腹が減ってはなんとやら

 すきっ腹に響く、甘くて香りが鼻をくすぐった。

 いつの間にか治まっている睡眠欲の分まで、食欲が存在を主張してくる。お腹の虫に急き立てられるまま、わたしは閉じていた瞼を持ち上げた。


 ……ここ、どこ?

 目をぱちぱちさせること数回。匂いの元になっていそうな食べ物がないことよりも、視界に映る見慣れない景色の方に意識が持っていかれた。

 少なくともわたしの部屋じゃない。自室の壁紙はありきたりなオフホワイトで、アジアンテイストな模様はないからだ。推しはチャイニーズ系キャラだけど、さすがに推しに合わせて部屋をリフォームするような財力も権限も持ち合わせてはいない。

 となると、全く知らない人の部屋のベッドで寝ていることになる。

 眠気が一気に吹っ飛ぶのを感じながら、わたしは勢いよく上半身を起こした。


「あら。やっと起きたのね」


 がばりと起き上がった横から、声だけで美人とわかる声が聞こえてくる。

 これまた、聞き覚えのある声だった。まさかと思いつつ声がした方を見れば、頭に思い浮かべた通りの人物が椅子に座っていた。


「おはよう、お嬢ちゃん。気分はいかが?」


 そう言って微笑むのは、チャイナドレスに身を包んだ紫ロングヘア―の美人さん。トップモデルにいてもおかしくない、というかトップモデルじゃないのがおかしいスーパースレンダーボディのお姉さんが微笑むのに合わせて、右目の下にある花の刺青が形を変えた。

 小龍の側近であり、回礼の構成員として戦闘能力も高い花妖怪のお姉さん・ファン

 二度見しても三度見しても、そうとしか見えなかった。


「娟姐さん……」


 思わず心の中でも使っている愛称を零す。途端、眉目秀麗な顔が訝しげなものになった。


「アタシ、貴方に名前なんて名乗ったかしら」

「あ、えっと、そのぉ……」


 値踏みするような眼差しを向けられ、ぎこちなく目を逸らす。

 どうして同じやらかしを繰り返してしまうのか。友達から常々「凪って脊髄反射で喋るとこあるよね」と言われてきたし、うっすらその自覚はあるけど、これはいよいよ矯正すべきかもしれない。

 幸い娟は回礼の中だと有名人だし、推しみたいに特殊な感じじゃない。怪しい人間に向けるような目つきで見られたけど、それ以上追及はされなかった。セーフだと思ったらちっともセーフじゃなかった推しの件もあるから安心はできないけど。


「ま、いいわ。頭目がお待ちよ。案内するからベッドから降りなさいな」


 そう言いながら、娟は椅子から立ち上がった。

 その拍子に、甘い匂いがふわりと漂ってくる。どうやら、夢うつつの中で嗅いだのは娟の匂いだったらしい。さすがは花魄カハクという花の妖怪(娟は半妖なんだけど)、めっちゃ良い匂いだ。そんな感想を抱いたのも束の間、娟の言葉を遅れて理解したわたしの顔から血の気が引いた。

 まずい。オハナシされる。


「えっと、大変申し訳ないのですがわたくし、今すぐ帰らないといけない用事が……」

「残念だけど、ここでは頭目の命令以上に優先すべきものはないわ」

「はいぃ……」


 美人の圧、怖すぎる。

 わたしは赤べこのようにこくこくと頷くしかなかった。

 そのまま娟の後について部屋を出たわたしは、しばらく薄暗い通路を歩かされる。そして明らかにボス部屋っぽい扉の前に来たところで、娟の足が止まった。

 こんこんと、しなやかな手がリズミカルに扉をノックする。


「なんだ」


 少し経ってから、部屋の中から聞き覚えのあるバリトンボイスが返ってきた。


「娟です。例の子をお連れしました」

「入れ」

「失礼いたします」


 そんなやりとりの後、娟は扉を開ける。

 扉の先に広がっていたのは、背景やスチルでさんざん見たのと瓜二つの応接間。広い部屋の真ん中はぽっかりと空間が開いていて、その空間を囲うように椅子やソファーが置かれている。その中でも一際大きいソファーに、鋭い爪をした手に本を持った推しが座っていた。


 床に先端が突きそうなほど長い三つ編みで結われた、暗い色の赤毛。目元が白い狐のお面で隠されてなお、イケメンであることがわかる容姿。全身から漂う妖艶な雰囲気も、龍の刺繍が施された夜色のコートやその下に着た長袍チャンパオも目を引くけど、それ以上に目が向くのは、頭から生えた龍の角だ。先端が枝分かれしたそれを見れば、彼が人ならざるものなのは一目でわかる。

