8 ―転機―
転機というのは誰にでもある。
クライドの場合、それは〈エクス=リリウム〉入学の半年ほど前、三月のある日だった。
ハイアーズになってから一週間経った土曜日の昼前、ちょうど応冠の扱いに慣れ始めた頃。
後でわかったことだが、あの時は既にハイアーズが〈ルーツ〉に迷い込んでしまう事例が何件も報告されていて、関係各所から注意喚起がされていたらしい。そういう通知を適当に流し読んでしまう癖が、しっかり裏目に出てしまった。
「あれ? ……どこだここ?」
いつものように〈シード〉で近所を散策していたクライドは、気付くと闇の中にいた。
「確かポータルで移動しようとしてたはず……。んー駄目だ。さっぱり分からん」
夜の帳に月が浮かんでいる。少し移動するつもりだったが、随分遠くに来てしまったようだ。
次第に目が慣れてきてベンチが並んでいることに気付く。どうやらここは、どこかの施設の中庭らしい。考えていても仕方が無い。クライドは一旦、元の場所まで戻ることにしたのだが。
「……どうなってるんだ?」
振り返った先、ポータルが無かった。おかしい。ポータルの移動先は別のポータルのはずだ。今思うと、ここで現実世界に帰るべきだったのだ、。でも、好奇心の方が勝ってしまった。
「よし。ちょっと探検するか。せめて、ここがどこなのか知りたいし」
歩いてみて気付く。やはりここは少し妙だ。どの建物も所々輪郭が歪んでいて、いくつかは大きく傾いていた。彷徨いながらも、なんとか広場に出た。いつの間にか白み始める空。
「なんだ、あれ?」
その広場の中央。鎮座していたのは大きな球体のオブジェだった。天辺がミルククラウンの形をしているのが特段、クライドの目を引いた。
と、そのオブジェのすぐ近く。小さな影が動く。
「子供? おーい……あ、ちょっ、待ってくれ!」
大声で呼び掛けたのが間違いだった。子供は驚いて駆け出してしまって、クライドもそれを追って広場を走る。そしてちょうど、オブジェを横切ろうとした時だ。突然だった。
「!」
大きく一つ、脈打った。身体の中心、胸の辺りが。それが変化の合図だった。取り返しの付かない変容が始まる。内から膨れ上がった何かが意識を圧し潰して――。
「っがあああああぁぁぁあああああああああ」
絶叫は、産声となった。卵の殻が割れるように、全身に亀裂が走る。その奥から零れ出したのは青の光だ。恐怖と困惑で思考が鈍る。駄目だ。何も考えられない。
その時、視界の端で微かな光を捉えた。いつの間にか東の空が光を帯びる。夜明けが近い。
もう一度、切れそうな意識を必死に繋ぐ。朝日が闇を払い、照らされた世界が瞳に映る。
「…………なっ!?」
世界は、古い写真のように褪せていた。
灰色の空に赤茶けた芝生。……違う。知らない。ここは……ここは一体、何処なんだ?
