四章 妻として迎えることはない

 ノウラは道行く人々の姿をジッと観察していた。

 見つめていた、ではない。

 観察していた、だ。

 子どものオモチャ箱をひっくり返したような人々の様子にはもちろん、感心した。おもしろくもあった。

 しかし、おもしろがって眺めてばかりではいけない。なんと言っても、自分はこれから、この国の王妃となるのだ。この国の王妃としてどうふるまい、国民とどう接し、なにを為していくべきか。

 それらを町行く人々の姿から学ばなくてはならないのだ。呑気に眺めてなどいられない。

 それこそ、目を皿のようにして氷の町を、着飾った町の人々を、舐めるように観察している。その様子を隣から侍従長のゾマスが微笑ましそうに見つめていることに……果たして、ノウラは気がついただろうか。

 やがて、馬車は王宮に着いた。王宮と言っても旧態依然のナフードのように、王家の権威を見せつけるための馬鹿馬鹿しいまでに巨大な規模と装飾に包まれた建物ではない。

 ごく普通の、中堅程度の国家の官邸と言っていい規模のシンプルな建築物。現在の地球回遊国家の人口と経済規模、そして、世界における影響の力の大きさを考えれば『貧相』と言ってもいいぐらいの建物でしかない。

 とはいえもちろん、氷の国らしくこの王宮も氷でできているので、それだけで充分に幻想的なのだが。

 馬車がとまり、ノウラは侍従長のゾマスにエスコートされて馬車を降りた。そのまま氷の扉をくぐり、氷の王宮のなかを進んでいく。南洋の光を浴びて七色に光る氷のなかを歩いていくのは、蒼い氷河に穿たれた迷宮を進んでいるようでなんだか気分が高揚した。

 いまにも、目の前の曲がり角からファンタジー世界のこびとが飛び出してきそうな気がする。

 王宮付きの人々さえ、この国では市井しせいの人々と同じく絢爛けんらんたる衣装に身を固め、まるで道化師のよう。本来の髪の色も、肌も隠され、どの国、どの民族の出身なのかさえわかりはしない。

 こうしてみると、ごく普通の西洋風の礼装に身を固めているゾマスと随員ずいいんたちが例外なのかも知れない。あるいは、ノウラを迎えにるにあたり、驚かせないようにわざと無難な服装を選んだのであって、普段はゾマスたちも同じく絢爛けんらんたる衣装を身につけているのかも知れないが。

 ゾマスに案内されてやってきたのはノウラ自身、ちょっと驚いたことに氷の王その人の私室だった。てっきり、謁見えっけんの間に通され、大仰な挨拶を強いられると思っていたのだが……。

 「この国には『謁見えっけんの間』といった施設がありませんので。陛下は、お客さまとはいつも私室にてご面会になられます」

 ゾマスがノウラの内心を見透かしたように言った。というより、これまで案内してきた客人たちの誰もが同じ疑問をもったのだろう。そのため、前もって答えた、と言うところにちがいない。

 ――なるほど。そういうことね。

 ノウラは納得した。よけいな儀礼に時間と手間を割かないシンプルで実務的な態度は、ノウラにとっては好ましいものだった。とはいえ――。

 ――この扉の先に氷の王がいる。

 そう思うとやはり、ドキドキする。

 幼い頃から恋い焦がれてきた存在。自らの人生の指標としてきた人物。これからはその人物の妻として、共に生きていくのだ。この世界に新しい未来を築く、そのために。

 そう思うとなんとも胸が高鳴る。その思いが顔に表れ、表情がにやけてしまう。あこがれの人に会うというのに緊張するのではなく高揚する。その思いで笑顔になる。そのあたりがノウラらしい度胸のわりかたなのだった。

 ゾマスがうやうやしく私室のドアをノックした。

 「入れ」

 ややしわがれた、小さめの声がした。

 その声にノウラは違和感をもった。

 ――これが、氷の王の声?

 ノウラの記憶にある声とはずいぶんちがう気がした。ノウラの記憶のなかでは氷の王の声はもっと張りのある。実年齢より二〇歳も若いような艶のある声だった。

 伸びがあってそれでいて重々しく、ドスが利いていて、しかも、セクシー。

 そんな、まさに万の観衆を前に演説するのがふさわしいおとなの色気のある声だった。

 そのはずだった。それなのに、扉の向こうから聞こえた声は……。

 ――小さいし、しわがれているし、覇気がない。まるで、ただの『弱ったおじいちゃん』みたいな声。これが、本当に氷の王の声なの?

 ノウラらしくその思いがストレートに顔に出ている。とまどい、いぶかしむ表情になっている。ゾマスはそのことに気がついていたがあえて、礼儀正しく無視した。

 ゾマスはドアを開けた。ノウラに対してうやうやしく礼をとり、なかへと案内した。

 ノウラは怯むことなくまっすぐに立ち、視線を前に向けた。そして、愕然がくぜんとした。うろたえた、と言ってもいいかも知れない。それぐらい、目に入ったのは意外な光景だった。

 ノウラにとって氷の王と言えば年齢に負けない『永遠の青年』。常に、堂々として覇気と活力に満ち、一瞬の停滞ていたいも許すことなく未来に向かって邁進まいしんしつづける闘士。世界と人類への責任を自らの背に背負うことを選び、厳然としてそびえ立つ威丈夫だった。

 それが、いま、目の前に広がる光景はどうだろう。

 そこは、極々普通の小さめの部屋。丸テーブルと椅子、それに、ベッドがあるだけの殺風景な室内。まるで、誰も見舞いに来ない寂しい病室のよう。そんな部屋にふさわしいのは人生のすべてを終えてひとり、死ぬ日をまって日々を眠って過ごす老人。

 そして、そこにいたのはまさに、そんな印象の人物。寝間着を着て、ベッドの上に横たわり、胸元までシーツをかぶっている。悪い意味ですっかり枯れた印象で、もはや、墓に入っていないだけの死人という印象。すっかりやつれて血色の悪い頬のなかで、半ば眠っているような目を薄く開けて、ノウラにぼんやりとした視線を向けている。

 それでも、こちらに視線を向けているだけましと言うべきだろう。それぐらい、弱りきった印象の老人だった。

 ――嘘よ!

