6 ―不穏―
「なあ皆、これ見てみろよ」
空中にポップアップさせたスマートフォン画面を見せながら、リックがそんなことを言ったのは、学校案内が終わってすっかり日が落ちた一九時前。カフェテリアで落ち合ったルームメイトと夕食を取りながら、皆でわいわい駄弁っていた時のことだった。
「ちょっと前に流れてきたんだけどよ。〈ルーツ〉に行った馬鹿がいるらしいんだ」
「嘘だろ! それって、わざわざ〈ガーディアン〉を解除したってことだよな。危険過ぎる」
「だよな。それにちょっと、いや、かなりまずいことになるかもしれねぇ」
件の動画はソーシャルメディアのショート動画だった。投稿時刻は五時間前。再生が始まる。
『ということでっ! やってきました〈ルーツ〉‼』
『なんだ。意外と大丈夫じゃん』
『おい。ほら見てみろよ。やっぱりあったぞ』
『マジで! あれってクラスタリアにあったんじゃねーの? ここアメリカなんですけど』
『なあ。あの塔の下の辺りって何があったっけ?』
『えー知らねー』
『はあ、しっかりしろよ。ブレイクスルー研究特区だろ』
『まあ何でもいいや。行ってみよーぜ』
『いーね。さんせーい』
『おいおいお前ら……ったく、マジかよ』
荒い音声と酷いブレ。素人が撮ったのは明らかだった。どうやら馬鹿は二人、いや撮影者を含めれば三人いるようだ。
酔いそうな映像には、はしゃぐ青年たちと夕焼けの空、そして――。
「……スカイセプター! なんであんなところに?」
「動画の人、アメリカって言ってましたよね。あり得ないです。フェイク動画でしょうか?」
「それはないだろ。試しに応冠外してみろ。リック。お前のスマホをこっちに向けてくれ」
ヘザーの疑念をトゥーラが即座に否定する。彼の言うことに従ってクライドたちは応冠を外す。直後、リックがこちらに向けてきたスマートフォンの映像が、サイケディックなノイズの嵐へと様変わりした。
「いいかお前ら。〈シード〉や〈ルーツ〉ってのは、応冠がないと認識できない世界じゃん。確かに電子データでやり取りされているし記録もできるが、応冠を介さないと映像化できない。要するに、現代技術で加工は不可能じゃん」
社会にすっかり浸透した応冠。だが、それを取り巻く技術は少し複雑だ。
人類は、脳の神秘である意識と感覚の全容を、未だに解明できていない。しかし応冠の登場によって、人類はそれらを分からないまま扱えるようになってしまった。科学的に解明できなくとも感覚的に理解できる。これが応冠の実態なのだ。
「じゃあ、この映像は本物だってのか!」
「みぃつけたー! ルーツショックの時にいくつか投稿されてるねぇ。空に浮かぶ塔の目撃情報。それも全部アメリカから。ということはぁ、この動画も本物って感じかもぉ」
いつの間に調べたのか、ラタナが答える。やはりここは上級生。対応が冷静だ。
「つまり……現実だとクラスタリアにあるはずのスカイセプターが、〈ルーツ〉だとアメリカにあるってことだよな? なんでだ?」
「確かに不思議ですね。でも、ブレイクスルー研究特区といえばラングール博士が応冠を開発した地でもあります。何か関係があるかもしれません」
「なー皆、気になるのはわかるんだけどよ、重要なのはこの後だぜ」
何やら重要そうな情報をヘザーが補足してくれたが、一旦後回しだ。リックに促されるまま再び映像に注目する。
『おおー。ここがナントカ特区』
『ちょっ……お前』
『えっ何?』
『やばっ! お前の応冠、形変わってね?』
『え、マジ? いやでも、お前らのだって変だぞ』
『はっ、嘘!』
『でも多分、お前が一番酷ぇぞ。それにお前って
『そうだけど、何?』
『だよな。でもこれってどう見ても……』
『うおっ、ほんとだ!』
『はっきり言えよ。怖いんだけど』
一人の青年が画面に大きく映される。その瞬間、クライドたちは彼の応冠に釘付けになった。
『いや、お前の応冠さ。それ、どう見ても
驚いた様子の無名の青年。その頭上で揺れる、溶けた蝋細工みたいにぐにゃりと歪んだ灰色の応冠。確かにそれは三層の紋様が重なっているように見えた。
『はっ、それマジ! ならさ、アレ、できんじゃね?』
『あ? お前、一体何するって……』
『おいおい。お前ら、一体何の為に〈ルーツ〉に来たと思ってんだよ』
『何って、あの塔を見に来たんじゃねーの?』