 回礼の頭目、龍人の小龍がそこにはいた。


 そして、そんな推しの膝を枕にしてソファーに寝転ぶ、紫ロングヘア―の美少女が一人。

 グラマーな肢体を青いチャイナドレスに押し込めたエッチな女の子は、娟とよく似た、でもキリッとした娟と違って眠たげな顔でわたしの方を見ていた。娟と同じ花の刺青が、彼女の右目の下にも刻まれている。


「…………………………………………」


 しばらく呆然とした後、思わず叫んだ。


「生きてる!?」

「はい?」


 隣から聞こえてきた娟の声に、慌てて口を手のひらで覆う。

 それでも、視線はエッチな女の子に向いてしまう。女の子がエッチだからではなく、このエッチな女の子とのエンカウントは完全に予想外だったからだ。


 女の子の名前はシャン

 娟の妹であり、姉と同じ小龍の側近であり……「ゆら恋」では、物語が始まる前に〝無面〟に殺されたことになっている。そのため小龍視点の回想くらいしか出番がないけど、推しを語る上では非常に重要なキャラクターなので印象深い。そんな人物が目の前にいて、驚くなという方が無理な話である。

 まさかの珊生存ルート? それとも珊が死ぬ前?


「あたしが生きてたら困ることあるノ?」

「えっ? 困るどころかめちゃくちゃ嬉しいけど……」


 考察を始めたわたしに、珊はやや片言な言葉をかけてくる。わたしはそれに素直な気持ちを返した。

 珊が殺されたことで回礼は無面事件に関わるようになるから、推しルートが始まらないと言っても過言じゃない。でも、それはそれとして珊が生きているのは嬉しい。すごく嬉しい。出番は少ないけど、アンケートに回礼過去編が見たいですって書くくらいには好きなキャラなのだ。


「……変な子ねえ」

「はっ!?」


 横から聞こえてきた娟の声で我に返る。

 改めて三人の様子を見渡せば、推しは変なものを見るような目だし、珊はきょとんとしているし、娟は扱いに困りかねているみたいな様子で頬に手を添えている。あああああ。また変なところを見せてしまった!

 反射的に回れ右をしかけるも、すかさず娟に捕獲され、そのまま部屋の中に押し込まれる。せめてもの抵抗として顔を手のひらで覆い隠していると、「おい」とバリトンボイスに声をかけられた。

 恐る恐る手のひらを退かし、観念して推しと向き合った。


「やっと起きたか。俺を待たせて爆睡とは、良いご身分だな」


 言葉のわりには愉快そうな声色をしているし、口元は笑っている。狐面から覗く紫の目にも愉しそうな色が浮かんでいるのを確認してから口を開く。


「えっと……。参考までにどれくらい寝ていたか教えていただきたいのですが……」

「そうね、ざっと五時間は寝ていたんじゃないかしら」

「ごじかん!?」

「おかげで読書が捗った」


 そう言って、小龍は手に持っていた本をひらひらと揺らした。

 推しに皮肉を言われた……。

 嬉しさと情けなさをミックスした感情に襲われ、顔の筋肉がひきつる。にやけているととられてもおかしくなかったので、今度は頬を手のひらで覆った。


「さて。わざわざねぐらに招待してやったわけだが……。理由の説明はいるか?」


 そんなわたしに、推しは質問の皮を被った脅迫まがいの言葉を投げかけてくる。

 幸いというか、さすがにというか。頭の回転はいまだ正常値に戻ってないけど、わざわざお持ち帰りされた理由はわかる。突き詰めると推しにここまで運ばれた事実と直面しないといけないから、あまり深く考えたくはないけど。

 要するに、洗いざらい話せと推しは仰っているのだ。

 洗いざらい話した結果どうなるかはこれまた深く考えたくないけど、とりあえず推しの望み通りにしないとダメなことだけは確かだろう。

 それはまあ、問題ないんだけど。うん。


「……あのぉ」

「なんだ」

「大変申し訳ないのですが、お話をする前にその、お願いしたいことがありまして……」


 不興を買うのを承知で、おずおずと手を上げる。案の定推しに「なんだこいつ」みたいな雰囲気を出されてしまったけど、こればかりは譲れなかった。


「お腹が空いて全然頭が回らないので、何か食べさせてください……。あとメイクを……、これ以上貴方の前でスッピンなの耐えられないです……」


 ダメと言われるより早く、お願い事を口にする。

 直後、空っぽの胃で暴れまわる虫が、この場にいる全員に聞こえる大声で鳴いた。

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