亡霊の狩人

北原小五

第1話


 私の名前、なんだっけ。

 白くてすべすべのシルクのような布に、一点の黒い染みがついた。その黒い染みはじわじわと大きくなって私全体を包み込み、たちまち私は五感の全てを失った。手品師が手を打ってから手中から鳩を出すくらい、それは一瞬の出来事だった。

 五感を失った恐怖と混乱、そして喪失感は、しかし長くは続かず、私は目覚める。

「……どこ?」

 私は見たこともない薄暗い山中にいた。ここがどこだか、どうやって来たのかわからない。それだけではない。私は私の名前も、私の身元も何もかも、思い出せないのだ。これは重症だ。異常であると、私の脳が緊急事態を知らせる。

 とりあえずこの薄暗い山を出よう。人里に下りよう。そう決めた私は、恐る恐るとローファーを履いた足を踏み出す。目の端に移る紺色のスカートとプリーツの入ったジャケット。どうやら私は制服姿らしい。身長から考えるに女子高生。否、性自認が女性とは限らないので、正確には体が女性らしいということしかわからないが。

 しばらく歩き、ただでさえ頼りなかった西日がますます傾く。それでも私は山の中から出られなかった。すごく険しいけもの道を歩いているわけではなく、開けた場所もあれば、車のわだちのようなものがうっすら見える道もある。それでも私はなぜか山の麓へたどり着けなかった。

 しかし収穫もあった。歩いている最中、私は私の名前を思い出した。苗字は思い出せないが、下の名前なら思い出せた。風華(ふうか)。風に華と書き、風華というのが私の名前だ。特にこれといったきっかけがあったわけではないが、歩いているうちに段々と頭がはっきりして、それだけは思い出せた。

 けれどどうしたことか、山からは下りられない。このまま山の中で野宿することになるだろうか。熊とか、出ないのだろうか。そこまで森が鬱蒼と茂っているわけではないし、鹿や狐もいなさそうなので熊はいない、と願いたいのだが。

「こんにちは」

「わっ!」

 急に背後から話しかけられ、私は前へとつんのめる。その私を背後にいた人が抱き留め、元の姿勢に戻してくれる。

「ごめんなさい、驚かせちゃったね」

 申し訳なさそうに笑う明るい金髪の男性。

「先輩が突然話しかけるからですよ」

 それと、金髪の男――おそらく文脈の中で言う『先輩』――をたしなめる黒髪の男性。黒髪の男性はモデルか何かと見まごうほどに整った顔立ちをしていた。

 二人は如何にもレジャーに来た観光客ですと言わんばかりのラフな格好をしていた。釣りでもしていたのか、釣り竿とクーラーボックスも持っている。

 どうやら釣り人が親切心から声をかけてくれたらしいと考えた風華は、どうやって助けを求めるべきか言葉を数秒考えていた。名前以外思い出せないことを言えば警察に連れて行かれてしまうだろうか。警察はあまり好きではないのだが、この際、仕方のないことだ。(警察を何故好きではないのか→後ろ暗い動画を撮影しているから?)

「あの」

「驚かないで聞いてほしいんだけどね、君はもう亡くなっているんだ」

 しみじみと、ご愁傷さまという塩梅に金髪の『先輩』がそう言った。


 ***


 何が起きたのかわからず風華は押し黙る。

 死んでいる? 誰が? 私が?

 脳はひたすらに理解不能なエラーを吐き出す。まるでそれ自体、自分が死んでいることをまだ認めたくはないとでも言うように。

「先輩はずばずば物を言い過ぎなんですよ」黒髪の美青年が続ける。「とりあえず我々の紹介からします」

 二十代前半くらいの黒髪の『後輩』は防水のビニール袋に入った名刺入れから名刺を取り出した。風華は女子高生なので名刺のやり取りの作法などろくに知らないが、きっとこの人はマナーに則った完璧なやり方なんだろうなあという手順で後輩が名刺をくれた。

 鵜飼、と下の名前はなく苗字だけ書かれている。

「俺のも!」

 対する金髪の先輩は子供のようににっこり笑って両手をそろえて元気よく渡してくれた。

 白瀬、とこちらも苗字のみ。

 二人の名前が中心にあり、その右横には「亡霊管理部狩猟課」と書かれている。

「ぼう、れい……」

 私こそが、その亡霊。

 そう実感すると、途端に全身に怖気が走った。貧血になり倒れるときのような、血の気が引く感覚に襲われるが、風華が倒れることはない。ただ気分が悪くなり、片手で口元を抑えた。

