41:海辺のピクニック

 どこか遠くから聞こえてくる賑やかな歓声は、すぐに消えた。


 でも次に、花火が打ち上げられているような、ポーンポーン……ポンポン……というどこかのどかな音が響いてくる。一見無人のこの海辺のどこかで、お祭りでもやっているんだろうか? でもまた音はすぐに聞こえなくなって、波の音だけが響く。私の背後は青い空の下、砂浜がどこまでも続いているようで、木も生えていないし何の気配もない。


 いや、あれこれ考えている余裕は無い。

 私は胸に抱えたショルダーバッグをさらに強く抱き締め深呼吸をしてから、海に向かって叫んだ。

「深海魚ー! <元の夢>ー! 間宮巌の孫の菜月よー! 会いたいから姿を見せてー!」

 しばらく待ってもう一度呼びかけたけど、海面には特に変化は無い。困ったな、違う世界のどこかを漂っているんだろうか? また海辺を歩き出した私は、妙な物に気が付いた。


 少し離れた場所に、真っ白な物見櫓ものみやぐらが建っている。どこからどう見ても、白い物質で作られた高い物見櫓である。海辺にあるという事は、あの上に上って水平線を見るための物だろうか。

 好奇心に負けて、サクサクと砂を踏んで、物見櫓の下まで歩いて行き梯子を見上げた。あのてっぺんで深海魚を呼んでやろうか、とヤケクソな事を考えた時、視界の隅で何かが動いた。

 え? とそちらを見ると、櫓のすぐ横に真っ白な小屋がある……いや一軒だけじゃない。ここから離れた場所に、白い小屋が何軒もあるのが見える。まるで村だ。そう思った瞬間、私は父親の書いたダンジョン・ガイドブックの文章を思い出した。


 ――街はあるが村はない。


 確か、大陥没の時の災害による大波に襲われて、村は消滅したと父親の手紙にあったけど、あれは「本棚の裏の世界」の過去の出来事だ。ここは<元の夢>というか深海魚の世界のはず……でも何か関係があるんだろうか。その時、白い小屋の屋根の方で、黒い何かが動いたのが、ちらりと見えた。黒い? もしかしたら、ふらふら宙を飛んでいる深海魚かもしれない。私は早足でもっと近づいた。

 小屋には扉も何も無く、入り口から見える内部にも何も無い。本当に見かけだけの建物だ。屋根を見上げても何もおらず、真っ青な空が広がっているだけだ。

 がっかりして、加えて少しイラっとした私の耳に、シャララン……シャララン……と何か気持ちの良い音が、風に乗って村の方からかすかに聞こえてきた。もしかして、深海魚か何者かが、私を引き寄せているんだろうか?

 よし、行ってやろうじゃないのと私は歩き出した。けど、砂の上を歩くなんて本当に久しぶりだな。頭上の青空には雲一つなく、陽光は眩しいけど暑くはない。


 用心しつつゆっくり歩いたけど、白い村にはすぐに辿り着いた。

 村の周囲には垣根などは無く、白い石畳を挟んで、大小はあるけど同じような白い小屋が並んで建っている。一軒の小屋の軒先に、白い糸で白い貝殻を幾つか連ねた飾りが吊るされていて、それが風が吹くたびにシャララン……シャララン……と音をたてる。さっき聞こえてきた音はこれか。

 真っ青な空の下に並ぶ白い建物。映像記録で見た、地中海のリゾート地のようだ。私はまた「深海魚ー、<元の夢>ー、どこー?」と呼びながら歩き回り、やがて村を通り抜けてしまった。けれど白い石畳だけが、海に真っすぐに続いている。その上を歩いて海辺で立ち止まった私は、沖合に真っ白な小島が見えるのに気づいた。白い砂で出来た島だろうか……何となく人工物に見える。


