創作論より小籠包
口一 二三四
あくまで持論ですが
創作活動においての経験や技術は、単純に上手くなるためにって意味合いの他に、好きや拘りを補強するために培っていくものなんじゃないかなぁと思ってる。
だからまぁ、好きや拘りみたいな方向性がないと上手いだけの物しか出来ないと思う。
上手くなるために今までやってきたとか、上手くなること自体が目標だったとかならそれで全然いいんですけど、上手くなることが通過点で、表現したい物を表現するのが目標ならそれは多分しんどいと思う。
個人的に見る側は自分と創作者の好きや拘りに目がいくのが大半で、技術や技法に目がいくのはそれを知ってる少数で、大半の目が創作者の『表現したい何か』に向くようにするのが技術や技法だと思っているので。
その大半に「この作品はこういう技術(技法)で表現しました」って言って「あっ、なるほど」と思わせられたら上等で、「ふーん」と聞き流されたらまだまだ詰めが甘いんですよ。多分。
妄想空想仮想創作物に対しての「こんなの現実にいねぇよwww」には「だったらお前らは現実だけ見てろ」がベストです。
創作で行き詰った私「この話……面白いか?」
天使「書き直そ?」
悪魔「書くのやめよ?」
ワンカップ持ったおっさん「なんや兄ちゃんおもろい話書いとるやんけ! いったれいったれ若いうちは何でも何回でもやったらええねん!! おっさん見てみぃ!? もう酒飲む以外することあらへん!!」
「何とこの作家は話のオチを何種類も用意してその中からどれも選ばず降って湧いたオチを採用して畳むに畳めなくなったのです!!」って事案も多いよな創作って。
創作「すぐにお出しするのはちょっと待て」と「一旦寝かしてから様子を見ろ」と「だからといって寝かし過ぎるな腐るぞ」があって難しい。
「誰も気に止めないのに創作して楽しい?」は「そもそも創作すること自体が楽しいんだよ!」でミンチにできる。
多分だけど創作においてのギャグってツッコミをキャラに任せるか読者に任せるかだと思うからボケ全振りでいいと思う。
創作に使えそうな本には手が伸びるし創作に使えなさそうな本にも手が伸びるしコンビニスイーツはついつい手が伸びちゃう。
『他の創作者には評価される作品』ってのはその技術がわかる同類だからこそ評価されているわけであって、必ずしも「大衆に評価される作品」ってわけじゃないですからね。
『芸人に人気な芸人』が「楽屋では面白い」でなかなか日の目を当たらないのと一緒で。
どの創作者も大体自分の持ち味を活かした『定食』がメニューにあるので、それ出てくると安心の味に舌鼓を打つ。
「クソッ……何だよこの厄介な設定(恰好)誰だよこんな書きにくい設定(恰好)考えたのクソが……自分か……クソが……」ってちょいちょいなるから創作においての一番の敵はやっぱり自分なんだな。
自分の考えた設定を自分で表現できない時ほど「クソが……」ってなる瞬間もないし誰かに当たりたくても自分の顔しか出てこなくて「クソが……」ってなる。
文章は心理描写を書くのに有利な創作だからね。
創作においての『史実に忠実じゃなくてもいい』は『史実を蔑ろにしていい』じゃないよ。
お話が書けなくても絵が書けなくても一次創作者が見たいモノがあるぞぃ。
『感想』ってモノなんですけどね!!!!!!!
「いい……」とか「好き」だけでもいいんですよ!!
作品上げてスグの創作者なんて縦棒一本入れりゃ全消えするテトリスみたいなみたいな状態なんだから!!
感想って縦棒落としてやりゃそれだけで語彙力全消えして「ふぉふ……(ありがとうございます好き……)」しか言えなくなるから!!
