トゥルルルル

バーニー

トゥルルルル

「ねえあんた、スマホ触るのやめなさい」

 夕飯の時、母の切りつけるような言葉が飛んできた。私はドキリとして、スクロールしていた指を止める。

「友達から連絡が来てたの」

「後でいいじゃない。食事のたかが十数分」

「高校生はその十数分も無駄にできないの」

「その割には時間の無駄遣いしているようにしか見えないけど」

 顔を上げる。母さんはお茶碗を持ったまま白けた目をしていた。

 私はお茶碗を掴むと、よそわれた白ご飯をかき込んだ。おかずのアジフライ、キャベツの順に詰め込み、味噌汁で流し込む。

 母はまたため息をついた。

「成績が落ちるようなら、解約す」

「ご馳走様」

 母の言葉を遮った私は、お茶碗を置いて椅子から立ち上がった。スマホを掴み、自室への階段を上っていく。

「待ちなさい」

 そう呼び止められたが無視をする。雨の中を走るみたいに進み、自室に飛び込んだ。

 その時、友人からの返信があった。他愛のない、「晩ごはんハンバーグだった」という内容。だから私は「アジフライ」と返した。

 そうしていると、部屋の扉がノックされる。

「ねえ、ドラマ始まってるけど、見ないの?」

 母の声。もう九時なのだと気が付いた。

「後で行く」

 そう答えると、母の足音が遠ざかって行った。私はまた、友人との会話に興じる。十分くらいで終わらせるつもりだったが、結局、一時間続いた。ドラマはまあ、配信があるし、その時に見ればいいと思った。

 お風呂に入って、眠ろうとベッドに向かった時、またスマホが震えた。私は寝ぼけ眼でメッセージを確認し、どうでもいい会話に機械的な返事をしていった。

 翌日、私は寝坊することになる。あのまま寝落ちしたから、目覚ましをかけ忘れたのだ。

「なんで起こしてくれなかったの!」

「起こしたわよ!」

 母と言い合う時間も惜しい。

 私は転げそうになりながら制服に着替え、顔を洗い、テーブルに置いてあった弁当を掴んで家を飛び出した。

「待ちなさい! 今日は」

 何か言った気がしたが、振り返らなかった。

 始業まで残り五分。私は学校に辿り着いた。その五分の余裕が、ふやけた頭を冷やす。

 母さん、何を言おうとしたのだろう。

 そう思った時、教室の外で雨が降り出した。雨粒は最初霧のようだったが、一時限目が終わる頃には弾丸のような勢いを持って校舎にぶつかり。分厚い雨雲は光を遮り、辺りは夕時みたいな暗さとなった。

「夜まで続くらしいよ」

 何処からともなくそう聴こえて、私ははっとする。鞄の中を覗いたが、折り畳み傘は無い。そこで、ああそう言うことか…と思った。

 まあ、母さんに迎えに来てもらおうか。

 昨日の今日なので、あまり連絡はしたくなかったが、仕方ない。鞄からスマホを取り出し、母にメッセージを送ろうとした。

 電源ボタンを押して気が付く。充電が残り一パーセントだった。ああ、そうか、昨日寝落ちしたから、充電をしていない。

 慌てて指を動かしたけれど、間に合わなかった。「雨降っているから迎えに」というところまで入力したところで、電球が切れるみたいに、画面が真っ暗になる。その後はうんともすんとも。当然充電器は持っていない。

 全身の血が冷える。太平洋の真ん中で、顔だけを出して藻掻いているかのような感覚。

 いや、まだ大丈夫。学校の近くに公衆電話があったから、それを使えば良い。いや、ダメだ。お金を持っていなかった。最近、電子マネーでの買い物がほとんどだったから、財布を部屋に置きっぱなしなのだ。

「まじか」

 万策尽きた私は、頭を抱えて机に伏した。

 天罰ってやつだろう。

 私を置いてけぼりにして時間は進み、二時間、三時間と経った。幸い、その時間が私を吹っ切れさせた。昼休みになって、私は濡れて帰ることを覚悟したのだった。

 嫌だなあと思い、でもこれは天罰だからと言い聞かせ、弁当の包みを解く。出てきたのは、可愛げのないプラスチックの弁当箱。

 その上に、見知らぬポチ袋が置いてあった。クマさんの絵が印刷された可愛いもので、裏面を覗くと、母さんの字で「お茶を沸かしていなかったので、これでジュースを買ってください」と書いてあった。引っくり返すと、百円玉二枚が転がり出る。

