if 潮風を纏う少女

 



「なぁ、透真。旧校舎の取り壊しが明後日に決まったんだけど一緒に行くか?」


 僕の家を訪ねてきていた親友のはるが突然そう切り出した。

 僕たちの通った高校で教師になった陽は、生徒とともに旧校舎の片付けをしていた時に、文芸部に入っていた頃の僕のことを思い出したらしい。


「いや、大丈夫だよ。僕は部外者だし……」


「でも、未練……とは違うかもしれないけどさ、見ておきたいんじゃないか? 大切な場所、だったんだろ?」


 陽の言葉に、僕は何かを言おうとして飲み込んだ。大人になってしまった今、言ってはいけないこともあるのだと、飲み込まなければならないこともあるのだと、言葉が重くなっていく。


「……千夏先輩」


「…………え?」


「お前が探してた先輩。まだ、見つかってないんだろ。吹っ切れたって言ってるし、確かに引きずってるわけじゃないのはわかる。だけど、過去を振り返らないって常に正しいわけじゃないんじゃないか?」


「……僕は前を向いてるよ。もう、過去は振り返らなくていいと思ってる」


「わかってるよ。でも、たまには振り返ってみて、心に折り合いをつけるのも必要なんじゃないか。後ろ向きになるわけじゃない。ちょっと振り返って、また前を向けばいいんだからさ」


「…………はる


「なんだよ、またお節介だとか……」


「いや、凄く先生みたいだなって思って。……そっか。後悔はしてなくても、未練が少しくらいあっても、振り返ってもいいんだ……」


 なんとなく、前を向き続けなければいけないと、振り返ってはいけないと思っていた僕に、陽の言葉がじんわりと沁み込んだ。

 先輩に会いたかった過去の僕の気持ちを、無理に忘れなくてもいいんだ。


「これでも先生やってるからな」


「ありがとう、陽。やっぱり、僕も少しだけ見に行ってもいいかな。邪魔にならないようにするから」


「おう、いいぜ! まぁ、学校側はOBの作家大先生が来るって言えば、むしろ感激するから大丈夫だと思うけどな」


 軽口を叩く陽を肘で小突いて、僕はあの夏の文芸部の部室に思いを馳せた。




 ◇ ◇ ◇




「おー、来たな。透真」


 旧校舎取り壊しの当日。

 僕は待ち合わせをしていた陽の元へと駆け寄った。

 隣にいるのは陽の生徒だろうか、女子高生が陽に隠れるようにして、その腕に封筒を抱えたまま俯いて佇んでいた。


「おはよう、陽。こちらは……陽の生徒さん?」


「そ。この前話しただろ。文芸部に興味があって、旧校舎の片付けを手伝ってくれた奴。物好きなのか、取り壊しを見に来たいって言ってたから、ついでに連れてきた」


「えっ、それじゃあ、やっぱり部外者の僕は邪魔なんじゃ……」


「大丈夫、大丈夫。元文芸部の俺の友達も来るって話してあるし。それに……なんと! お前の小説の大ファンなんだってさ! しかも、『潮騒の心臓』。お前のデビュー作からの筋金入り!」


 陽の言葉に、少女が緊張したように封筒を握る指を震わせた。


「なんだよ、日向。いつもの図々しさはどこ行ったんだ?」


「う、うるさいな! 陽ちゃん、デリカシーが足りないって言われない?」


 陽に隠れながら、言い合う二人を微笑ましい気持ちで眺めていた僕は、助け舟を出すつもりで少女の前に右手を差し出した。


「……えっと、デビュー作から読んでくれてるなんて……なんか僕も緊張しちゃうな。その、伊澄いすみ透真とうまです。一応、作家をやっていて……読んでくれてありがとう」


 少女はおずおずと手を差し出して、緊張しているのか俯いたまま握手を返してくれた。


「……あのっ……!」


 少女は抱えていた封筒を僕に手渡すと、震える声で頭を下げた。


「私のこと、覚えて……。じゃ、なくて……これ、私が書いた、んです。読んで、貰えますか……?」


 不安そうに顔を上げた少女先輩は、僕の記憶の中の姿のままで、思わず手渡された封筒を落としそうになった。


「…………千夏、先輩?」


 僕が先輩の名前を呟くと、先輩は安心したようにあの日のままの笑顔で僕に笑いかけた。


「……久しぶり、後輩くん。少し見ないうちに、キミは大人になっちゃったね」


 あの夏を過ごした先輩が、僕の目の前にいる。


「……遅くなっちゃってごめんね。……まだ、私の小説も読んでくれる、かな?」


 僕は熱くなった目頭を抑えて、受け取った封筒を大切に抱きしめた。


「…………当たり前じゃないですか。ずっと、待っていたんですよ? 先輩あなたが書いた小説を、僕も読みたかったから……」


 しゃがみこんで今にも泣き出しそうな僕の頭を、潮風を纏った先輩が嬉しそうに優しく撫でた。先輩の瞳が潤んでいるのが見えた。



 ねぇ、先輩。僕は、ずっと先輩あなたに会いたかった――。



 滲んだ涙の粒を、夏の潮風が攫っていった。


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