あいうえお

ろくろわ

十七歳の秋

 小さく開けた窓から入る風がカーテンを揺らし、少し肌寒く感じる教室。黒板の上で踊るチョーク。紙が擦れてページが捲れる音に誰かの規則正しい寝息と、声にならない誰かと誰かの内緒話。そんな音も薄い膜に包まれている様に、どこか遠くに聞こえる騒がしくて静かな時間。その中にすぅっと私の耳に届く心地のよい低い声。


「……ほ。……ざわかほ。相澤あいざわ佳穂かほ!起きてるか?」


 静かだと思っていた教室に音が戻り、私を見る数人の視線を感じた。そして今度はハッキリと私を呼ぶ声が聞こえる。


「相澤。そんなに俺の話は退屈か?」

「はぁ……。いえ、高橋たかはし先生。そんな事はありません」


 私をからかう様に軽い調子で話す高橋先生に、つい気の無い返事を返してしまったが、本当にそんな事は無いのだ。現国の高橋先生は授業も面白いし、むしろ集中してずっと眺めてしまうくらいだ。それにそれだけじゃない。


「そうか?微動だにしないから寝ているかと思ったぞ。まぁいい。さて、相澤も帰ってきた所で今日の授業はここまでだ。黒板に書いてある事はテストに出すから、しっかりと残しておくように。相澤もいいな?」

「はい。分かりました」


 高橋先生に言われ時計を見ると、いつの間にか授業終了まで五分も無かった。どうやら本当に長い時間眺めてしまっていたらしい。高橋先生は教材を片付け「まだ鐘が鳴ってないから静かにしろ」と言いながら私を見て言った。


「それと相澤。この後、進路相談室に来い」


 私は高橋先生に呼ばれる理由を知っている。「はい。分かりました」そう小さく答え、終業の鐘の鳴る前に教室を出る高橋先生の背中を見送った。


 ◆


 進路相談室は、私達の教室から少し離れた旧校舎の二階にある。高橋先生に呼ばれた相談室に向かう途中、授業を終えて足早に帰る人やグランドから運動部の元気な声が聞こえ、旧校舎の四階からは、まだ人が集まっていないのか、ソロパートを練習している吹奏楽部の管楽器の音も聞こえる。教室から進路相談室まで五分もかからない距離を私はゆっくりと歩いた。

 旧校舎の中は思いの外、静かだった。私は進路相談室の前で大きく息を吸うとドアを三回ノックする。先生がいるか心配だったが「相澤か?入れ」と高橋先生の声が聞こえ、私は安心して中に入った。


 相談室の真ん中に置かれた机の上には、今しがた授業で使った教材が置かれていた。どうやら高橋先生は授業後そのままここに来たようだ。


「相澤、取り敢えずそこの椅子に座りなさい」


 そう言って机に対応する椅子の一つを指差した。私は言われた通りに椅子に座り、その様子を見た高橋先生も向かいの椅子に腰かけた。


「さて早速本題だが、何で呼ばれたか分かるか?相澤」

「はい分かっています」

「そうか、それなら話は早いな。じゃあこれはいったい何だ?」


 高橋先生はスーツの内ポケットから一つ、薄い水色の便箋を取り出し、机の上に置いた。それは見覚えがある。だって私が出したものだから。


「高橋先生、それは恋文です」

「そこはラブレターって言うんじゃ無いんだな」

「はい。だって高橋先生、ラブレターって言うより恋文て言う方が好きでしょ?私の気持ちを書きました」


 高橋先生は「そうだけど」と笑っていた。


「いや、そう言うことじゃなくて。つか今時、気持ちを伝えるにしても他にやり方があるだろう?」

「私はこれが良かったんです」

「そうか。まぁ相澤らしいが。だかな、これは受けとれん」


 高橋先生はしっかりと私を見て話す。気持ちを受け取れない事。そんな事は知ってる。ただこれは私が伝えたかっただけ。


「高橋先生、その恋文を見てどう思いました?」


 高橋先生は一度恋文に視線を落とすとすぐに答えてくれた。


「字が綺麗だと思ったよ」

「先生、そこは気持ちが伝わったとか嬉しかったか、そんなんじゃないんですか」

「相澤がどう思うか聞いたんじゃないか。全く、まぁ先生達の中でも若くて格好いい俺に恋文を出したい気持ちは分かる。だけど俺の何がいいんだ?同級生にも俺程ではないが格好いい奴や優しい奴は沢山いるだろう?」