 さてどうしよう。

 足元に打ち寄せる波の音を聞きながら、ぼんやりと水平線を眺めていたその時、いきなり海面が盛り上がり、目の前で巨大な魚が、大きな水音と共に海中から高く躍り出た。

 全身の鱗は真っ黒だけども、陽光を反射して虹のように輝く鱗。


 夢で見たとおりの深海魚だ! ようやく、ようやく会えた……。


 私は頭から大量の水しぶきを浴びてずぶ濡れになりながら、大声で叫んだ。

「深海魚ー! ビスケットを持って来たよ!」

 深海魚は、空中で巨大な魚から黒い丸い塊に一瞬で姿を変え、そのまま宙に浮かんで漂いながら、綺麗な両目で私を見下ろしている。

 驚きはしないけど、何で姿を変えたんだろう、と思いながら私は更に言った。

「やっと会えた。あなたに渡そうと思って、祖父さん……間宮巌の好きだったビスケットを持って来たの」

 深海魚の澄んだ声がはっきりと聞こえた。

「あの人と一緒にピクニックが出来るの?」

 私は一瞬だけためらってから答えた。

「ううん、祖父とはピクニックは出来ない。祖父はもう……帰ってこないから。だから私が代わりに来たんだけど」


 しばらく黙ってから、深海魚は静かに言った。

「あの人は、もう帰ってこない」


 頷く私を深海魚はじっと見ている。胸が痛むけど、これ以上深海魚に待って欲しくない。


 ようやく深海魚が私の顔のすぐ前にふわりふわりと近寄って来たので、私は尋ねた。

「あの、あなたの事は深海魚って呼んでいいかな。<元の夢>ってちょっと言いづらくて」

「いいよ。<元の夢>は行動だから。初めましてだね、菜月。あなたの姿はダンジョンで見かけたけど、あなたは私の事をどこまで知っているの?」


 分かれた深海魚たちとは連携していないのかな、と思いつつ私は答えた。

「えーと。元は剥製だったけど、大陥没の後に甦って世界と繋がって、祖父の夢に満ちたダンジョンを作って維持している。祖父の書斎にいる深海魚と、銀色の森にいた<夢>にも会ったよ。あなたは深海魚で<元の夢>だって教えてもらった」

 深海魚はその場でくるくる回転すると、小さな黒い魚の姿になった。尾びれがひらひらして、金魚みたいだ。そしていささか唐突な事を言った。

「そういえば菜月はずっと昔、剥製の私をお湯に入れようとしたっけね」

「いや、えーとそれは、どうもごめんなさい」

「別に気にしてないよ。息子の勇なんて、私を金槌で叩き壊そうとしたしね」

 絶対に気にしている。父親め、のん気者のくせに行動は妙に過激なんだよなあ。でも深海魚、妙に人間臭いな。


 私は、漂いながらじっと私を見つめている深海魚の綺麗な丸い目を見返した。

「私ね、新しいダンジョンの守護者になった事を、直接言おうと思ってここに来たの。転移した事はもちろん知っているだろうけど、でもどうしても一目会いたくて」

「会いたい? 私に?」

「ダンジョンの宿で眠っている時に、何度かあなたと夢の中で会ったから。一度こうやって直接会って話したかった」

 深海魚は呟いた。

「夢……夢の中の夢」

「え?」

「うん。これからピクニックをしよう。守護者になった菜月に、ダンジョンの事をきちんと説明したいから」

 私はちょっと困った。深海魚にビスケットを渡して挨拶をしてから、すぐにダンジョンに戻るつもりだったのだ。

「それは私も是非聞きたいけど、でも今はとにかくダンジョンに戻りたいの。詳しい説明はまた改めて……」

「ダンジョンは今は混乱が収まっているよ。転移前に、7階と3階が崩壊して怪我人が少し出たけど」

「ええ!? また崩壊したの?」

 愕然となった。父親が一番心配していた7階が……それに3階はウサギエリアで、ウサギ大通路もあったはず。怪我人が出たって、司書ウサギたちや本棚の裏の世界は大丈夫なんだろうか? 居ても立っても居られない。

「私すぐにダンジョンに戻らないと! お願い、私を入り口かどこかに連れて行って!」

 深海魚は尾びれを大きくゆったりと揺らした。

「焦らない。転移してから崩壊は止まって、通路の修復も進んで行き来が出来るようになってる。菜月がしばらくここに居ても大丈夫だよ」

「だけど……」

「みんな、全力で頑張っているんだから、信頼して任せておこう。何より菜月は他にすべき事がある」


 ダンジョンの皆……そうだ、私は血縁者としてこの深海魚に会ってダンジョンの事を話すために、一人で知らない世界を歩いてきたんだ。私はポケットの中の銀の鱗を握った。ほんわりと暖かで、少しだけ気分が落ち着いた。


「私のすべき事って、なに?」

「守護者のすべき事。菜月はね、ダンジョンに守護者として帰還する。だから、ダンジョンの事を今理解しておいた方がいい。そして菜月は夢を見ないといけない」

「え、夢? 眠るの?」

 深海魚は、くるんと回転した。

「それは後でわかるよ。さあ、座って。ピクニックをしようよ」


 気が付くと、私の濡れた体はすっかり乾いていた。

 深海魚はまたくるくる回転して、バレーボール大の黒い魚の姿になった。口と両目があって、黒くて細い手足が伸びている。何だか、艶々光る魚のぬいぐるみみたいだ。空中から私の横に降り立つと、ひょこひょこ歩き、波打ち際から少し離れた砂の上に私と並んで座り込んだ。


