3.敵前上陸
上陸作戦開始の一時間前に迫った午前四時。ラルヴァたちは重い背嚢を降ろして、上陸用の防水加工された背負袋に必要最低限の支給品を詰め替えた。軍靴を脱いで、砂に埋もれにくい水陸両用靴に履き替える。最後に鉄帽を被って、準備完了だ。
午前五時、太陽が水平線から顔を出した。空が水色から橙色に変わり、闇に隠れていた海面の波模様も見え始める。
先遣隊を乗せた軍艦はハイシャン湾に入っていった。三十分ほど経つと、窓越しに陸地が見えてきた。陸地からいくつか黒煙が立ち昇っている。煙が雲のように流れる上空を小さな影が複数横切ってゆく。爆撃機だろう。陽が昇り始めたので爆撃開始したのかもしれない。
地上から黒煙が噴き上がる。ラルヴァたちは窓際に集い、街が爆撃されるの眺めていた。今まで楽勝だ、すぐ帰れると余裕振っていた奴らは無言で息を殺していた。
ここが戦場。新聞やラジオでしか見聞きしてこなかった炎と煙の渦巻く世界へ、自分たちは来てしまったのだ。一人の帝国兵が震えた声で呟く。
「あ、あれだけ爆撃されてりゃ蛮族も絶滅しているだろ」
「大丈夫、無事上陸できるさ」
そうだ、そうだ、大丈夫だと不安を払拭するようにみんなが笑い混じりに連呼していると、ソンジュが「いや」と口を挟んだ。
「敵は地下壕に隠れて、爆撃が去るのをじっと待っている」
確信を持っているようなソンジュの口ぶりに、ラルヴァは眉をひそめる。いつも怯えているソンジュの瞳が、この時は真剣さを帯びていた。敵は地下壕に隠れている、となぜソンジュが知っているのだろうとラルヴァは疑問に思う。新聞などで調べたのだろうか。
軍艦はファンジャ江に入っていった。川幅は湖かと思うほどの広さだ。対岸に爆撃で外壁が剥がれ落ちコンクリートや鉄骨が丸出しになった団地が見えてきた。
団地地帯を過ぎるとトタン倉庫の並ぶ場所が現れた。各倉庫前にはトーチカらしきコンクリートの壁が立っている。いよいよ上陸地点が近い。ラルヴァは息を呑んだ。
軍艦は沖に停泊した。突然凄まじい爆音が轟いてみんな悲鳴を上げる。窓の向こうのトタン倉庫地帯と砂浜から煙が上がっていた。上陸前の艦砲射撃がされたのだろう。すぐさま頭上のパイプから音声が発せられた。
『尖兵隊、上陸開始』
敵状を探りつつ上陸する尖兵隊が、ラッタルを駆け上がり甲板を走る音がドア越しに聞こえる。無事上陸してくれとラルヴァは心の中で祈る。
尖兵隊を乗せた上陸艇が、水しぶきを立てて発進するのが窓越しから見えた。彼らの行く先には、トーチカの並ぶ敵陣地が待ち構えている。ラルヴァは息を殺して尖兵隊を見守った。
尖兵隊が上陸艇から降り、砂埃の中に突入していく。艦砲射撃でトタン倉庫が粉々になったのを見ても、ソンジュの言葉が気にかかって心臓が高鳴り、手に汗が滲む。
砂埃が風に流されて、浜辺の光景が明るみになっていく。砂浜に赤い点々が散っているのが見えた。トーチカから閃光とともに放たれる銃弾に尖兵隊が次々と薙ぎ倒され、血溜まりを広げてゆくのを見たラルヴァは、身体が芯から冷えてゆくのを感じた。
ソンジュの言うとおり、教国軍は地下壕に隠れて艦砲射撃を免れていたのだ。みんなが動揺するように騒いでいると、パイプから再び声がした。
『総員、上陸準備』
全員がすっと立ち上がり、部屋から出ていく。戦慄するあまり足がすくんで動けないラルヴァは、人の波に無理矢理押され部屋を出て、ラッタルを駆け上がってゆく。甲板に出て、各小隊ごとに縄梯子から上陸艇に乗る。ラルヴァは船に座ると震える手で懐から十字架を取り出し、がちがち歯を鳴らしながら神に祈った。
「神よ⋯⋯我とともに苦難を乗り越えたまえ⋯⋯」
神は苦難を乗り越えようとする者には勇気を与えてくださる。
隣の上陸艇の軍刀をかかげた青年中隊長が叫んだ。
「蛮族ごときに怯えるな!皆殺しにしてやれ!」
中隊長が鼓舞する傍ら、みんなは今から死にゆく己に黙祷を捧げるように俯き、黙り込んでいる。
やがてエンジンがかかり、上陸艇が発進する。ラルヴァは一心不乱に神へ祈りを捧げた。
「神よ、神よ⋯⋯」
ソンジュがラルヴァを抱き締めて泣いた。
「兄さん、死ぬ時は一緒だよ」
何名かが悲鳴を上げて上陸艇から海へ飛び込む。ヒュン、と風切り音とともに目の前を銃弾がかすめ、隣の帝国兵が倒れた。船底に血溜まりが広がってゆく。浜辺に近づくたび銃弾が次々に飛んできて、複数人が倒れていった。
海に飛び込め、と小隊長が叫ぶ。咄嗟にラルヴァは海へ飛び込み、水中に潜った。水泡音に混じってヒュンヒュンと銃弾が飛んでいく音が聞こえる。生温かい水と共にぬるりとした物体が頬を掠めた。浅瀬に付いて身を隠せなくなり頭を出すと、爆音が耳をつんさいだ。
目に海水が入って何も見えず、爆音に聴覚を塞がれる中、手足の感覚を頼りに浅瀬から砂浜へ這い上がる。上下感覚がわからなくなるほど激しい砲撃の振動に全身を叩きつけられ、ラルヴァは恐慌し叫び狂いながら砂浜をのたうち回る。