「怖いよね。ごめんね」

 白瀬の方が気を遣える性格なのか、さっと風華の横に立ち、肩を支えてくれる。

「ごめんなさい。でも、大丈夫です。少し落ち着きました」

「鵜飼くん、クーラーボックス。椅子にしてもらおう」

 白瀬が指示すると鵜飼が持っていたクーラーボックスを地面に置き、風華を座らせてくれた。

「ありがとうございます」

「いいんだよ。こっちこそ嫌なこと言って、ごめんね。でも説明しなきゃなんだ。聞いてくれる?」

 風華は自分が死んでいるらしいことを不思議と受け入れている自分に気が付いた。普通の人間ならば、もっと気を動転させたり、叫び出したりする気がする。

しかし不思議と今の自分は現状が『死』であるという現実を粛々と受け入れつつあった。山から出られないという失敗体験の効果なのか、もしかしたら自分の身体が妙にふわふわするという違和感を覚えているせいかもあるかもしれない。

「私は私が死んでいるということを知っている気がします。なんとなく。変な言い方になってしまうのですが」

 しゃがんみこんで鵜飼が頷く。

「皆さん、大抵はそう言います。自然なことですから、大丈夫ですよ」

「はい……。あの、つまり私は成仏してないってことなんでしょうか?」

「成仏という概念が正しいかはわかりませんが、あなたが『静かなところ』に行けていないことはたしかです。こうして現世にとどまっている。それはあなたが――殺されたからです」

「殺された? 私が? 誰に?」

 白瀬が困ったように頬をかく。

「それがわからないんだよね。俺たちは基本的に現世の事件には関わらないから。でも少なくとも風華さんのご遺体はこの山中にある。だから風華さんはここから離れられないんだよ」

「そんな……。じゃあ、私、成仏できないんですか?」

「成仏したいの?」

「え?」

 真っ直ぐにぽんと渡された会話のボールを上手くキャッチできず、風華は戸惑う。成仏したいか。少なくともこんな鬱蒼とした山の中にいるより、天国、があるかはわからないが、彼らの言う『静かなところ』に居た方がいい気がする。それがあるべき姿であるような気がする。もちろんそれは一般論として、だが。

「俺たちは亡霊の狩人でね、風華さんみたいな行き場を失った亡霊を狩って『静かなところ』へ送るのが仕事なんだ。でも近頃はほら、多様性? みたいなのが流行りでしょ。上もその方針でね。殺された君には、世界を憎む権利があるんだ。選択肢として、このまま現世にとどまり、悪霊になることができる」

「悪霊になるって、具体的にはどんな風になるんですか?」

「少なくとも風華さんが苦しむことはないよ。大小問わず、災害の起点になったり、生前の想いの強い場所で事故が多発したりするくらい。ただただ世界を呪い続けて、それですっきり清々したら、君の言う『成仏』をしてもいい。その際はまた俺たちが来て、君を狩る。これがつまり、世界を憎む権利。人を殺す権利とも言い換えられるね」

「そんなことしたくありませんよ。誰かを危険な目に遭わせたくはありません」

 それは風華の本心だった。いつもの風華、というより生前の風華がどのような人物なのか、今の自分では思い出せないが、積極的に人を憎みたいとは思っていないはずである。正しい人間の一般的な感覚として、当たり前のことを風華は述べたまでだった。

「風華さんはしっかりしてるんだね」

 にこりとまた子供のように白瀬は笑う。向日葵が咲くような明るい笑顔だ。

「でも、よく考えてから結論を出しても遅くないよ。そのために俺たちが派遣されてきたんだし。俺たちはね、君に選択肢を与えに来たんだ。与えるっていうと偉そうだけど……。とにかく殺された理由くらいは知って成仏したいんじゃない? すぐ悪霊になるってわけじゃないし」

「すぐ悪霊になるわけじゃないんですね?」

 正直に言うと自分の死因、殺された理由は知りたかった。自分の苗字すら思い出せないのにおかしな話だが、風華はこのまま何も知らないという状態だけはなんだかうすら寒く、怖いことのように感じられたのだ。