創作意欲、花火みたいに短時間でド派手に燃え上がるんじゃなく焚き火みたいに長時間かけても消えず燃え続けてるみたいなのが欲しい。
二次創作、なんというか人様のお宅に間借りさせて頂いているって気持ちを忘れるとどえらいことになる。
自己満足、自分よがりでやってるって気持ちを見失うと大事故に繋がるのでだからこそ細心の注意と気遣いが必要。
『人は実体験以外を語ってはいけない』って考え方は今ある創作の大概を殺すし、歴史って分野の否定にもなるから思っててもわざわざ表立って言わない方がいいっすよ。
創作は盛って削ぐ作業だと思うのでそれを踏まえて考えていくと上手くいく気がする。
好きなだけ盛ったらええ。
そこから何を削ぐかに経験と感性が現れるんや。
自分は自分の創作において最強で一番で天才で、一次創作はもちろん例え二次創作でも三次創作でもそれは『数ある料理から選んで自分が作った自分の料理』なので揺るがないモノなんですよ。
「おいおい俺は俺が生み出したモノのみに関しては最強で一番で天才だぞ?」って胸を張ってくれ。
父親が司馬遼太郎作品あんまり好きじゃなくて、「創作をさも史実のように書く上に出来がいいから」ってのが理由でまぁ拗れてるなこのおっさんって昔は思ってたけど、影響力を考えると言いたくなる気持ちもわかるなってなってるのが今。
誰も見てない、は創作をやってる限り無いんですよ。
少なくとも生み出してる自分一人は見てるから。
創作は『盛ったら削る』を常に意識してるとまぁなんとなくまとまった感じにはなる。
それでこの『削る』の部分は『設定』とかじゃなく『労力』『展開』『規模』『交流』『日常生活にあてる時間』も該当する。
『盛ったら削る』
逆に言えば、
『削れないなら盛らない』
で、その方が風呂敷を畳める。
文章は言葉で形作る創作だから『名前の無い仕草』を簡素に表現するのが不得手で、どうしても説明っぽくなるのを如何にして纏めるかに難しさと醍醐味がある。
「これはある」って思わせるリアルより「これはありそう」って思わせるリアリティーの方が大事なんだろうな。創作ってのは。
創作した側「作った人そこまで考えてないよ……」
考察する側「そういうのはこっちの仕事だから全然オッケー」
人間浮き沈みがあるのは重々承知だし、プレッシャーになるかなって気持ちはもちろんあるんだけど、今まで文章なり絵なりやってた人が「疲れた」「やめます」って言ってるの見るのは寂しいし、何かキッカケで「またやってみます!」ってなってるの見るのは嬉しいんだよな、やっぱ。
だから私は「やるもやらないも誰からか強制されるもんじゃないし、また気分が乗ったら創作したらいいよ」って去っていく背中を見送るし、「うぉぉぉぉっ!! また創作始めたんですねっ!!」って再起する姿を応援したい。
「俺の創作は俺にしか生み出せねぇからなぁ!」って気持ちと「いやでもこれぐらいなら誰にでも生み出せるんとちゃう?」って気持ちは相対せず同列で存在する。
個人的なあれだけど、ちやほやされるために創作をするってめちゃくちゃ効率悪いと思うのよね。だからトレパクとか自作発言とか転載とかあるんだろうけど。
動物園行ってなんか可愛い動物撮って載せた方が効率いいよ。
創作って細部まで100点を目指すと全体がぼやけるし何を一番伝えたいのかわかりにくくなるから、トータルで100点ぐらいの気持ちでやった方が見てもらえて印象に残りやすいってのある。
名作と呼ばれる映画の最初から最後まで通して覚えてなくても名シーンは覚えてるのと一緒で。
見る側は作品を点で捉えてそれらを繋ぐ線を自らの頭の中で引いて印象に結び付ける、んじゃないかな。
点と点を線で結んでなに描いてるのか当てるやつあるじゃないですか。あんな感じ。
創作って作る側の主観である点を見る側の主観である線でどう結んでもらうか、結ぶよう誘導するかなんだと思う。