視界が真っ白になった。五感が掻き混ぜられ、手足の感覚が薄れていって、やがて全ての感覚が一つになった。ただの剝き出しの『意識』として崩壊していく自分自身を自覚する。
もう駄目だと思った。でも、こんなところで終われないと思った。だから、何か意識の拠り所が欲しかった。喚いて、足掻いて、何かに触れて、必死の思いで縋り付いた。そして―――。
「で、気付いたらこうなってた」
「えっ! 何それ。全然分からないじゃないの。結局何も覚えてないってこと? それに、あなたが見た子供はどうなったの?」
裏路地から出た二人は、少し歩いて見つけたベンチに並んで腰かけていた。
「あれは……何だったんだろうな。もうどこまでが現実で、どこからが幻だったんだか」
あの日のことを思い出そうとすると、決まって頭の奥に鈍い痛みが広がって、結びかけた像が全て霧散してしまうのだ。そういう時、クライドは決まって頭を振って思考を切り替える。
「でも分かったこともある。〈ルーツ〉で俺が見たオブジェは、どうやらここに有るらしい。つまり、あの時迷いこんだのは、まさにこの場所だった」
「当たり前でしょ。だってここは、ラングール博士が応冠を発明した場所なのよ。当然、それを記念して建てられた〈
「成る程。だからオブジェの天辺が、ミルククラウンの形をしてたのか」
九年前、ラングール博士が成した偉業。
それはまさに、この世界に落とされた神秘の一滴だった。
その波紋が世界中へと広がるように。
きっとそんな願いが、あのオブジェには込められているのだろう。
「そんなことよりも、あなたの方よ。あなたは、〈ルーツ〉にエントリーして無事に帰ってこれた唯一の生還者だった。だから特待生で入学できたんだ。やっぱりクライドって凄いね」
ミーゼの称賛も、今となっては素直に受け取れない。
「凄いもんか。あの時は必死すぎて、肝心の無事だった理由は分からないんだぞ。それに〈ルーツ〉が開いた今となっては、俺の経験も珍しい訳じゃない」
「んー、それでも凄いと思うけどな、私は。だって他の誰も蛇なんて操れないでしょう。珍しい現象だから黙ってたんでしょうけど、結局それって何なの?
「多分な。先生もそう言ってた。あーもう、俺の話はお終いだ。ほら、さっさとここから出るぞ。こんな所、そもそも入るべきじゃないし、長居するなんて論外だ」
そう言って立ち上がろうとしたクライド。が、しかし、中途半端な姿勢で止まってしまう。
「なんだ? まだ何か……」
制服の端をミーゼが掴んでいた。やがて、ぽつりと問いが零れる。
「ねぇクライド。あなたはどうしてハイアーズになったの?」
じっと見詰める彼女の眼差しは、普段よりも真剣で。
「急にどうしたんだ?」
「私はね。失いたくなかったの」
俯きながら話し始めたミーゼ。その隣にクライドは改めて座り直す。そうするべきだと思ったからだ。
「昔から私は両親が大好きだった。父や母が嬉しかったら私も嬉しかった。学校に行くようになってからは、父も母も私がテストで良い点をとる度に凄いって言って笑顔で褒めてくれて、私はそれが嬉しくって頑張って勉強した。そうやって努力して努力して、学校で一番の成績になって。なのに、そんな私に危機が訪れた」
「もしかして、応冠か?」
クライドの問いに、ミーゼが静かに頷く。
「ええ。日に日に応冠がどんどん社会に広まって、学校でもぽつぽつ応冠のお陰で賢くなった子が出るようになって、私は怖くなった。応冠を被らないと、ハイアーズにならないと、私は一番でなくなってしまう。そう思って、両親にお願いしてハイアーズになったの。三年前だった。ほんと、くだらないよね。応冠を導入するのだって高額なのに、一番になりたいなんて子供じみた理由でハイアーズになるなんて」
「別にくだらなくないだろ。むしろ立派な理由だ。少なくとも、単に賢くなりたいって動機でハイアーズになった奴らよりも真っ当だし、何よりそこにはお前の強い意志がある。それだけで理由としては十分だ」
クライドの即答に、ぱっとミーゼが顔を上げた。
「そう……なのかな」
「そうだとも。俺が保証する。ミーゼ、お前は凄い奴だ」