 思わず「あ」と声が出る。薄暗かった視界の端に光が差した気がした。

 放課後になった。雨はまだ止む気配を見せず、荒い雨粒がアスファルトの上で踊っていた。私は、頭にタオルを乗せた格好で校門を飛び出し、すぐそこを右に曲がり、先にあった電話ボックスに飛び込んだ。

 たかが五十メートルの移動だったが、制服が濡れて肌に張り付いた。寒くて、ぶるりと震える。タオルで肌を拭うと、気を取り直し、公衆電話を眺めた。

 抹茶色の公衆電話。最後に使われたのはいつだろうか。手入れはされているのだろうか。とにかく埃が降り積もっていて、心なしか黴臭い。足元で、温い湿気が微睡むように横たわっていた。

 深呼吸ひとつ。塗装に亀裂が入った受話器を掴むと、百円玉を投入し、母の電話番号を入れる。そして、耳に押し当てた。

 トゥルルルル…トゥルルルル…

 懐かしさを感じる、無機質な呼び出し音。

『もしもし』

 母の声が聴こえた。

「あ、母さん、私だけど」

 落ちたものを掴むように言った。

「ごめん。今日、傘忘れちゃったから迎えに来てくれない?」

 だけど、一秒、二秒、三秒と待っても、母の声は返ってこなかった。その間も雨粒はボックスのガラスを叩いている。目を覚ました湿気がローファーに噛みつき、足元がとろけるような気がした。くらっと眩暈。それと同時に罪悪感が込み上げ、私は首を横に振った。

「ごめん、何でもない」

 母さんに酷いことをした。こんなことを言える立場にない。

「ごめんね、朝、怒っちゃって」

 一方的に言って、受話器を置こうとする。

 その時だった。

 コンコン…と、電話ボックスのガラスが叩かれた。はっとして振り返る。そこに立っていた者を見て、私は「あ」と間抜けな声を洩らした。

 そこにいたのは、母さんだった。右手で傘を差し、左手でスマホを握っている。その脇には、私の折り畳み傘が挟んであった。

 私は、思わず安堵の息を洩らしていた。すっかり呆けてしまい、目の前に母がいるというのに、受話器に向かって話しかける。

「来てくれたの」

 母さんは一瞬面食らったような顔をしたが、すぐに笑い、スマホに話しかけた。

『あんたが困っているだろうと思って』

「そっか。ありがとう」

『でもなんで公衆電話。スマホは』

「充電が切れたから」

 あらまあ…と聴こえた。

『お金はどうしたの?』

「ジュース代を使った」

『お釣りを使ったの?』

「いや、百円玉を」

 そう答えると、母さんは目をぱちくりとさせ、腹を抱えるような仕草をした。

『それ、お釣り出ないよ』

 頬が熱くなるのがわかった。

「いや、相場が分からなくて」

 そう言いかけたが、そういえばそうだった気がする。惜しいことをした。

「ごめん」

『もういいわ。たかが百円。あんたの通信費に比べたら大したことじゃない』

 母さんは吹っ切れたように言い、私に手招きをした。

『ほら、おいで。帰るよ』

 私は頷くと、受話器を置こうとする。だけど、また耳に押し当てた。

 母さんは、おや…と言いたげな顔をして、気を引き締めるようにスマホを持ち直した。

『どうしたの』

「いや、もうちょっとお話しない? お金が切れるまで」

 受話器から伸びるカールコードをなぞりながら言う。

 母さんのため息が聴こえた。

『全くこの子は』

 一瞬、路地の様子を確認した母さんは、また私の方を見た。髪を揺らして、首を傾ける。

『十分くらいあるよ?』

「そうなの?」

 十分間もお話しするなんて、恥ずかしいな。

『まあいいわ。スマホ充電しちゃったら、あんた私と話してくれないからね』

 笑みを含んだ皮肉が、私の鼓膜を揺らす。

「ごめんなさい」

 昨日のこと、今朝の事、いや、最近のことを思い出しながら謝罪の言葉を口にする。それから顔を上げ、洗われたような透き通った声で問うた。

「昨日のドラマだけどさ、録画してたよね」

『うん、しているよ』

「後で一緒に見ない?」

『いいよ』

 ガラス越しに、母さんが頷いた。

 雨はまだ止まない。     




    

        完

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トゥルルルル バーニー @barnyunogarakuta

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