の位置にいたから、私とコウがキスをしたとなると、余計に卑猥に見える。
「…………コウ?」
顔は離れたけど、まだかなりの至近距離にいる私たち。コウは私を無表情で見下ろしてから、もう一度ゆっくり顔を近づけてきた。
「んっ……」
下唇を挟むように柔らかくキスをされる。
今度のキスはあまりにも甘すぎて、目がとろんとなるのが自分で分かった。
こんなのコウじゃない。コウはこんなのしないはずなのに。混乱する頭で考えては見るものの、キスが止んだと思ったら今度は優しく抱きしめられて、とうとう夢を見てるんだと思い始めた。
「…………夢?」
「ちげぇよ」
それだけの言葉で、私はまた全身をぶるっと震わせる。
恥ずかしい。言葉だけで感じる。コウのくせに。ばかばかばか。
「……じゃあ、これなに……?」
混乱しすぎて涙まで出てきた私は、嗚咽を零しながら、コウの胸板に拳をがんっと打ちつけた。きつく打ちつけたつもりだったけど、案外力は入っていなかったらしい。それでもぴくりとも動じないコウは、私の後頭部をきつく抱きしめてから、ゆっくりとあやすように撫でた。
「知らねぇよ。自分で考えろ」
「な、なによ、それぇ」
「俺は、お前が馬鹿すぎて憎らしいよ。本当に憎いわ。頭がいかれてしまいそうになる……」
熱のこもった溜息を吐いたコウは、私から体を離すと、じっと目を見られる。それだけでぞくぞくする私を、コウは鼻で笑ってからあまりに優しい手つきで頬を滑らせた。
「ちょっとだけここで待ってろ。な?」
「え? どっか行くの?」
「いいから。待ってろよ。家から出るな」
「? …………うん」
「いい子だな。浅美」
赤ちゃんに語りかけるように甘ったるく囁くと、コウは財布と車のキーだけを持って家を出て行ってしまった。最後に玄関の扉まで鍵で閉められてしまった。
おぼつかない足取りで廊下をうろうろしていたけど、壁を伝いながら歩いて、リビングへと移動した。ソファに移動すると、なぜか高校の時の卒業アルバムが開かれていて、それに首を傾げながら膝の上に乗せる。ずっしりと重いそれをめくっていくと、まだ随分若い私が引きつった笑みで載っていた。違うクラスのコウは、仏頂面と言ってもいいような無表情で撮られていて、コウらしさに頬が緩む。
それをすっと人差し指でなぞる。さっきまで私コウと何をしてたんだろう。キスして、抱きしめられて、馬鹿すぎて憎いって言われてから、いい子だって囁かれた。
………………分からない。
いきなりの変貌がよく分からない。コウは私をどう思ってるんだろう。今までだったら彼氏に振られても、まぁ元気出せよなんて適当な事言って慰めてくれてたはずなのに。
今日は違った。
雄大に無理やりやられた事も言ってないし、結婚してた事も話してないのに、なんでこうも違うんだろう。よく分からない、ほんと。
アルバムをめくっていくと、クラス写真が終わって遠足やら修学旅行やらの写真が並ぶ。カナダに行った、その修学旅行の写真の一つに私とコウが並んでいた。二人でカナダの国旗が描かれた三角のパーティーコーンを頭に乗せて、二人で笑いあっているところだ。
それを指でなぞる。
私たちはずっと一緒にいたけど、果てしなくどこまでも友達だった。
彼氏ができたと、彼女ができたと、報告し合ったし。抱きつく事はあっても、抱きしめられた事はない。一緒に寝る事はあっても、ぴったりくっついて寝る事はなかった。
それなのになんでだろう。
雄大の事で辛い事になったから、私にご褒美をくれたんだろうか。
…………やっぱり、コウは神様かなにかかなぁ。
ぼーっと考えながら時間だけが過ぎる。
静かなこの部屋では時計のカチカチという音も鮮明に聞こえてきて、クッションを抱きしめて顔を埋めた。早く帰ってきてほしいのに、帰ってきて向かい合うのが怖い。関係が壊れるのが怖い。
それに、コウはどこに行ってるんだろう。さっきの彼女を追いかけてるのかな。それだったら、やっぱり私は邪魔だったのかな。どうなんだろ。
「はぁー…………」
大きな溜息を吐いて、クッションをぎゅうっと抱きしめると、ガチャガチャと鍵を開ける音がして、その後に、玄関の扉が開く音がした。
コウかな?
じっとリビングの扉を見つめていると、扉が開いてコウが中に入ってきた。私を見つめて、少しだけ無表情を和らげる。コウの手と、上に着ているシャツに少し血がついていて、それに眉をひそめる。
「それ……どうしたの?」
たくさん血のついているシャツを視線で追って尋ねると、コウが黙って水道で手を洗いだした。その後、シャツを脱いで洗濯に回してしまい、Tシャツを着てから戻ってきた。
「ねえ。どうしたの? なにかあったの?」
慌てて尋ねる私には答えないで、コウは私の隣にずしっと腰掛けると、腰を抱き寄せてきた。
「な、なに? コウ一体どうしたの? おかしいよ」
「……おかしくなんてねぇよ」
ただそれだけを口にすると、私を肩にもたれさせてぽんぽんと一定のリズムで頭を叩く。何なんだろう。コウの行動が訳分かんなくて怖い。
「コウ、何考えてるの?」
「…………お前の事」
心臓がドクンと一つ大きな音を立てた。
コウが分からない。七年間一緒にいてこんなに分からないのは初めてだ。……私をいじめてるんだろうか。
コウはズボンのポケットから煙草を取り出して、ジッポで火をつける。……コウの煙草を吸ってる姿が好きな私を、やっぱりいじめているように見える。
ジッポをカチカチと鳴らしてから、テーブルへとそれを放り投げた。
ガラスのテーブルはそれだけでガシャンと大きな音を立てる。
それに肩を震わせた私を、コウはきつく抱きしめてきた。世界がぐらりと揺れて気がしたけど、私の視界がにじんだだけだった。
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