「うん。大丈夫。半年は猶予がある。もっとも僕らは他にも仕事があるから、君がどうしたいか決めるのは二週間くらいで決めてほしいんだけど……」

「わかりました。善処します」

 風華がそう答えると、白瀬はふんわりと微笑んだ。

「風華さん、タフだね。大概こういうと困ったり怒ったりする人、多いのに」

「お仕事なら仕方がないと思います。私のことでわざわざお手を貸していただけるだけでもありがたいことだと思うのですが……?」

 鵜飼が白瀬に目配せをする。

「しっかりした方で安心しましたね、先輩」

「本当。最近の子はしっかりしてるよね~。じゃあ、このまま山の中にいるのもあれだし、下りて国道のファミレスにでも行こうか」

「あ、でも私、下りられないんです。自分の身体から遠くに行けないのかもしれません……」

「その縛りは僕らが来たからもう大丈夫。下りられるよ。ついてきて」

 そういうと白瀬と鵜飼は日が暮れかけた山中、迷いなくさくさくと歩いて行った。

「縛りっていうのはね、生前の名残みたいなことなんだ」

「名残……」

「たとえば、今の風華さん。亡霊は死んだときの年齢で構成されるから、風華さんは女子高生の頃に亡くなったと推測できる」

「死んだのは最近ですか……?」

「いい質問だね。俺たちはだいたい死後三日から七日程度の人の元に派遣されるから、風華さんもそう。正確に何日前七日までは俺たちもわからないんだけど……。いや、生死判定部の井土くんが何か言っていたような?」

 やれやれと肩をすくめて隣の鵜飼が答える。

「死後五日、と言っていましたよ」

「そうそう。五日だ。数字ってすぐに忘れちゃうんだよね~」

「先輩はなんでもすぐ忘れるでしょ」

「忘れるのが特技なの」

 白瀬と鵜飼はケモノ道をなるだけ避けて、人が行き来していると思わしき、雑草が倒れている道を選んで進む。山道を歩くのに慣れているのかもしれない。一方の風華は、足が覚束ない。

「大丈夫? ローファーじゃ歩きにくいよね」

「私の靴でよければ履き替えますか?」

「い、いえ! だ、大丈夫です!」

 二人に間を挟まれて、風華はどうにか下山した。


 ***


 ものの十五分ほどで風華たちは山を下りることができた。気が付くと、白瀬と鵜飼の服が変わっている。白瀬はジーンズにシャツ、鵜飼はスラックスに襟のついたシャツを着ていた。どちらもカジュアルで現代的な衣服だ。

「ああ、これ?」

 風華の視線に気づいたのか、二十四時間営業のファミレスに向かいながら白瀬が答える。

「君は亡霊だから姿は見えないんだけど、僕らはほぼ人間でね。現世の人に姿が見えるんだ。だからその場、その場で衣服を調節してる。さっきは釣り人風コーデで、今は社会人の休日風コーデね」

「コーデって言い方、古いです」と鵜飼。

「えっ!? そうなの? 死語ってやつ?」

「死語って言葉はもっと古いです」

「嘘。それはさすがに嘘だ。俺は信じない……!」

 驚きを隠せない白瀬をよそに、風華は考えていた。

 自分の姿は他人に見えない。そうということは物などにも透けるのだろうか。地面は普通に歩けているが、物に触れたことはない。そのことを質問するより、先にファミレスに入ってしまった。押しボタン式の自動ドアで、ドアは白瀬が開けてくれる。

 当たり前のように店員は「二名様ですね」と声をかけ、二名分の水を用意し、二名分のメニューを置いた。本当に風華のことを見えていないのだ。

「ああ、風華さんは食べられないんだ。ごめんね」

 小声で白瀬が答える。ついで風華の疑問について、鵜飼が説明をしてくれた。

「ついでに言っておくと、風華さんは物にも触れません。動かしたりとか、めくったりとか、そういうのは無理です。壁や地面は透けようと思えば透けられます。練習が必要らしいですが」

「俺たちも別に食べる必要ないんだけど、娯楽としてね。あ、あんまりこの言い方よくないんだっけ?」

「食事は休憩時間とカウントされます、と亡霊に説明するようにとはマニュアルにあります」

 そう言いつつ、運ばれてきたデミグラスハンバーグを鵜飼が食べる。細く見えるのに大食漢なのか、彼はハンバーグのほかに、チキンのグリルステーキとシーザーサラダ、明太子のパスタも頼んでいた。

「俺はコーヒー党なんだ」

 そういう白瀬はドリンクバーから熱々のコーヒーを淹れてきた。

 生真面目で表情があまり崩れなかった鵜飼だが、今ばかりは美味しそうに料理を食べている。心なしか目が輝いているようにも見える。瞳にハイライトが入ったというか。そんな感じだ。白瀬もにこにこと微笑んでいて、二人とも機嫌がいい。

