第1話『夢のオワリと記憶のハジマリ』
「……さん。」
「お客さん!!」
劈くような少女の声が周囲に響き渡り、俺は目を覚ました。
「到着したって言ってるでしょ?」
そこには眼球の奥を覗き込むようにこちらに視線を向ける白髪の少女がいた。
白髪と言っても、毛先にいくにつれて青がかっている、単に白髪と言い切れない髪色である。
その子は身体をこちらに寄せながら唇を動かした。
「お客さん、聞いてる?」
透き通った可愛らしいその声で構成される文章を少年は上手く理解できずにいた。
「客?」
理解できない質問に対し、疑問が自然と声に出る。
俺の腑抜けた声に彼女はこう答えた。
「そうよ。わざわざアルマ国王都からカーナルス王国領ギリギリの辺地まで送り届けてくれって言ったの貴方でしょ?それなりの対価は頂くわ。」
──アルマ…?カーナルス王国?
少年の記憶に無い国達。
寝惚けた彼が周りを見渡しても見知らぬ光景が広がっている。荷台のような場所に鎮座する少年は状況を理解する事が出来なかった。
「お金よ。お金。金貨にしても5枚くらいは頂くなくちゃ、割に合わないわよ。」
そう彼女は急かす。
しかし、懐を探っても貨幣も紙切れも、何もかも出てこない──。恐る恐る視線を上げると、彼女はこちらが無一文という事実に気がついたらしい。
「信じられない!貴方がそれ相応の金額を支払うからって、言ったから!王都からこんな辺地まで送り届けたんじゃない!」
一喝すると冷静さを取り戻した彼女は呆れたように溜息をついた。
「名前とその徽章の家名。教えて。後日請求するから。」
そう静かに言うと彼女は手帳を取り出した。
──ナマエ…?名前?
「俺は……俺は…。」
少年が名乗ろうとした刹那、とてつもない嫌悪感と喪失感が彼の胸中を支配した。それと同時に、何も意識せずとも名乗れたであろう、家の重みを捨てた軽い名前が分からない。彼の脳という本棚にしまってあったはずの記憶という日記には、何も記されていなかった。
「あっ…。うっ……。」
何度も何度も頭の中を探しても、過去の記憶の断片はどこにも見つからない。
「貴方徽章を身につけているのに、何も知らないふりしてもこの国では徽章管理者によって身元も、住所も何もかも分かるの、知っているわよね。自ら口を割った方が身のためだと思うけど?」
そう彼女は言った。
「分からない。全部わからない。」
少年はそう答える他無い。記憶が無いという本人にしか理解し難い状況で少年本人ですら、この状況を理解出来ずにいた。理解できないと口に出せるのに、数分前の事が分からないという、恐怖感と喪失感が彼の胸中を支配する。
恐怖が身体を支配しきる事を恐れた少年は、それから遠ざかるべく、こう叫んだ。
「分からない!分からないんだよ…!」
その言葉を聞いた彼女は、得体の知れない何かを見るような眼差しをこちらに刺し付ける。
「貴方……正気?」
少年は自分が正気じゃないのはよく分かっていた。しかし、彼を傍から見れば財布を忘れた事を、何も知らないフリをして、その場を切り抜けようとしている悪人である事は明白である。しかし、少年が正気では無い己の感情を鎮めようと奮起した時、少女に問われた文言によって混乱した心の中心で、彼はひとつの疑問に辿り着く。
──俺は……俺は誰だ?
その疑問を抱いた刹那、少年は胸中が引き裂かれるような激痛を感じ、意識が遠のいていく事を実感した。
***
何かを語りかけるその女の姿が見える。その背後にはこちらに背を向けた状態で立ち尽くす男の姿があった。暗い暗いトンネルの中で──。女はフードのようなものを深々と被っていて、目線も顔の全体像も分からない。
既視感を感じるこの光景に、直前まで知らないものだらけだった世界の中心にひと握りの安心感を抱くことができた。
静けさという事実の中に鼓膜を貫くような、殺意ある音という概念がまじ合わさっている。混沌とした静かな騒音によって支配されたこの空間で、語る女はこう呟く、
「──必ず会いに来てね…。」
と。
やはりその言葉だけが聞き取れる。
そう「やはり」だ。そう感じる事ができるのも、少年がこの夢を見た経験があるという気持ちを抱いた根拠である。
何度も見た、再開をひたすらに望む女の口が閉じた頃、少年は今までに感じていた既視感のある夢とは少し違う何かを察知した。
──夢が終わらない。
空白だらけで埃を被ったこの夢の記憶を遡るが、先程の女の台詞を最後にそれ以降何も思い出せない。
少年が記憶が抜け落ちたと自覚した先程までとは違う感覚で、この夢を見るにあたって続編のストーリーが追加されたような感覚、と言った方が分かりやすいだろう。
既視感によって生み出されていた安心感はあっという間に消え去り、何が起こるか分からないという恐怖が少しづつ彼の夢を支配し始めた。その恐怖に支配されかけた少年を安心させるかのように、女の背後に立つ男は低い声で呟いた。
「ここでの記憶はお前自身の名前以外、直ぐに忘れる。来るべき時が来たら思い出すんだ。そういう契約だらな。だからこそ…その時が来たら頼んだぞ。ルーカス。」
***
気がつけば無一文を咎めようと善処する1人の少女の目の前に俺はいた。
「──なんで泣いているの…?」
そう少女は少し驚いた表情で言った。
なんで涙が零れたのか。苦しかったはずの過去も、楽しかったはずの思い出も、何もかも抜け落ちた少年は己の涙の理由すら知ることを許されない。
「貴方本当に何も覚えていないの?突発性の魔病かもしれないし、徽章を持っているのなら、逃げることもできない……」
白髪の少女は戸惑いながらもそう呟き、少し悩んだ末、
「分かった。信じる。」
と、続けた。
「な…何を…?」
「貴方が何も覚えていないって事を。」
彼女の意外な返答に少年は戸惑いを隠せなかった。いきなり何もかも覚えていないと喚く少年を、この少女は簡単に信じたのである。意味不明だと突っぱねられる事を覚悟していた少年は、あまりにも予想外の回答に対して、
「なんでそんなに簡単に信じられるんだよ。」
そう呟いた。
しかし、少年の疑問に対し、彼女はこう返した。
「貴方の涙にやましい魂胆は垣間見えなかった。これでは不満?」
「不満は無いけど、不思議ではあるよ…」
記憶を失った少年、ルーカスは涙を静かに拭った。
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