 ノウラは思わず、心のなかで叫んでいた。声に出して叫ばなかったのは礼儀をおもんばかったからではない。あまりの驚きに声が喉から先に出ていかなかっただけのこと。そうでなければ、氷の船を転覆させる大声でそう怒鳴っていた。

 ――こんな弱った年寄りが氷の王のわけがない!

 心のなかでそう怒鳴った。

 自分の妻となる女性を、それも、捨てられたとはいえ一国の王女であった人物を迎えるのに正装すらせず、それどころか寝間着姿のままベッドに寝そべっている。そんな無気力で礼儀知らずな人物が氷の王その人であるわけがなかった。ノウラにとって氷の王とは常に活力に満ちた『永遠の青年』なのだから。

 しかし、ノウラの思いがどうあれ、そこにいたのはまぎれもなく氷の王。

 地球回遊国家国王、葦原あしわら永都ながとその人であったのだ。

 「陛下」

 と、侍従長のゾマスが胸に手を当て、臣下の礼をとった。その敬意の払い方を見てもベッドに横たわるこの無力な老人が『いまも』地球回遊国家の王であることはまちがいのない事実だった。

 ノウラも当然、一国の王に対して、そして、なによりも、自分自身の未来の夫に対して、礼をとるべきところだった。王女らしい優美な一礼をして挨拶を交わすべきところだった。しかし――

 自分のなかの氷の王のイメージと、目の前に横たわる人物とのあまりのちがいに驚き、うろたえているノウラにそんな余裕はない。『信じられない』という思いに目を見開き、立ち尽くしているだけ。

 一国の王に対してあまりにも非礼、いや、むしろ、不敬と言うべき態度だったが、氷の王・葦原あしわら永都ながとはなにも言わなかった。もし、ここで、

 「無礼な!」

 と、怒ってみせるだけの気力があるならノウラもうろたえることなく、未来の妻としての礼をとっていたことだろう。しかし、そんな怒りを見せることもできないほど、いまの永都ながとは弱っているのだった。

 「陛下」

 と、ゾマスが重ねて言った。

 ノウラの非礼をあえて無視したまま告げた。

 「ノウラさまをお連れしました」

 「ああ」

 永都ながとが起きているのか、眠っているのか、よくわからない目をノウラに向けたまま答えた。

 きちんと答えた。

 人の声がちゃんと聞こえている。理解している。

 ただ、それだけでホッとしてしまう。それぐらい、弱った年寄りとしての姿だった。

 「あなたは……」

 ノウラは思わず前に進み出た。ゾマスを腕で押しのけるようにしてベッドに近寄ると、『世界で二番目の美貌びぼう』をズイッとベッドの上で横たわる老人に近づけた。口から唾を吹き出すような勢いで叫んだ。

 「あなたは本当に氷の王、葦原あしわら永都ながと陛下なんですか⁉」

 ちがう。絶対に、ちがう。こんな弱りきった年寄りが氷の王のはずがない。氷の王は、氷の王は……。

 ふい、と、氷の王、葦原あしわら永都ながとは顔をそらした。

 「……おれと結婚しに来たことは知っている。そのことを承諾もした。しかし、残念だったな。見てのとおり、おれはもう人生を終えた年寄りに過ぎない。王妃としては迎える。しかし、妻として迎えることはない。おれのことは気にせず、好きなようにするがいい」

 そう言って――。

 氷の王、葦原あしわら永都ながとは目を閉ざした。

 自分自身の未来の妻を公然と無視して眠りについたのだ。いや、関わり合いになるのが面倒で眠るふりをして逃げた。

 そんな印象だった。

 そんな永都ながとを前に、ノウラはブルブルと身を震わせていた。

 なんという屈辱。

 なんという失望。

 こんな扱いを受けるために、こんな思いをするために、自分はここまでやって来たわけじゃない!

 幼い頃から恋い焦がれた相手と共に歩み、『人と人が殺しあうことなくその潜在能力を存分に発揮できる世界』を作る。そのためにやって来たのだ。それなのに……。

 怒りと、屈辱と、失望とで、ノウラの身はブルブルと震えている。それ以上に心が、魂が震えている。

 「この軟弱者!」

 できることならその叫びと共に、思いきりぶん殴って出て行きたいところだ。

 しかし、いくらノウラであってもベッドに横たわる弱った老人相手にそこまではできない。相手が若くて健康な人間ならためらわずにやっていただろうが。だから――。

 殴るまではしなかった。出て行くだけにした。無言のまま、挨拶のひとつもなしに。全身を震わせ、肩を怒らせ、頭から湯気を噴き出しながら。

 その姿を見て、ゾマスは深いため息をついたのだった。

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