『ちげーよ。まー見てなって』
画面中央、例の青年が目を閉じる。
直後だった。相変わらず歪な彼の応冠。それが強く瞬き、彼の輪郭をぼやけさせる――。
次の瞬間、クライドたちが受けた衝撃は、動画の若者たちが代弁してくれた。
『……マジかよ。やばいってこれ!』
『すげーよお前』
『……ああ。成功だ。それも急に三体って。バグだろこれ。今まで一度も上手くいかなかったってのに』
あり得ない光景だった。
画面の中、例の青年が四人に増えていた。すなわち、彼と同じ姿の
「なあ。ルイーズでも、
「大丈夫だぜクライド。俺だってそう認識してる」
「じゃあ、なんでこいつは……。おかしいだろ、こんなこと。これじゃまるで……」
クライドたちが困惑と猜疑の目を向ける中、動画の青年が呟く。この場の誰もが抱き、だが決して声に出さなかった決定的な一言を。
『やっぱ噂通りだったんだ! この世界は、俺たちの応冠を強化してくれるんだよ! やべーって! 〈ルーツ〉、マジでやべー!』
動画はそこで終わっていた。ハイアーズであれば無視できない、一つの希望を残して。
噂は本当だった。新世界〈ルーツ〉は
違う。そうだけど、そうじゃない。そんな単純な話じゃなかったはずだ。
だって〈ルーツ〉にエントリーした奴はこれまでに何人もいて、でもほとんど全員が意識障害を起こしていて。唯一無事な俺ですら……、無事だっただけで安全ではなかった。
だから、それを防ぐために〈ガーディアン〉が実装されて。なのに、こんなあっさり
「なあクライド。これってまずいよな。あの噂が真実だって、この動画が証明しちまった。
前提が、覆る。今や〈ルーツ〉が危険な場所かどうかなど関係ない。ハイアーズとして強くなれる可能性。そんな特大の果実を前にして、果たして誰もが動じずにいられるだろうか。
「確かにまずいな。〈ルーツ〉にはあいつだっているんだ。流石にこんな動画一つで全員が動くわけじゃないはずだが、当然見過ごせない。よし、それじゃ取りあえず手分けして……」
とにかくじっとしていられない。クライドがリックと一緒に立ち上がろうとした時だった。
「あー、二人ともストップじゃん。何するつもりか知らないが、放っておけばいいだろ、動画に踊らされて危険な真似するような馬鹿は。それに学生が動いたところでどうにもならない」
「それでも黙って見ているわけにはいかないだろ。その馬鹿の中に俺らの学園の生徒だっているかもしれないんだぞ」
面倒くさそうに忠告をしたトゥーラの意図はよく理解できる。だが納得はできなかった。
「ふ〜ん。クライドくんは学生が巻き込まれるのを止めたい感じなんだぁ。それなら~、近場のポータルだけ封鎖すれば一先ず安心だねぇ」
クライドの意見を受けてラタナが提案すると、ヘザーもそれに賛同する。
「そうですね。あの動画が撮られたのはアメリカにあるブレイクスルー研究特区です。きっと
「ポータルって、駅や空港にあるやつだよな。別のポータルへ瞬時に移動できるんだっけ?」
確認するようなクライドの呟きに応じたのはリックだ。
「おう。車や飛行機のない
「流石に知ってるさ。確か各ポータルの移動先は、実際の駅や空港と同じなんだよな。だったら、ここからならバスとモノレールのポータルを経由して、第一〇島区の空港まで行くのが確定ルートか。じゃあ取りあえず、この二か所を学生が使わないように見張れば」
立ち上がろうとしたクライド。しかし、ヘザーにきょとんとした眼差しを向けられた。
「あれ、クライド先輩は知らないんですか? 警戒するべきポータルがもう一つありますよ。むしろそっちのほうがやばいくらいです」
「あ~そっかぁ。クライドくんが知らない感じなのって、一人だけ入寮が遅れたからだよねぇ。あ~あ、最初に寮の設備説明あったのにぃ」
ラタナからも呆れられるが、クライドは全くピンと来ない。
「何だお前ら。何の話だ?」
「実は、俺たちの寮にだけポータルが設置してあるんだぜ。ハート寮専用の設備ってわけだ。例えばゴーウェン率いるクラブ寮にだけ専用のジムがあるだろ。それと同じだな」
「ちなみに、ハート寮のポータルは特別製なんですよ。世界中にある全てのポータル、そのどれにでも移動できるんですから」
リックとヘザーから立て続けに説明されて、ようやくクライドにも状況が理解できた。
