小話をちょっと

万年一次落ち太郎

第1話

「今日はこの本。失礼します」

 撫でるように文庫本の表紙に触れながら日向六明はページをめくった。

  一ページ、一ページとめくるたびに、放課後の喧騒が遠退いて聞こえなくなる。

 代わりに段々と交差点を行きかう人々の声が頭の中へと響いた。

 そんな人でごった返す交差点の中を主人公が駆けてゆく。

 人の間を縫っては手を伸ばし、彼女の鞄をひったくった犯人を追いかける。

 途中車に撥ねられそうになりながらも犯人を追い詰める主人公。

 が、果物ナイフを取り出した犯人によって、逆に腕を針で縫う傷を負わされてしまう。

 彼女の前から姿を消した主人公は、傷を覆った包帯の上からバンテージを身に纏いリングに立つ。誰にも負けない為に。

「――カッコいい」

 六明は脇腹を押さえこみながら一人ごちた。

 気づけば教室には一人。でも、それは慣れっこ。

 一度本の世界に入り込んでしまうと中々帰ってこれなくなる性分なのだ。

「日向、またお前か」

 担任の声に思わず「げっ」と口に出してしまう。

「あのなぁ、げっ、て言いたいのはこっちだよ。ほら、帰れ」

 教室内の時計を見た。もう間もなく最終下校時刻だ。

 また、やってしまった。そう思いながら本を丁寧にしまいこむ。

「なんだ、腹でも痛いのか?」

 突き当りの施錠を確認し戻って来た担任が言う。

 六明は手の位置を見た。先ほどから手で押さえたままであった。

「あ、いえ。刺されて――」

「刺されたぁ?」

 大きな顔をさらに大きくして担任がにじり寄ってくる。

「え、あ、違くて。交差点で犯人が果物ナイフで――」

「ナイフだとぉ?」

 大きな顔が覗き込んできた瞬間、のらりと担任の横を縫うように駆けた。

「あ、おい」という声を置き去りに廊下を駆けてゆく。

 昇降口まで駆けると本当に脇腹が痛くなり押さえこんだ。

「はは、まるでさっきの主人公みたい。あれ?逃げ切ったから犯人?」

 眉を寄せ考えていたがハッとした様子で、六明は慌てて外履きに履き替える。

 次の日、放課後の教室で性懲りもなく六明は読書をはじめた。

  昨日と同じ本を軽くなで、栞を挟んだところを開く。

 残りのページが少なくなってきているのを感じながら、めくる手は止まらない。

 物語最後の試合がはじまる。観客席に座り、リング上の主人公をみる。

 聞こえてくるのは歓声、だけのはずだった。

「ほぇ、挿絵がない。小難しそうなの読んでるんだね」

  突然隣の席、いや後ろから声がした。

「ただ、スポーツを題材にしたモノっていいよね。こう、熱くなるよね」

 読書中であれば道路工事でも犬の喧嘩でも気にしないが、後ろからの声が気になって本の世界から抜け振り向いた。

「南雲さん?」

 そこには同じクラスの南雲葵がいた。

「おっと」と手を胸の前で開く「驚かせちゃった?」

 首をかしげると高い位置で結んでるポニーテールが揺れる。

「ごめん驚かせるつもりはなかったんだ。ていうか私の名前覚えてるの?」

 南雲を知ったのは軽いクラスの自己紹介のとき。こうして面と向かって話すのははじめて。

「えっと日向、であってる?」

「うん」と本に栞を挟み込み、改めて南雲の方に向き直る。

「私になにか用事?」

「用、てほどじゃないんだけど。ああっと、読書の邪魔しちゃったね」

  ――わかりやすく、はぐらかされた。

「いいの。この本もう五回目だから」

 家から持ち出す本は三回以上読んだ本のみと決めている。

 それでもカバーとか痛まないように気を付けているが。

「五回?」と南雲が驚き声を上げる。

「漫画なら何回も読むけど、小説は最低でも二回かな」

「推理小説とか?」

「いや、そこまで硬いものじゃなくてファンタジーとかで、ああコイツかとかこの呪文は、てなったときに読み返すぐらい」

 物覚えが悪いのもあるけど。と南雲が苦笑いを浮かべながら言う。

「日向――」と心当たりはないけど、やっぱりなにか用事があるんじゃないかと聞こうとしたとき、ここ最近よく聞く声がした。

「おまえら――」担任の顔が膨らみ切り、今にも弾けそうになっている。

 六明は急ぎ、それでも丁寧に本をしまい込み、切り抜けられる瞬間を待った。

「クッ、ここは私が!日向は先に行け!」

「わかった」

 六明が涼しい顔で駆けると「えぇ――」と南雲が空々とした声を漏らした。

 勢いそのままに六明が廊下へ飛び出す。その後ろから南雲も駆けてくる。

「ちょっ――ちょま――」

 息も切れ切れの南雲が横に並ぶ。

 六明の足がてんで遅いので南雲が早いわけではない。

「なんで先に行くの?」

「だって『先に行けって』」

「そういうフリだって――」