キャラの衣装ってそのキャラが着るからこそ衣装として成立する(ように見える)ものじゃないと衣装に負けてキャラがマネキンになっちゃうから難しいよね。
そういう意味ではクソダサTシャツってキャラの持ち味引き出すし服そのものにもインパクトあるから創作衣装として強いよなって思う。
創作において、知識や経験はスキルポイントで、発想や描き方はスキルで、個性や独自性はスキルツリーだと考えてて、インプットしてるのにアウトプットできないのは貯まったスキルポイントをスキルに振ってなくてスキルツリーが上手く噛み合ってない状態って思ってる。
キャラの死に際って一生に一度しかない一番の見せ場なのでそりゃ欲しいし考えるしそれが創作の醍醐味ってやつよ。
創作やってると『自己肯定の自分』と『自己否定の自分』が常に存在してて「創作上手いですね!」って言われると「知ってる~~」って自己肯定が返答するし「創作下手ですね」って言われると「知ってる……」って自己否定が返答する。
私が生み出したキャラが誰かの推しになったのならそれはもう創作者として一つの奇跡としか言いようがない。
駄作とか名作とか見る側次第で変わる感想を世間一般の評価として助言って形で明言するからこの手の話は揉めるんだと思う。
『創作のためには色んな作品に触れる』とかアバウトなのでいいと思う。
絵も文章も何もかも創作はひたすらにわからんわからん言いながらそれでもへこたれず続けてある日突然『理解』した瞬間成長して次のステップのわからんわからんを続けていく作業なんだと思う。
二次創作にあって一次創作に無いものって『読み手と書き手の共通認識が既にある環境』だと思っていて、公式を知っていれば伝わる部分を表現しなくても済むって環境に慣れれば慣れるほど、いざ自分が公式になった時どう認識してもらうかの部分が育ってない分苦労するってのがあるんだと思う。
漫画にしろ文章にしろ『ここがこうでこうなってます』って説明するの、物語を楽しむ上で必要なんだけど書き手からしても読み手からしても結構面倒でテンポ悪くなる省けるなら省きたい部分でもありますからね。
『一次創作は認識部分で頭を悩ます』
『二次創作は解釈部分で頭を悩ます』
そんな感じ。
だから一次創作メインでやってる人は自分が公式じゃない二次創作の解釈部分で苦労してる印象がある。
考えに考えて綴られた何十行何百行の文章に背中押されることもあるし、ふとした拍子にふっと溢れ出た一言に心支えられることもあって、私はそれが文字の強みであり魅力でもあると思ってる。
趣味とは言え十年以上文章書いててそれなりの自負もあるんだけど、それでも「ちゃんと文章書くの初めてなんです」って文字以外の創作やってる人が書いた物に息を飲む瞬間はあるし自分が何時間考えても出てこない言葉だなって感服するから、そういうのに出会うために創作やってる節はある。
その人の感性や経験全部ひっくるめたそれまでの歩みを垣間見るみたいで好きなんだよな。
文章や絵が上達するって多分ミスった時とかにある程度までなら誤魔化しがきく、誤魔化せる技術を持っているなんだと思う。
上手い下手とかじゃなく、文字数制限とかがあれば「ほんなら取り敢えず好きなように書いて最後までいったら内容大きく変えん程度に削って制限内に納めるか」みたいなのをスムーズにできるようになるのが技術なんだと思う。
何て言うか創作って『盛るのは知識』『削るのは技術』『整えるのは経験』って感じ。
自分の場合ここに『完成させるのは妥協』が追加される。マイナスな意味じゃないよ。
創作の上達ってただ上手くなることじゃなく『なんかよくわからんけどめっちゃ調子良くてめっちゃいい感じに仕上げれた』って状態の頻度を増やして平均にしていくかなんだと思う。
創作でキャラを動かす時『何ができるのか?』に対して『何ができないのか?』を考えて動かすようにしてる。
その方がより人間らしくなるから。
