部長、うっかり出社する
朱
部長、うっかり出社する
朝からもう泣きそうだ。
コンビニの自動ドアも、俺にだけ開かない。
駅でもそうだった。誰もどかない。ぶつかりかけても、会釈すらない。
道の端を歩き、やっとのことで出社したのに、今日は守衛が俺にだけ目を合わさない。受付嬢まで露骨に無視をする。
誰かの命令だろうか。ここまで完全に無視をされると、逆に腹が据わった。こいつは会社ぐるみでハラスメントに出た感じか。──じゃあ、やってやろうじゃないか。誰の差し金かはわからないが今日から集められるだけの証拠を集めて、俺だって会社相手に、こうなったら訴訟に出てやる。
そう腹を決め、販売促進部のある十五階を目指してエレベーターに肩を押し込むが、そこでも廊下でも、誰もが通路という空間を譲らない。何度も肩をぶつけそうになりながら、「なんで俺ばかりが避けてんだ」と女どもを怒鳴りつけつつ窓や壁を背にして歩き、やっとのことで、オフィスにたどり着いた……。
──のだが、何故だ。
俺のデスクが真っ平らに片付いている!
挙げ句の果てに、菊が花瓶で生けてある!
怒りは頂点を越え、これが貧血というやつなのか暴れる力は失せ、俺はもう、椅子の前に立ち尽くし、壁の時計を見た。
イジメというか、嫌がらせというか、こうまで会社、いや社会ぐるみで徹底してやり返されるともう、なんだか自分のほうが悪かったような気もしてきた。
実際、そもそも人当たりの良い方ではないが、したくない付き合いも最低限したし、やりたくもない仕事も山ほど引き受けてきた。
他部署から出来そこないが回されて来たときには、手や足こそ昔のようには出せなくなったが、やんわりと言葉で休職に追いやってきた。
それでも気がつかないボンクラ中のボンクラには、それなりの手段を講じた。
それをハラスメントだと言われれば、そりゃそうかもしれないけれど、「だったら仕事の量と質に見合う人員と人材を寄越せよ」と、パワハラ防止委員とやらを怒鳴りつけて頂いた処分は有休の消化という謹慎だけで、「結局は会社だって、こういう俺を必要としていたんだろ」と啖呵を切り、それを甘んじて受け入れた。
でも確かに、この謹慎期間は、飲みすぎた。
いや。でも。飲む以外に何が出来るって言うんだ。
朝はストロング缶を空け、昼はラーメン屋でビールを飲んだ。そして晩には、酔いざましの風にあたりながら歩き、知らぬ飲み屋に入った。うさを晴らす方法なんかそれしか知らないんだから、俺からラーメンと酒以外の趣味と家族を取り上げた会社には土下座して感謝されこそすれ、まさかこんな仕打ちを受けるとは思ってもいなかった。
──泣けてきた。
これが、自業自得と言うやつなんだな。
休職したり、退職していった奴らの気持ちが、やっとわかった気がした。
でも、俺だって、楽しくて追い出したわけじゃない。こっちだって辞めたい気持ちは相当なものだった。組み合わせた上を恨んでくれ。お互いストレスだったんだ。
でも、俺としちゃ、これしか無い仕事だ。嫌な先輩は山ほどいた。何年も我慢した。むしろ、人手不足の中に、なぜ上は俺のところにばかり使えない奴らを回した。能無しを精算したいのは上の気持ちなんじゃないか。だとしたら俺はなんだ、なんで俺が取らなきゃいけないんだ、責任を個人で……。
そう、飲んだくれている間に、謹慎明けの今日が来た。
時すでに遅し、と言うやつなのだろう。
やめていった奴らとおなじ顔をしているのが、今の俺だ。
机を叩いていた拳を、もう握る力もなく、立ち尽くしていることにも飽き、片付いたデスクから部内を見回したが、日頃からぼーっとしている部下の目と、俺の目が合った。
部下は、俺の顔を見つけるなり、どこか憐れむような目し、だが、久しぶりに生きている人間と会えた気持ちがして、俺は、
「おまえ、俺が…… 俺が見えるのか」
つい自分の笑顔を指差して漏らした言葉に、俺が違和感を覚え、透き通ったこの右手と左手を見くらべていると、席を立った彼は俺のデスクに手を合わせに来て、仕事中はよそ見をするなと、それに余計なこともするなといつも言っているのにこいつは懲りもせず、菊の花をそっと手で支えて、しおれてもいない真新しい葉を整えてから、もういちど神妙な顔つきで、デスクに手を合わせた。
そして、ささやくような小声で、
「……部長、大変申し上げにくいことですが……」
チラと、横目で俺を見、口を薄く開いた。
「あなたは先週末、ご自宅で、息をおひきとりになっています」
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