ミーゼの瞳を真っ直ぐに見詰め返す。彼女の琥珀色の瞳が一瞬、僅かに見開かれる。
「ありがと。少し自信になった。まあ、それでもルイーズには敵わなかったけどね」
「それも仕方ないんじゃないか。世の中には自分よりも凄い奴がいるもんだ。それに今は敵わなくても、いつか超えられるかもしれないだろ」
「……うん、そうね。ねぇクライド。あなたは? あなたのことも聞かせて」
「俺か? 良いけど、面白い話じゃないぞ」
それでもいいからと、彼女に促されて、クライドは語り始めた。
「俺は、変わりたかったんだ。無力な自分から、特別な力を持った何者かに」
自分でも曖昧な言い方なのを自覚する。けれどミーゼは一層興味を抱いたらしい。
「ねえ、それって具体的には? 賢くなりたかったの? それともスポーツ万能になりたかったの? もしかしてもっと別の技能とか?」
「いや、そうじゃなくて。……えっとつまり、ヒーローみたいになりたかったってことだ」
言い淀みながらクライドは白状する。言ってしまったという後悔が湧いたが、もう遅い。
少しの沈黙が降りて、恥ずかしさでミーゼから目を逸らす。そして。
「……ふふっ、あっははは。何それ、私よりも子供っぽい動機じゃない」
大きな笑みが弾けた。笑われているはずなのに悪い気分はしなくて、彼女の笑顔にクライドは何故かほっとした。
「おいおい。俺は面白い話じゃないって言ったぞ」
「ごめんごめん。もっと深刻な話かと思っちゃったから拍子抜けしちゃって。でもそれ、よく親御さんを説得できたね。今でも応冠の導入って高額でしょう? もしかして自費?」
ミーゼの心配を、クライドは頭を振って否定する。
「いや、俺の場合は特殊だ。少し聞いてただろ。運良くベイドマン先生の研究に参加できたんだ。つまり、被験者としてハイアーズになった。だから、費用はあっちが負担ってこと」
「へぇー。ラッキーだったのね。応冠もそうだけど、博士と知り合いになれたんだから」
「ああ。流石に両親も許してくれた。ほら、これで満足したか? なら帰るぞ」
クライドが立ち上がると、ミーゼもそれに従った。
「ありがとう、話聴いてくれて。なんだか少し自信が持てた。ふふっ、はははっ」
彼女の表情は前よりも少しだけ晴れやかだった。踊るように軽やかにステップを踏んで、紫の髪留めを揺らしながら歩くミーゼ。その明るい表情に、何故か両親の姿が重なった。
『父さん母さん。俺』
入学試験の後、〈エクス=リリウム〉への入学が決まったことを伝えた、あの時――。
『俺、必ず凄い奴になるから。約束するよ。ハイアーズとして頑張って、誰にも真似できない特別な存在になってみせる』
『そう……でも』
『ジュディ。言わなくていい。俺たちの子が自分で決めたことだ。クライド、頑張りなさい』
『……ええ、そうね。お願いだから無理はしないでね、クライド』
そう言って、少しだけ無理して笑って見せた二人。
あの時、母が言おうとして父が止めた言葉は何だったのだろう。
それがずっと頭の隅に引っ掛かっていて――。
しまった。今は感傷的な気分に浸っている場合ではない。早くここから出なければ。
「なあ、ミー……ミーゼ!」
顔を上げたクライドが叫ぶ。
だって、目の当たりにしてしまったからだ。眼を見開いて両手で胸を押さえるミーゼ。その体がドクンッと大きく一度跳ね上がる、その瞬間を。
彼女の紫の髪留め、すなわち応珠が、綺羅星のように瞬いた気がして――。
「まずい! ミーゼ、今すぐ」
脳裏をよぎったのはあの日の記憶で、駆け出す判断は一瞬で、変化が訪れたのは同時だった。
彼女の応冠が大きく歪み、全身に無数の亀裂が走る。それは、すぐに広がって。
待ってくれ。待ってくれ待ってくれ待ってくれ。
「逃げろ、ミィィーーゼェェェーーー」
クライドが咄嗟に手を伸ばす。が、何かに弾かれた。それは揺らめく炎のようだった。網膜を焼く紅蓮の光、その奔流が彼女の内側から全方位へと放たれる。
真紅が、炸裂した。
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