2  ―学園―

 太平洋沖合。見渡す限りの紺碧である。母なる海で満たされた青の世界には陸地一つない。

 唯一つ、特大の人工物を除いて。

 独立都市国家〈クラスタリア〉。

 大きいものだけで一〇、小さいのも含めて約五〇の人工浮揚島がお互いに連結して生まれた国際海上都市であり、人口の大半をハイアーズが占めている。

 この国を中心として大空を周回する巨塔、スカイセプター。

 その実態は、遥か五万五千キロメートル上空にある小惑星から、地球に向かって特製ワイヤーで吊り下げられた、全長三万メートルの超高層タワーである。

 このスカイセプターは全ハイアーズの感覚情報、すなわちクオリアを収集・解析しており、応冠運用の要として新時代の社会インフラとなっている。

 その管理と制御を担うクラスタリアは、ハイアーズにとって聖地のような存在だ。

 最先端技術の粋を集めたこの国では、ほぼ全ての電力と食料が自国内で賄われ、島ごとに都市機能を分担することで効率的な運営を可能にしている。

 その中でも、第四島区が担うのは教育だ。 

 そこに、ハイアーズ専門総合教育機関〈エクス=リリウム〉が設置されている。



 九月四日。新年度初日。基本的に授業はない。新入生向けの式典が執り行われるためだ。

 静まりかえった教室とは対照的に、薄暗い体育館は異様な熱気に包まれていた。普段は多くの屋内スポーツが実施される場所だが、今日はライブ会場のように人で溢れている。

 中央のフィールドに集められているのは、まだ慣れない制服に身を包んで緊張気味な新入生。学年を問わず世界中から優秀な学生がやってくるので、彼らの年齢はばらばらだ。

 そしてフィールド外周を囲む観客席からは、在校生が彼らの様子を見守っている。

 ここに集まる者たちは皆、戴く冠の色も形も異なるが、彼らの関心は唯一つであった。


「おはよう諸君。そしてようこそ、〈エクス=リリウム〉へ。私はエリアス・ブレンスタイン。当学園の学長だ。長い話をしても諸君らは退屈だろうから、ここでは一つだけ伝えておく」


 フィールド前方、ライトアップされたステージで学長の挨拶が始まった。

 勿論、これはただの前座。メインイベントは最後である。


「九年前、ラングール氏が開発した応冠はこの世界を一変させる大発明だった。お陰で我々ハイアーズの思考は洗練され、生活は豊かになった。つまり、応冠が我々を自由にしたといえる」


 疑う者などいない公然の事実。だからこそ、新入生たちは皆、ハイアーズである自分自身を誇りに思い、優越感に浸っていた。限られた者しか入れないこの学園での生活も、きっと特別なものになる。彼らの瞳にはそんな期待があって――。


「だが、それだけだ」


 切り捨てた。よりによってハイアーズの学生を導くこの学園のトップが。


「こんなことは一部の天才であれば応冠に頼らずとも可能だ。では、ハイアーズをハイアーズ足らしめるのは何なのか。この力を最大限活用するには何が必要か。諸君らに分かるかな?」


 しばしの沈黙。新入生の反応は様々だが、その多くは戸惑いの表情を浮かべていた。これは問いではない。ハイアーズであるということだけで浮かれている新入生。その目を覚ますための最初の教育だ。だからエリアスはすぐに道を示してやる。


「答えは意志だよ。今後どれだけ応冠の技術が発展しようと、何かを成そうとする強い意志がなければ何も生み出せない。他の誰でもない、己の内から生まれた意志を具現化する力を応冠は与えてくれる。それが何なのか、諸君らは当然知っているはずだ」


 エリアスの言葉に静かに耳を傾ける新入生。その姿は真剣そのものだ。


「そう、クオリアーツだ。〈遊応体ホロボディ〉を使えば諸君らはどこにだって行ける。〈万応語ビヨンドワーズ〉があれば言語の壁は取り払える。〈魔応円サークル〉は相互理解を深めるのに役立つだろう。そしてなにより、〈代応者エンジェント〉が己の分身として意志の遂行を助けてくれる。全く、素晴らしい力だな」


 一呼吸置いて、エリアスが新入生を見渡す。その言葉に更なる力が込められる。


「今の時代、巷では冠の時代などと揶揄されているが、それは間違いだ。今は意志の時代だよ。覚えておくと良い。ハイアーズとは高みに到達した者の事ではない。より高みへ至らんと、強い意志で歩み続ける者のことを言うのだ。だからこそ、諸君らが自らの意志で学園生活を切り開いていくことを心から願っている。おっと、すまない。結局話し過ぎてしまったな。以上だ」


 在校生にとっては聞き飽きた、新入生にとっては浮き足立った気持ちが引き締まる、そんな学長のありがたい話で始まった新年度。

 この時、クライドの心は平常ではなかった。学長の言葉に感銘を受けたわけでも、学園生活が楽しみ過ぎて心踊っているわけでもない。どちらかと言うと焦っていた。それもかなり。

 いや、そもそもとして、


「あぁ、最悪だ……」


 頭を抱えて絶望するクライドは、閑散としたバスに一人で揺られていた。真新しい制服は既にヨレヨレで、半袖のシャツにも黒のスラックスにも大きな皺がついてしまっている。本当はネクタイも締める必要があるのだが、そんな気力、今は残っていない。


「まさか初日からやらかすなんて」


 そう。彼は新年度初日、あろうことか寝坊により遅刻していた。

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