 高橋先生は字が綺麗だと本気で答えてくれた。私が少しでも大人に見られたくて、綺麗に書こうとした字。力が入って濃くなりすぎた字。まっすぐ書きたかったのに、右に上がってしまった字。その字が綺麗だと褒めてくれる。そう言うところですよ。私が惹かれたのは。自分の事を格好いいなんて、ふざけているようで、でもちゃんと真剣に答えてくれる。ちゃんと教師として線引きをして答えてくれる。それに


「私、高橋先生が授業中にボソッと言った言葉を好きになったんです」

「なんだそれ?」


 それは高橋先生にとっては何気ない言葉だったんだろう。いつかの授業で、高橋先生は「字って凄いよな。普段話す言葉を形にあらわす。残すってどうして出来たんだろうな。残った字は今もこうやって現代まで伝わっている。タイムマシーンみたいだよな。まぁそこは古典の先生の分野なんだろうけどな」て笑ったあの言葉。私はあの時ハッとしたんだ。私は字を知っている。『』と書いて『』と読むことを知っているし『』と言う音が『』って書かれることを知っている。幼い頃、字が読めなかった時があった筈なのに、読めなかった時の気持ちはもう思い出せない。今でも読めない字はあるけれど、漢字の形や前後の文でその意味が何となく分かる。だけどそれは字を知っているから。読めるからだ。それに字は確かにタイムマシーンだ。形に残るから、その時の言葉を未来に残せる。これって凄いことだと気付いた。そしてそれを気付かせてくれた高橋先生の授業がとてもキラキラしたものに見えた。先生の字は授業が終わると消えてしまう。その一瞬の間だけこの世に残る。だから私はずっと先生の字を眺めてしまう。


「高橋先生、一つだけお願いがあります」

「何だ?付き合ってと言う話なら付き合えないぞ」


 高橋先生は軽く流しながら、でもちゃんと聞く姿勢を見せてくれている。


「私の恋文を捨てないで、ずっと持っていて欲しいんです」

「何でだよ」

「その恋文は十七歳の私の想いです。言葉だけの想いはきっと変わっていきます。でもその恋文の字はいつ見てもずっと十七歳の私です。一年後も十年後も五十年後もきっと」

「俺は相澤の気持ちには答えられんぞ」

「それでいいんです。私の高橋先生を好きって気持ちは、普通の恋人になりたいとか、そんなんじゃないんだと思います。きっとこの先、私は素敵な人を見つけて好きになって恋をすると思います。でも先生に対する今の想いは伝えておきたかったんです。だから……」

「ずっと持っておくなんて保証はしないぞ?」


 高橋先生はそう言いながら、私が書いた恋文を大事そうに胸の内ポケットにしまった。


「有り難う御座います。それでいいんです」

「……なぁ相澤。いい奴見付けろよ?俺よりいい奴なんて沢山いるんだからな」

「知ってますよ」


 それから一言、二言、高橋先生と話をして私は教室に戻った。旧校舎に響く吹奏楽部のラプソディ・イン・ブルーを聴きながら。


 ◆


 窓が閉められて誰もいない教室は、ひんやりとして静まり返っている。遠くで吹奏楽部と運動部の音が聞こえる。黒板には高橋先生が書いた授業の字が残されている。私はその字の横に『あいうえお』と書いた。うん、ちゃんと読める。言葉の『』は『』の形だ。最初に声の音を字にした人は凄いと思う。

 私は黒板に残る高橋先生の声に触れて、横に並べた『あいうえお』を見る。どう見たって先生と生徒の字だ。

 そうだよ。私は高橋先生と特別な関係になりたかった訳じゃないんだ。誰に言う訳でもなく、そう呟き、私は『あいうえお』の字を消して高橋先生の字の隣に『ばぁか』と書き教室を出た。


 黒板には十七歳の私が背伸びして残したばぁかが残る。私はあの言葉を消せない。だから誰かに消されるまではそっとそのままにしておくのだ。



 了


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あいうえお ろくろわ @sakiyomiroku

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