隣で爆発音がし大量の液体を全身に被る。強烈な血生臭さと糞尿の臭いが鼻をついた。爆発に巻き込まれた誰かの体液を浴びたらしい。キーンと耳鳴りがし、両耳の詰まったような不快感を覚えるとともに何も聞こえなくなる。
突然襲いかかった無音の中、匍匐前進し続ける。くらげのような触感の肉物が腹にへばりついた。人の顔面らしきものが掌に触れ、ぺたんと容易に潰れてラルヴァの恐慌に追い討ちをかける。
壁のような硬い何かに当たった。それに背を預けて目を拭うと、凄惨な光景が目に飛び込んできた。
赤い砂浜に飛び散る手足、内臓、肉片、千切れた胴体、半分に欠けた顔。あらゆる肉物が浜辺に打ち上げられた海産物のように転がっている。
内臓の飛び出た腹を押さえて顔を歪める者、失った両足を引きずって這い回る者、鉄条網に引っかかり生き絶えた者。上陸してきた増援もすぐさま敵弾に倒れ、地雷で粉砕されてゆく。
みんな死ぬ。自分もすぐに死ぬだろう。ラルヴァの脳裏に走馬灯が過ぎってゆく。神父を目指して十七年間神学校に通い続けた日々。十七年ずっと思い描いていた卒業後の夢が、水の泡になる。
夢を叶えられずに、自分は死ぬ。
「神よ⋯⋯」
結局、苦難を乗り越えられなかった。無音の暗闇の中で、地震に身体を弾ませながら、ラルヴァはここでおしまいだという諦めと虚脱感に襲われ、俯く。
子供たち、貧民たち、教会の聖職者たち、神学校の学友たち。もう永遠に会うことはないであろう、親しかった者たちの顔が瞼裏に浮かぶ。彼らの顔を照らすようにふと、瞼越しに光が差した。照明弾のような眩い光ではなく、日差しのような柔らかな光だった。何の光だろう。その光を瞼越しに見ていると、身体が風のようなふわりとした何かに包まれた。風が身体を掠めているというより、風が膜になって自分を覆っているような。
なんだ、これ。不思議な感覚にラルヴァは戸惑う。
静寂の中で、声が聞こえた。小さな、囁くような微かな声が。声は耳からではなく、自分の内の深い部分から湧くように聞こえてくる。考え事をする時に聞こえる自分の心の声ではなかった。心の奥に潜む『別の誰か』がラルヴァに話しかけてくる。誰? ラルヴァはその声に耳を傾ける。
『救え』
とその声は言っていた。
『弱き者を見捨てるべからず』
瞼越しに差し込む光の中に、十字架にかけられた聖女の姿が浮かび上がる。一連の不可解な出来事が脳内で結び付き、ラルヴァは一つの予感を抱いた。驚くべき、喜ぶべき、奇跡の予感を。
「神よ、あなたですか?あなたが僕に語りかけてくださっているのですか?」
天の御国におわす神が今、ラルヴァの魂を通じて語りかけてくださっている。
『皆を導け』
意識が現実に引き戻されて目を開けた時、中隊長、小隊長たちが向かいの瓦礫を縦にして隠れているのが見えた。中隊長、小隊長が苛立ったように顔を歪めてトーチカのほうを見ている。分隊長は頭と肩から血を流してうずくまっている。銃弾の雨の中、第一小隊は動けずにいるらしい。第一小隊の中に、ソンジュの姿が見えた。
「ソンジュ!」
ソンジュは叫んでいるのか大きく口を開けながら、トーチカのほうを指差していた。彼の指差す方へ目を向けると、遠くに赤レンガの建物があった。
その横に幅の広い道がある。第一中隊の目標突破口だ。だが土嚢で頑丈に塞がれており、防壁越しから敵が機関銃を撃ってきている。
第一小隊の近くで爆発が起き、ソンジュは頭を抱えて身を縮こめてしまった。もう第一小隊は誰一人として動かなかった。突破口まであと少しなのに。
『皆を導け』
神の声は皆を導けとひたすら訴える。自分に第一小隊を導けというのか。どうやって? まさか機関銃を放つ敵相手に一人で立ち向かい、突破口を開けとでも? 無理だという声と、神のご意思に背いてはならないという声が心の中でせめぎ合う。でもこのまま迷っていればラルヴァもソンジュも、皆も死ぬ。
過呼吸で肺を痛めながらもラルヴァは辺りを観察する。ソンジュたちの隠れている瓦礫にぽつぽつ穴が開いている。瓦礫と機関銃の射線が密接しているのだろう。一歩はみ出せば即死だ。
対してラルヴァのいるところは射線から間隔が空いており瓦礫から出ても当たらないし、土嚢付近に散らばる背の高い瓦礫が手榴弾投手から身を隠す斜壁物になってくれる。
土嚢まで安全に移動できるのは自分だけだ。神もそれを見越してラルヴァに『皆を導け』と仰ったのだろう。やるしかないのか、独りで。ここで死の恐怖に怯えていれば、いずれソンジュを失うかもしれない。大切な弟を失わないためには、ラルヴァがやるしかない。泣きながら震える手でラルヴァは十字架を握り、祈った。
『神よ、共に乗り越え給え』
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