 廊下を走るな!と青筋を立てながら担任が六明たちに迫る。

「先生だって――走ってるじゃん!」

  南雲はそういいながら手摺りをうまくつたい、何段か階段を飛ばし駆ける。

 六明も鞄を抱きかかえ、南雲に続き細かく足を動かし階段を駆けた。

  昇降口に飛び込み上履きを下駄箱に投げ入れ、片足立ちになりながら外履きに履き替え日が暮れだした外へと六明たちは飛び出した。

 正門を抜け脇に逸れ六明と南雲は金網のフェンスによりかかり、大きく深呼吸をする。

「さすがに――外までは――」

 南雲はフェンスにより深く沈み、六明はフェンスとレンガのわずかな間に腰を下ろした。

 ふぅ、ふぅと六明が荒い呼吸を繰り返す。

 ――いつぶりだろう。

 早鐘を打つ胸に手を当てる。

 運動会、体育祭ぶりの全力疾走。いや、この感じは生まれてはじめてかもしれない。

  ちらりと横目で南雲をみた。白い肌に汗を浮かべ手で必死に扇いでいる。

 南雲と目線があった。

  別に可笑しいことは何もない。だというのに笑みがこぼれる。

「はは」そう思わず出た声に南雲が「ひひ」と目を細めて返してきた。

「ねえ」と南雲が反動をつけてフェンスから起き上がる「今のメッチャ青春じゃなかった?」

 なにそれ。と返すが、なんとなく言いたいことはわかる――ような気がする。

  たぶん――。

「漫画とかアニメであるじゃん?学校抜け出して――てヤツ」

「逃避行もの?」

 それそれと南雲が指をさしてくる。

 無論小説にもある。定番どころは夏に男女が、といったところか。

 そういえばなんで夏なんだろうと、ふと六明は思ったが春は初々しすぎるし、秋は物悲しい世捨て人という感じがして、冬は終わりへと向かい救いのない結末へ。

だから夏なのか。

 学生には夏休みがあるし精神や肉体も中途半端。そう、中途半端に成長する時期なのだ。

 滾り行き場のない気持ちを外へと一気に解き放つ。

 ちょうど力が抜けるころには夏が終わって、過ちも輝きも刻まれる。

 中途半端な心と体が一つ成長、した気になってゆく。

 それがいわゆる青春というヤツなら、今の状況はそうなのかもしれない。

「確かに」とスカートについた砂を払い、六明が立ち上がる「これは青春なのかもね」

 ただ、犯した罪が廊下を爆走罪というショボイ内容だが。

「えっと、日向って下の名前なんだっけ?」

「六明、日向六明。南雲さんの名前は葵、だったけ?」

「名前まで覚えてるんだ。それと南雲さんじゃなくて葵でいいよ」

 よろしく。と言う葵に六明は「六明でいいよ」と言い、途中まで帰り道が一緒だと言うので並んで帰ることにした。

  ――それに、聞きたいこともある。

「それで、私に何の用だったの?」

「ああっとね――」葵が目線を泳がせた末に視線をこちらに向ける。

「六明は入る部活決めたのかなって」

  ――部活。

 六明が足を止めたかと思えば声を張り上げた。

 隣にいた葵がよろける。

 ――そうだ、そうだ。すっかりと忘れていた。

 鞄の中をあさり鞄からクリアファイルを取り出す。

「部活、どうしよう」

 クリアファイルの中には白紙の入部届が。

 六明たちが通う鎬原高校は今年から部活の入部が必須になった。

  理由は社会でも通用するコミュニケーション力を身に着けること。それは学校見学や入学式から散々ぱら、口酸っぱく教師たちが言い続けたことでもある。

 明日には――。

 そう担任に言い続けていたことを六明は思い出した。

 なぜ今日に限ってタコのように顔を赤くし、野良犬のように担任が追いかけまわしてきたのか合点がいった。

「え?なに、じゃあ追いかけてきた理由はソレなの?」

 葵が白紙の入部届を指さす。

 六明が申し訳なさそうにこくりとうなずいた。

「ごめん、巻き込んだ」

「いや、いいよ。廊下を走れたしさ。それでさ目星は点いてるの?」

「芸術方面とは考えてる」

 義務教育が終わったので、高校に入ったらなにか特別なことがしたいと六明は考えていた。

 農業科や工業科、はたまた美術関係とかいろいろ考えたが、纏まり切らずにいてそんな折に手に取ったのが鎬原高校のパンフレットだった。

 部活動。それは別に高校だけのものじゃない。中学にもあるし大学とかでいえばクラブやサークル活動がある。

 でも、それにすごく引かれたのだ。

 もし本当に話しに出てくるような気の合う仲間と悩み、対立し、輝けたらと夢想した。

 が、実際は御覧のありさま。白昼夢をみているだけではなにも起きやしない。

「だったら――」と六明の方へくるりと向き直った南雲を、街灯がスポットライトのように照らす。

「文芸部に入らない?」

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