つまり、ハート寮生だけはすぐにでもブレイクスルー研究特区に行けるということか。
「はっ! 本当なのかそれ。それなら早くそのポータルを封鎖しないとなんじゃ」
「あー落ち着けって。今頃他の奴らもこの動画に気付いているはずじゃん。必要だと判断したら俺たちのお姫様がやってくれるだろ。あのポータルの管理権限は彼女が握っているんだし。そもそも、自ら進んで危険な真似する奴がハート寮にいるとは思えないが」
「確かにそうか。ならこれで一安心……ん、どうしたリック?」
テーブルに頬杖を突いたトゥーラに諫められて、一度は引き下がったクライド。が、向かいに座るリックは浮かない表情だ。
「いや、俺の思い過ごしだろうから大したことじゃねーんだが、もしかしたらミーゼの奴……」
「ミーゼがどうしたんだ?」
「あいつ、最近ずっと〈ルーツ〉の入口を探してたんだ。〈ルーツ〉に行って変わるんだって言ってた。そんなあいつなら、この動画が気になると思わないか?」
そういえば今朝リックたちに会った時、彼はミーゼの行動を咎めていた。
「そうか。ミーゼも〈ルーツ〉に関する噂を知ってたんだな」
「ああ。何でも『ラングールの手記』に書いてあるらしいぜ。〈ルーツ〉には自分自身を自由に変えられる力があるって」
「また『ラングールの手記』かよ。でも、成る程。それが噂の発端だったのか」
「あくまでそういう解釈もできるって話だったはずだぜ。どんな文章かは忘れちまったけど」
そんなやり取りをしている二人の傍に別の人影が近付く。
「『あの時、私は自分が冠を被っていることを、はっきりと自覚した。その冠は次第に形を変え、複雑さを増していった。力が溢れる感覚があった。何か自分が変わってしまいそうな強い力だ。これはいけない。実験中止。改良が必要だ。この力は人が扱うには大き過ぎる』だよね」
突然の声にリックが驚いて振り返る。そこには、ベルダが立っていた。
「やっほー二人とも。どうしたの? まーさーかー、こんな時間にお勉強中?」
これまでの彼女の印象からは想像がつかない流暢な語りに、クライドは驚きを隠せない。
「ベルダ! いつの間にいたんだ。というか、お前一字一句覚えてるのか! 凄いな。」
「ふっふーん。わたしってー、記憶力には結構自信があるんだよー。『ラングールの手記』だってー、ミーゼが熱心に読んでたから、私も一緒に読んでたの。そしたらつい、覚えちゃった」
自慢げな表情で隣に座ったベルダにリックが尋ねる。
「そうだ、ちょうどよかった。ミーゼは一緒じゃないのか? 同じ部屋だったよな」
「ミーゼなら今日は疲れたからって早めに寝ちゃったよー。夕飯誘ったんだけどねー」
「それ本当か! なんだ。それなら一安心だぜ」
リックと共に、クライドも胸を撫で下ろす。彼女が寝ているのなら、さっきの心配は全て杞憂になる。
「悪いクライド。やっぱり俺の思い過ごしだった」
「……ああ、そうだな」
いや、待て。少し引っかかることがある。思い出したのは食堂での一幕だ。
あの時、ミーゼはあまり昼食を食べていなかった。いくら疲れたといっても、夕食くらいはしっかり食べないと空腹で寝れないんじゃ……。でも、もしかしたら本当に疲れただけで――。
くそっ、駄目だ。考えていても埒が明かない。
「あー。俺も安心したら眠くなってきたな。今日は何かと大変だったし、腹も一杯になったし」
「そうだな。初日から大活躍だったもんな。それなら先に部屋戻るか?」
少しわざとらしい呟きだったが、リックは素直に信じて気遣ってくれた。
「おう、そうする。それじゃお先に」
別に疑っているわけでじゃない。ただ念のためだ。自分の目で確認するまで安心できない。
逸る気持ちに従って、クライドは自室へと急いだ。
「あっれぇ? おっかしいなぁ〜。てっきり続きがあると思ったのにぃ~」
クライドのことなど気にも留めず、手元を漂うスマートフォン画面を弄っていたラタナは何かに気付く。
彼女が見ているのは、つい先程リックに見せられた動画の投稿主のページだ。
「あれから一つも投稿してないじゃん。せっかくバズってるのに、もったいないなぁ~」
夜が始まる。新世界〈ルーツ〉が開いて初めての、長い長い夜が。
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