「俺たちの仕事と君の立場、少しは理解できたかな?」

「はい。悪霊になるかどうか、殺された理由を突き止めてから判断すればいいんですね……」

「今すぐ狩るっていう手段もできなくはないんだけどね」

「有無を言わさず狩る人もいます。環境管理課はそういうの嫌いますけど」

「悪霊も必要だからね」

「え、悪霊って必要ですか?」

 驚いて風華が訊ね返す。人の少ないさびれたファミレスなのでこの小声の会話を不審に思う人間もいない。

「山にいる熊と一緒さ。熊の広い行動範囲があるから木の実はあちこちに散らばるし、森だけじゃなく川や海を守る役目も負っている。悪霊って言い方はマイナスイメージだけど、やってることは熊と同じ。幸福の天秤を不幸に傾かせ、天秤を床に対して平行にする。幸福すぎる人間を間引き、不幸すぎる人間を救う」

 間引くとはそのまま殺す、という意味だろう。だが一方で悪霊は不幸な人間を救うとも、この狩人は明言した。

「何事も塩梅ですよ。塩梅」

 いつの間にかあれだけあった皿を平らげている鵜飼がそう告げる。狩人たちの休憩タイムは終了したらしく、白瀬はスマートフォンを鵜飼はノートパソコンを取り出した。

「風華さんのこと事件になってないか検索してみるね」

 風華の隣に座っている白瀬はこちらに見えるようにスマホを見せてくれる。二十代に見えるのに使っているのはらくらくフォンと呼ばれるお年寄りが使うタイプで、もしかしたら機械の操作が苦手なのかもしれない。

「オリンピック選手が出てきますね。レスリング52キロ級の浜屋風華さん……。あとはキャバクラの源氏名とか……」

「事件になってはいないみたい。風華さんが亡くなって五日だから、まだ行方不明届を出されてて、警察が鋭意捜査中ってくらいかな」

「警察のサーバーにハッキングとかできないんですか?」

 恐る恐ると風華はそう訊ねてみる。狩人と名乗る二人は明らかに人間ではない存在だろう。天使なのか悪魔なのか、神なのか死神なのかは判然としないが、何か特殊な能力が使えたとしても不思議ではない。

「無理無理。ほら、俺なんてらくらくスマホだよ~」

 のんびりとした調子で白瀬が笑う。笑っている場合ではないと思うのだが。

「僕たちにできることは亡霊を狩ることと、その場に違和感なく溶け込むこと、それくらいです。何かもっとお役に立てるスーパーな能力があるのかと言われると、残念ながらとしか言えませんね」

「環境管理課とか生死判定部とか、こっちはこっちで色んな縦割り仕事があってさ~。一人当たりの人間に裂けるリソースがめっちゃくちゃ限られているの。結果、俺たちの権限もスーパー限られてて、できることは少ないんだよね~」

 やろうと思えばできるが、仕事なのでできない。

 妙な言い回しだが、つまりはそういうことだろう。仕事であるから、逸脱しないように能力に制限をかけている。結果、らくらくスマートフォン並みの処理能力になっているということだ。

「せめて苗字でも思い出せたらいいんだけどなあ」と白瀬。

「ごめんなさい。下の名前以外はさっぱり」

「山中に遺棄されたということは、風華さんは近辺に住んでいるのかもしれません。少なくとも県内に」

「あ、ここ何県なんですか?」

「愛知県です。覚えは?」

 ふるると風華は首を横に振る。鵜飼が愛知県民に多い苗字リストを検索から見つけ出してくれて、それを上から順に見えていく。そして睨みつけるように画面を見ること五分、風華はこれはという苗字を見つけた。

「宮前……! これです! たぶんこれ!!」

 見た瞬間、宮前という文字が輝いた。不思議な感覚だが、これが己の苗字だという確信はあった。

「わかりました。また検索してみます」

 鵜飼が名前を打ち込み、しばらく。彼は目線を上げて、こちらを見た。

「これじゃないでしょうか?」

 くるりとパソコンを回転させ、画面を見せてくれる。そこには目のあたりに黒い横線の入った女子高生の写真と『宮前風華さんを探しています』との文字がある。

 素人が作った探し人の画像だった。SNSで見つけたものらしいが、ほとんど拡散されていないため検索上位には出てこなかったようだ。

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亡霊の狩人 北原小五 @AONeKO_09

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