創作におけるキャラ設定ってのは「このキャラならこういうことを言う。こういう行動をする」っていう『その世界に生きている人物としての言動を引き出す』ために必要で、例え使わなくともあって困るものではないと思うんですよね。
世界観っていう地図を広げた時にキャラが迷わないよう導くためのコンパスみたいなものよ。
それでこの設定を作って失敗する人ってのは大体『設定したものを全部使おうとする』『設定が縛りプレイになってる』『設定し過ぎて自分じゃ管理できてない』『思い付いた設定をキャラに定着できてない』とかが主な原因なんじゃないかなって眺めてる。
創作した物を見てもらえるかは出来よりも運に左右されるもので、運を引き込むには興味を持ってもらうための上手いマーケティングが必要で、そこから評価されるかされないかでようやく作品の出来の出番だから腐らず自分がいいと思えるものを作り続けて積極的にアピールし続けてほしい。
ただ創作やってるだけで気付けば人に見られて評価されてるって人もいるけど、実際はそう見えるだけで色んなことしてるんだと思いますよ。
まぁ、たまに自分の作品を理解してくれるめちゃくちゃ行動力ある人が近くにいたって運に恵まれた人もいますけれど。
創作に現実を持ち込むのは無粋だと百も承知ではあるんだけど因果なことに「フィクションですやん」って感情と「フィクションやけども」って感情は別々に持ち合わせてしまうのが人間って生き物なんだよな。
だから楽しめてるし苦しんでるとこある。
創作において『知らないからこそ自由な発想ができる』は大博打なのでよほど一発当てれる自信があるか大損しても笑えるかのどっちかでない限りはやらない方がいい。
現実の知識がどう創作に役に立つのかっていうと、作品にリアリティーが出るのはもちろんなんだけど「ここリアル重視で書くと説明文みたいになってつまらなくなるな」ってのがわかって何を省いて何を足した方が作品として面白くなるかが見えやすくなるってのがあると思う。
文章や絵って『書き出す作業』が好きな人もいれば『書き直す作業』が好きな人もいて、自分の場合どっちなんだろうってのを把握してペース配分考えるだけでも出来上がりやモチベーションが変わるって個人的には思ってる。
一次創作でも二次創作でも「別にこのキャラじゃなくてもええやん」ってならないよう気を付けないと途端にキャラが薄っぺらくなる。
『作品を生み出すスキル』『作品を編集するスキル』『作品を評価するスキル』は近いとこにあるけどどれも別物で『二次創作をするスキル』『一次創作をするスキル』も同じに見えて違うってのはもっと周知された方がいい。
文章って『絶対にここだけは書き手と読み手の認識を合致させておきたい』って部分以外は多少ズレがあってもいいし、そのズレこそが同じ物を読んだ読者一人一人が思い描く『自分だけの情景』に繋がるから、ガッチガチに表現するよりある程度アバウトに想像の余地を残して書いた方が丁寧だと思う。
人が努力して習得した技術や生み出した作品を「持って生まれた才能」の言葉で片付けて無理やり押し付けるのってその人の努力を全否定した侮辱行為だよなぁ。
「本あんまり読まないから文章書けない」って人ちょいちょいいるけど、文章書くのに必要なのはつべこべ言わずさっさと書けって自分のケツを蹴り続ける自分の脚だし「インプットが足りない」のインプットは別に本からしかできないわけじゃないから自分のケツをどんどん蹴り続けてほしい。
今までルーティンを意識したりスケジュール管理考えたり色々やってきたけど、結局一番書けるのは『四の五の言ってないでとにかく書け一行でも一文字でも書け一ヶ月で三十行三十文字や何してんねんはよ書けほらほらほらほらほらほらほらほらほらほら』って自分のケツを叩き続けるって方法なんだよな。
これ創作をする上でためになるちょっとした小技なんですけど、良く寝てよく食べて私生活に支障が出ない程度に楽しむと長続きしますよ。
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