 ピクニックとはいえ敷布も飲み物も何も無い。少し気にしつつ私はショルダーバッグからビスケットの缶を取り出して蓋を開けると、砂の上に置いた。

「あなた、色々な姿に変身できるんだね」

 深海魚は、細い手の細い指でビスケットを器用につまみ上げた。

「うん。私はね、自分の姿を覚えていないから何にでもなれるの。長い長い年月、海の底で魚だったけど、でもそもそも本当は何だったのか覚えていない」

「へえ。深海魚だった前は、何か別の姿だったかもしれない?」

「そう。もしかしたら、ころころ転がるだけの石だったのかもね。でも気が付いたら剥製になってて、ずっと世界を眺めていたら、あの人に見つけてもらったの……美味しいねえビスケット」

 嬉しそうにビスケットを齧る深海魚を見ていて、私は何だか泣きそうになった。

「……祖父と一緒にピクニックが出来なくて残念だったね」

「うん。でも、あの人が可愛がっていた菜月がダンジョンを通って会いに来てくれて、一緒にビスケットを食べられたから。だからもういいよ。いつかは会えるだろうけど、それはきっと別の世界になるんだろうね」

 私は、ほっと息を吐きビスケットをつまむと齧った。甘くて美味しい。やっぱり祖父は甘い物好きだったんだな。


「私、祖父じいさんの記憶はほとんどないんだよね」

「そうだねえ、菜月は幼くて覚えていないよね。あの人ね、菜月の事を本当に可愛がっていたよ。だから、菜月が新しい夢でダンジョンを引き継いでくれて、私としてはとても嬉しいな」

「そりゃ、結果的には相続と言うかこういう事になったけど。私は祖父さんほど本が好きじゃないし興味も無いし。いやもちろん、ダンジョンの本は大事にしていくけど。司書ウサギたちがいるからね」

「それでいいよ」

「そうだ。15階の無限の記憶庫の扉を閉めるけど、構わない?」

「ダンジョンは菜月の夢で満ちていて、守護者は菜月だ。だから思うようにやればいい。この世界の核は15階のあの人の書斎だから、私はこれからも世界とダンジョンを維持していくから安心して」

「世界の核?」

 深海魚は、ビスケットを食べ終わると細い両手をひらひらさせて、青い海の方を見た。

「ほら。海辺の村の祭りが始まったよ」


 沖の白い小島から賑やかな歓声や音楽や歌声が聞こえてくる。花火が打ち上げられているような、ポーンポーン……ポンポン……というのどかな音もする。

 私は目を見張った。白い小島の上に、大勢の白い影のような人々がいる。大きな影は踊り、小さな影は走り回っている。犬のような白い影がはしゃぎ、誰かが白い凧を青い空に揚げている。白い長い棒が建てられ、きらきらと白い光が棒の周囲を流れるように輝いている。その周囲を手を繋いだ人々が円になって歌っている。

 さっき通り抜けて来た村の方からも、軽やかな楽器の音色が聞こえてきた。打楽器のようだ。本当に祭りだ。物見櫓のてっぺんで、白くて大きな布が揺れている。どこかへの合図だろうか。


 それは真っ白で、静かで賑やかで不思議な光景だった。


 深海魚が言った。

「あれはね、大陥没の時に起きた大波で消滅した海辺の村人たちの幻影だよ」

「え? あれが?」

「菜月が海辺に来るまでに見た白い小屋も、消滅した村の残像みたいなもの。消滅した村も村人の人数も、もちろんもっと多いけど……全部集約されたようになって私の世界にいるの。彼らは幻影だから、ああやっていつまでも祭りを楽しんでいる」

「どうして、深海魚の世界にいるの? 何かあなたと関係があるの?」

 深海魚は、青空に浮かぶ白い凧を見上げながら呟いた。

「私は、この世界の前の世界を知っている唯一の存在だからかな……私にはね、記憶がある。作り変えられる前の世界の記憶が」

 深海魚は、ビスケットを齧った。

「本当に偶然としかいいようがないけどね。大陥没の時にあの人の屋敷はどこをどう通ったのか、異世界の中心、この世界を成り立たせていた巨大で強大なエネルギーの塊の真ん中に落下したの。その時の物凄い衝撃と、大破した屋敷中に溢れていた大量の本が持つ力、それらが全部混ざり合って、世界が作り変えられた。一瞬の出来事だったよ。ほんの一瞬で世界は変わったの」


 私はしばらく黙って、白い幻影の祭りを眺めていた。失われた世界の村人……彼らの記憶も、無限の記憶庫のどこかにあるんだろうな。でも、やっぱり。少しだけ物悲しい……。


 深海魚が満足そうに言った。

「ああ、楽しいなあ。ピクニック」

「うん、そうだね。またこんな風にピクニックをしようね。次は、バスケットに色々なお菓子や飲み物を詰めて持ってくるよ」

「本当? 楽しみ。私、ワインって飲んでみたいなあ」

「ワインならチーズが合うんだよ。忘れずに持ってくるよ」

「うん」


 私と深海魚は、お喋りをしつつ海辺でのピクニックを楽しんだ。それは、とても不思議な時間と空間だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る