ビギナーズラヴァーズ 〜恋愛に臆病な男と恋を知らない彼女たちの協奏譚〜
雨宮悠理
第1話 白き花の声
放課後の校庭には、長く伸びた影が静かに交差していた。空は薄紅色に染まり、校舎の窓ガラスが夕陽を反射してキラキラと輝いている。遠くからは部活の掛け声やボールが跳ねる音が聞こえ、どこか懐かしい匂いが風に乗って漂ってきた。
「旧温室の掃除、お願いできる?」
柔らかな声でそう言ったのは、
「もうすぐ取り壊しになるから、片付けだけお願いね。蒼井くんがやってくれると助かるの。」
その穏やかな微笑みと柔らかな声が、妙に頭に残っている。
(……あの人に頼まれたら、断れないだろ。)
そんな考えが浮かび、少しだけため息をつきながら足を動かし始める。先生には特別な恩義がある。頼まれたら最後、俺には断るという選択肢がない。
校舎裏にある旧温室は長年放置され、今やほとんど誰も近づかない場所だ。視界に入ってきたその建物は、錆びついた鉄骨に薄汚れたガラス窓、そして全体を覆うツタが古びた雰囲気を漂わせている。
錆びた鍵を鍵穴に差し込み回す。当然スムーズに鍵が回ることはなく、やや無理矢理に立て付けの悪くなっている扉を開けた。
「こんなボロいとこ、何を片付けるんだよ……」
中に足を踏み入れると、湿った土と枯れた植物の匂いが鼻をつく。夕陽が割れたガラス越しに差し込んでいるが、それでも温室全体は薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。
翔は一歩踏み出すたびに、床に散らばる枯葉を踏みしめた。微かな音が室内に響くたび、妙に自分の動きが目立つ気がして落ち着かない。
(さっさと終わらせるか。)
そう思った矢先、耳に微かな声が届いた。
「……ずっと、あなたのことが好きでした!」
足が止まった。
(……なんだ?)
翔は耳を澄ます。誰もいないはずの温室で、確かに聞こえた声。それは真剣で、それでいて練習でもしているような不思議な響きだった。
声のする方へ視線を向けると、薄暗い奥にかすかな人影が見える。
(こんな場所で……一人で何をやってんだ?)
少しずつ足音を忍ばせながら近づく。奥に見えたのは、制服姿の女子生徒だった。長い黒髪がさらりと揺れ、壁に手をついて何かを繰り返している。
翔は、その姿に見覚えがあることに気づいた。
(
どうしてこんな場所に――
細い腕が白い壁に突き出されている。手のひらが壁を押さえつけるように広げられ、まるで誰かに「壁ドン」をしているかのようだった。その腕の主は、翔もよく知っている「白崎花音」だった。いや、正確には「知っている」というより、「見たことがある」存在だ。
整った顔立ち、上品な佇まい。校内では専ら「高嶺の花」だと囁かれる彼女が、まさかこんな場所で――こんなことをしているなんて。
翔は目を疑った。
「……あなたが好きでした! ずっと……前から……」
花音の声は、壁に向かって真剣に投げかけられていた。まるで相手が本当にそこにいるかのような迫力だった。
その瞬間だった。
足元の枯れ枝を踏みつけた音が、パキッと静寂を破った。
翔は思わず息を呑む。「しまった」と思う間もなく、花音がびくりと体を震わせ、振り返る。
「誰……?」
彼女の大きな瞳が翔を捉えた瞬間、彼女の表情は一気に赤く染まった。
「誰……?」
声の主――白崎花音が振り返り、視線が翔を捉えた瞬間、翔は息を呑んだ。学校の誰もが憧れる「高嶺の花」がここにいるというだけでも驚きなのに、彼女の表情は驚きと困惑が入り混じり、まるでお化けでも見たかのように固まっていた。。
「えっと……白鳥先生に掃除をお願いされてさ。それでここに来ただけなんだけど……」
翔がそう言うと、花音は一瞬ぎこちない笑みを浮かべた。
「あら……そうだったの。ここに人が来るとは思わなくて……驚かせてごめんなさいね。」
彼女は声を落ち着け、優雅に髪を整えながら、努めて普段通りの振る舞いを装う。
(やっぱり、学校一の美少女って感じだよな……)
そう思いながらも、翔の脳裏には先ほどの「壁ドン」の練習が鮮烈に残っていた。妙に耳に残るセリフの調子や、真剣そのものだった彼女の表情が忘れられない。
「いや、別に謝らなくても。ところでさ……」
つい口をついて出た言葉に、自分でも「しまった」と思う。
「あれは演劇の練習か何か?」
その瞬間、花音の顔がピタリと固まった。
「……練習?」
猫を被ったような微笑みが、わずかにひきつる。
「いや、その、なんか壁に向かって……セリフみたいなものを……」
翔が曖昧に言葉を濁すと、花音は無言で彼を睨みつけた。その瞳には明らかにさっきまでとは違う鋭さが宿っている。
「……見たのね。」
低く落とされたその声に、翔は思わず身構える。
「いや、見たっていうか……その、偶然通りかかっただけで――」
「あなた……見てはいけないものを見てしまったのよ。」
花音は目を細め、静かながらも圧のある声でそう告げる。その声に、翔は思わず後ずさった。
「……ごめん。でも、別に悪気があったわけじゃなくて――」
「そんなの関係ないわ!」
花音は勢いよく壁を叩き、翔に詰め寄った。その顔は怒りと羞恥で真っ赤に染まり、まるで獲物を逃がさない猛禽類のように翔を睨みつけている。
「誰にも言わないで。このことは私とあなたの秘密よ。絶対に口外しないって、誓いなさい!」
翔はその迫力に押され、渋々頷くしかなかった。
「わかった。誰にも言わない。約束する。」
花音は少し息を吐き、表情を緩める。だがその直後、何かを思いついたように翔を見つめ、声の調子を変えた。
「でも、それだけじゃ足りないわ。」
「……足りない?」
「見た以上、あなたには責任を取ってもらうわ。」
翔はその言葉に困惑する。
「責任って……?」
「私の練習相手になって。」
その唐突な提案に、翔は絶句した。
ビギナーズラヴァーズ 〜恋愛に臆病な男と恋を知らない彼女たちの協奏譚〜 雨宮悠理 @YuriAmemiya
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