第3話 言葉の海に溺れてしまう
「ねぇ、後輩くん」
「なんですか?」
暑い日の猫のように窓際の机の上で溶けている先輩が、顔を上げて気怠げに僕に声をかける。
入部希望だと言うから入部届けの用紙を持ってこようとしたら、手続きが面倒だからと断られてしまった。どうやら、この先輩は相当な面倒くさがりらしい。
「これさ、二人でいる意味あるかな?」
「何がですか?」
「何がって、これじゃあ別々に本を読んでるだけじゃない! 全然、部活っぽくない!」
先輩が現れたからといって、これといった活動指針を示すわけではなく、いつも僕がしていたように同じ空間でそれぞれ好きな本を読んでいるだけだ。それが、先輩は不服だったようだ。
前の席に座っていた先輩は、僕の方を振り向くと向かい合うように座り直した。
「まぁ、文芸部ですからね。本を読むくらいしかないんじゃないですか? あ、これ、回し読みします?」
「そうなんだけど! ……でも、なんか思ってたのと違うって言うか、私はもっと本の感想語り合ったり、なんか部活っぽいことがしたかったの!」
先輩が机に突っ伏しながら、僕の方を見上げて頬を膨らませた。
「……誤解させたくは無いので言いますけど、感想を語り合うとかそういうの、多分出来ないと思います」
「なんで!?」
「先輩が嫌とかではなくて。さっきも言いましたけど、僕、人と会話するのって苦手なんです。だから、申し訳ないんですけど……」
「言葉が出てこないっていうあれ? でも、私だってそういうのはあるし、気にしすぎなんじゃない? 今だって普通に話せてるよ?」
説明したくても、それの言語化すら難しくて考え込んでしまう僕を、先輩は急かせることもなく、静かに次の言葉を待っていてくれた。
「相手の言葉に返そうとすると、頭の中に沢山の言葉が浮かび上がって……それを繋ぎ合わせて、いくつもの回答パターンを頭の中で練習して、そうやって考え込んでいる間、黙り込んでしまう間に無視してるみたいになって、相手に気を使わせてしまうんです」
そうなった時の空気が嫌で、とたどたどしくも何とか伝えようとすると、先輩はあっけらかんとした様子で言った。
「それってさ、言葉が出ないんじゃなくって、言葉が出過ぎて困ってるんじゃないの?」
「えっ?」
「だってそうでしょ。その一瞬でキミの頭の中には沢山の言葉が溢れ出していて、たった数文字の言葉の中にその気持ちを詰め込められないから、キミは言葉に出来なくなっちゃうんでしょ?」
自分でも理解していなかった事実が、先輩の言葉によってすとん、と心の隙間にぴったりとはまるような感覚がした。
「そうだ! いいこと思いついた!」
先輩が立ち上がって、こちらをびしっと指さした。
「私達も小説、書いてみない?」
「えっ」
小説は読むものであって、自分なんかに書けるわけがない。そんなこと、考えたこともなかった。
「言葉が出てこなくて黙っちゃうならさ、それを文章に吐き出してみたらいいんじゃない? 小説なら会話みたいに相手が待つ時間も無いし、納得いくまで考えられる。キミがじっくり時間をかけて紡いだ言葉を、そのまま伝える事が出来るよ!」
「そんな無茶苦茶な……」
「ほら、リハビリだと思ってさ! その感情に繋がる言葉が選べるようになるかもよ? それに、すっごく文芸部の部活内容って感じがする!」
「ひょっとしなくても、先輩……そっちが本音でしょう」
「そんなこと、ないよ……? ね、駄目?」
上目遣いでわざとらしく潤ませた視線を送ってくるなんてずるい。にじりよって来る先輩に、僕はたじたじと後退りをする。
「そんな、小説なんて書いたことないし……」
「大丈夫! 私も書いたことないけど、なんとかなるよ。ねっ?」
「……その自信はどこから来るんですか」
「もうすぐ夏休みでしょ。夏休みにさ、文集創ろうよ! 取材に出掛けたりー、合宿するのもいいね! 沢山思い出つくろうよー」
「あ、この人ただ理由をつけて遊びたいだけだ……」
「そんなことないよ! 部活動って感じの活動したいんだもん。それに、ほら、私お喋りでしょ。話相手としてもいい練習になるんじゃない? ね、決まり!」
半ば強制的な先輩に押し切られる形で、僕達文芸部は夏休み明けまでに文集を創ることになった。
強引な先輩の提案を断りきれなかったのは先輩の勢いに負けてしまったのは勿論あるけれど、僕も人の心を動かすような小説が書けたら、と思うと挑戦してみるのも悪くは無いような気がした。
「先輩、本当に小説書けるんですか?」
「透真くん……もしかして、私のこと馬鹿だと思ってる?」
「そうじゃないですけど……先輩の言葉って真っ直ぐだから、なんか小説で見かける遠回しな表現とか出来なさそうだなって思って」
「ふぅん、いい度胸だねぇ。後輩くん……。そこまで言うなら見せてやろう、先輩の力を! なんか問題出してよ、いい感じの表現してやろうじゃん」
やばい、先輩の地雷を踏んだのかもしれない。後悔するには遅く、先輩は目を
「じゃ、じゃあ……言葉が上手く出てこない、をいい感じに言ってみて下さい」
「……こ、言葉を紡ぐことが叶わない、とか?」
「あー」
「あーって何、言いたいことがあるなら言えー!」
「いや、意外といい落としどころだったなって思って」
「うぅ……悔しい。けど、わかるよ。なんか、まだエモさが足りてない気がする……。じゃあ、次は透真くんの番だからね」
「えっ、僕もですか!」
「当たり前じゃん。文芸部の先輩として、いいところ見せて欲しいなー」
「……ずるい。後輩くんって呼ぶ癖に……」
なんか言った、と笑顔の圧力に押されて、僕は恥じらいながら応えた。滑ってしまったらと思うと、どうしても気恥しかった。
「言葉の海に溺れてしまった、とか……。……なんか、言って下さいよ……」
穴があったら隠れたい。僕は赤く染まる顔を隠したくて、顔を腕で
「……いや、良くない? 普通にエモいんだけど! 溺れるって何その発想、凄く良いよ!」
「……そ、そうですか? 先輩が言葉が出過ぎて困ってるんじゃないかって言ってくれたから、なんか溺れてるみたいだなって思って」
「苦しさも伝わるし、凄く良いイメージだと思う! まぁ、私のおかげみたいだけどね!」
そう言うと、先輩は楽しそうに立ち上がると踊るようなステップで部室の奥にある黒板に向かい、『テーマ』と大きな文字で書き殴った。
「キミの隠れた才能も見つかったことだし、文集創り頑張ろうね! それにはまず、文集の『テーマ』を決めないと! 明日の部活はテーマ決めにするから、それぞれテーマを考えてきて持ち寄ろうね。それじゃあ、解散!」
こうして、先輩の一方的な宣言によって今日の部活が終わり、明日の部活内容が決められたのだった。
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