第九話 願いは矛盾する

 その後、美帆子と美守は1時間ほど話をしてから帰っていった。途中、美守が眠ってしまい、抱き抱えながら帰る美帆子の姿を見て、スケキヨは

『あの頃の美帆子が、こんな立派な母親になったのか』

 と過去を思い出しながら感慨深く思った。


 しかし、彼女らが帰った後の三葉は少し物憂げだった。


 かつて一番仲の良かった美帆子が訪れたにも関わらず、その笑顔はどこか曇っている。無理もない。三葉と大島の間には、子供ができなかったのだから。


 スケキヨは、三葉の表情を見ながら、自分の無力さを感じていた。猫としてしか存在できない今、自分が彼女に何をしてあげられるのか。その答えは見つからなかった。彼女の寂しさや悲しみを埋めることができない自分を嘆いた。


 三葉は、大島の仏壇に手を合わせている間も、美帆子と笑顔で話していた時の陰りが残っていた。スケキヨの目には、それが痛いほどに映っていた。

『あの頃はもっと、俺たち二人でいろんなことを夢見ていたのに……』

 と、思い返す。子供を持つことも、賑やかな家庭を築くことも、自分たちの未来についても。だが、それらは全て叶わぬまま終わってしまった。


 スケキヨとして三葉の横にすりすりと擦り寄る。

「ありがとう、スケキヨ」

 と、三葉が小さな声で呟いた。

「モフモフっ、スケキヨ……」

 と抱き上げてすりすりされてスケキヨもご満悦だ。やわらかい肌が触れ、抱きしめられる。


 今の猫の短い腕では愛しい彼女を前のように抱きしめられない。それが辛い。

「あなたがまだここにいてくれるから、私は大丈夫よ」



 しかし、スケキヨの中には常に答えの出ない問いが渦巻いていた。


『自分が彼女のそばにいることは、本当に三葉の助けになっているのだろうか? 彼女が本当の幸せを見つけるには、どのようにすればいいのだろうか?』


 スケキヨは、三葉のことを見つめながら心の中で思案を巡らせていた。


 例の美帆子が紹介してくれた社長——確かに経済的には安定しているし、話を聞く分では三葉のことを好意的に見ているようだった。今後の三葉の生活を考えると、その再婚は良い選択肢なのかもしれない、とスケキヨは思った。


 もちろん、これは本心からの願いというわけではなかったが、現実を見れば、それが三葉の幸せにつながる可能性もあると認めざるを得なかった。自分はもう物理的に彼女を支えることはできないし、猫としての自分に何ができるかを考えると限界があった。


『人間もいた方がきっと寂しい思いも少しは減るんじゃないか…』

 とスケキヨは思うが、どこか胸の奥に引っかかるものがあった。

 彼は彼女が幸せになることを願っているが、それが自分の居場所を完全に失うことになるという現実も理解していた。彼女が他の男性と新しい家庭を築き、そこで幸せを見つけることが正しいのかもしれない。

 しかし、それを受け入れるのは、いくら猫の姿になったとはいえ、スケキヨには簡単なことではなかった。


『三葉が幸せなら…それでいいんだ』

 と心の中で自分に言い聞かせるが、その言葉がどこか空虚に響く。それでも、三葉がこれ以上苦しむ姿を見ることは耐え難かった。

 だからこそ、スケキヨは自分の胸の痛みを押し殺し、彼女が笑顔を取り戻せるならば、どんな道でも応援するつもりだった。


 再婚のことを三葉がどう考えているのか、スケキヨにはわからなかった。しかし、美帆子が紹介したあの社長がどれだけ三葉を幸せにできるのだろうか……。


『だがそいつと一緒になるにはまず会ってみないとわからない……どんなやつなのか……』


 具体的になっていくとスケキヨは頭が痛くなっていく。

 自分以外の男が自分の妻と……?! そう思うだけでどうしても耐えきれない。

 なんとも言えない矛盾に苦しめられていく。


「スケキヨ、どうしたの? さっきからガルルルって、言ってさ。お腹すいたのかな?」

「ふぎぁああ」

 なんとも情けない声しか出ないことに大島はすごく恥ずかしく感じる。


「……でもあの人……猫好きかしら。スケキヨも大事にしてもらわないとね」 


 スケキヨは心の中で叫んだ。



『当たり前だー!』




 と。猫の姿のまま三葉に対して精一杯の抗議をしたつもりだったが、結局はただ足をバタバタさせるだけの行動に過ぎなかった。

 そんな姿を見て三葉はクスクスと笑い、スケキヨはその笑顔を見るたびに少しホッとする気持ちを感じる。


 三葉が笑顔を見せるたび、スケキヨは改めて思う。彼女が幸せでいてほしいと。

 だからこそ、三葉の再婚を考える自分がいた。それでも、その再婚相手が自分以外の男だという現実を思うと、嫉妬と無力感で胸が締め付けられる。

 心の中では

『自分が彼女を幸せにするべきだ』

 と叫んでいるのに、現実には猫の姿で何もできないという事実が、スケキヨをどうしようもなく苛立たせていた。


「スケキヨ、もしかして嫉妬してるのかな?」

 と三葉が冗談めかして言った。スケキヨはその言葉に一瞬動きを止めたが、すぐにまた猫らしい行動に戻り、まるでその指摘を否定するかのように三葉の膝に乗った。


「冗談だよ」

 と三葉は笑顔を浮かべて言ったが、その笑顔には少し寂しさが混じっているように見えた。スケキヨはそんな彼女の表情を見逃さず、

『やはりまだ完全には元気を取り戻していないのか』

 と感じた。自分が猫として存在することで、少しでも彼女の心の支えになれればいいと願うばかりだった。


「このまま、三葉が笑顔でいてくれるなら…それが一番だ」

 と、スケキヨは心の中で自分に言い聞かせた。そして今日も、彼女が少しでも笑顔を見せる瞬間を作るため、スケキヨとしての役割を全うしようと決意した。



 ……




 その日の夜、三葉が静かに眠りについたのを確認したスケキヨは、自分の思考にふけっていた。考えることはやはり彼女の将来のことばかり。


 だがふと思い出した、三葉と再び再会した日のことを。



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