第39話 明日は違うアリス
コウキの道案内で、アリスは一つずつ町の施設を覚えていく。
コウキはスーパーや郵便局、役所だけでなく、個人経営の素朴な雑貨屋も知っていた。
コウキも仲間意識を持っているようで、道すがらアリスにあれこれ質問をする。
「アリスは家族と引っ越してきたの?」
「ううん。ひとり暮らし。家具も家電もないからどうしたもんかなって思ってて」
「え、そうなの? じゃあごはんどうするの? 冷蔵庫がないと生ものが傷んじゃうよね」
「……あたし拒食症で、体がほとんど固形物を受け付けない状態なんだ。だから、もし冷蔵庫があっても肉や魚を買うのはだいぶ先になるんじゃないかな」
コウキなら事情を話しても馬鹿にしない気がして、アリスは正直に答えた。
ここ数日で、ようやく一日一食おかゆを摂取できるようになったところ。
「そっか、ごめん。俺、先生にも言われていたのにな。聞いちゃいけないこともあるって。手首の傷のことも聞いちゃ駄目なやつだった?」
「なんでコウキが謝るの」
並木道で立ち止まり、コウキはうつむく。
「俺にとっての普通は、人にとっての非常識。いつもそうなんだ。察しろ、空気読めっていうやつができなくて。だからみんなに嫌な顔をさせちゃう」
「あたしはなにも嫌なことをされていないけれど。むしろ道案内助かってる」
アリスとコウキ目の前を、モンシロチョウがひらひらと通り過ぎていく。
「これは殺していい?」
「モンシロチョウ? 駄目だと思う」
「アレは?」
民家の窓にくっついている蛾。
「自分ちの中にいたら、退治するか追い出すね」
「チョウとどう違うの? 色が違うくらいで、見た目はほとんど同じ虫じゃん。アリスはどこで見分けているの?」
蛾は退治してもよくて、モンシロチョウを駄目だと思う理由。
コウキはその線引きがうまくできなくて、とても困っているのだけは痛いくらい伝わってくる。
「アリスにも分かるのに、どうして、みんなの普通が俺にはわからないんだろう。教えてもらわないと、季節も見えない。俺だって、同じ
見た目はどこにでもいる少年だけど、コウキは確かに初田の患者なのだとアリスは感じた。
無理に同じになろうとしなくてもいいよ、なんて、そんな言葉を求めてはいないだろう。
コウキはどうしても同じものを見て、普通を感じ取れるようになりたいんだ。
アリスとは違うけれど、どこか似ている。
「そうだね。あたしも、普通に生きられたらいいのに」
「アリスは普通じゃないの?」
「なにをもって普通って言うのかわからないけど、あたしも違う生き物な気がする」
アリスは空を見上げる。視界の片隅に雲がみえる。風に流されてどんどんと形を変えていく。
いつもいつも、リナの引き立て役で、アリス自身の価値はなんなのか見いだせない。
必要としてくれる人なんて一人もいない。
親ですら要らないと言って放り出した。
「あたしの価値ってなんなんだろう」
「それは、アリスが決めればいいんじゃないかな。だってアリスなんだから」
意味がわらかなくて、アリスはコウキを見る。
口下手なりに精一杯考えを言葉にしようと、コウキは身振り手振りをくわえて説明する。
「アリスは大冒険の中で、大きくなったり小さくなったり、鏡の世界に入ったり。物語が進むたび、空の雲みたいに違う形をしている。今のアリスも違うアリスになるんだ」
「違うあたし?」
大冒険をするアリス、それはルイス・キャロルの書いた名著、不思議の国のアリスだ。
コウキはその物語とかけて話をしている。
太りすぎのアリス。
痩せすぎて体を壊したアリス。
違うアリスになれるとしたなら、次はどんなアリスになるのか。
治療を頑張れば、きっとおデブでも骨と皮でもない新しいアリスになる。
「先生の治療を受けて元気になれたら、アリスはどんなアリスになりたい?」
「そうね、傷が治るまでには決めたい」
「そう。そのときは俺にも教えてよ」
「また会えたらね」
ひととおり町を案内してもらって、最後にアリスの住むアパートの前に戻ってきた。
つれないアリスの返答にコウキは言う。
「いつでも会えるでしょ。俺の住んでるとこ、ここから目と鼻の先なんだから。アリスは面白いから、俺、また話を聞きたいな」
「だいたいの人は、あたしの姉さんのこと知ったら、あたしに興味がなくなるわよ」
いつだって、まわりのひとはリナを褒めてアリスを貶す。
コウキももしかしたら、不安にかられるアリスの元に、その不安の元凶がやってきた。
聞き慣れたローヒールのパンプスの靴音が、近づいてくる。
体のラインがわかる黒のレースワンピースを着たリナが、アリスの前に立った。
高名なブランドで身を固めたリナと、ボロアパートはあまりにも不釣り合いだ。
「あら、アリスにお友達なんていたの?」
「……なにしにきたの」
「ひどいわ。お姉ちゃん、アリスのために買い物をしてきたのに。お父さんはなにも買わなかったって言っていたから、姉としてせめてこれくらいは手助けさせて」
右手にさげていた布の買い物袋をアリスの手に持たせて、リナはコウキに微笑みかける。
雑誌に載るときのような完璧な笑顔だ。
「あなた、名前は? 私はリナ。アリスの姉なの。よろしくね。この子、人見知りでいつも私のあとについてまわってて。私がいつも面倒を見てあげているの」
コウキは見惚れるかと思いきや、顔をこわばらせて後ずさりしている。例えるなら、強盗か殺人鬼にでも遭遇したような反応。
リナの質問に、震える声で短く答えた。
「中村、秀樹」
「ひできくんっていうのね。そう。よろしくね。私は仕事があるからもう行くわね。アリス、お父さんがスペアキーはもらってないって言っていたんだけど、くれる?」
「スペアは作ってないからないよ。その分のお金はもらってないし」
アリスが断ると、リナはショルダーバッグから財布を出し、一万円札を一枚アリスに押しつける。
「三日後にまた来るから、それまでに作りなさいね」
リナはコウキにだけ会釈して立ち去った。
足音が完全に聞こえなくなってから、コウキがその場に座り込んでしまった。
呼吸が荒れ、ひどく青ざめている。アリスは買い物袋を横に置いて膝をつく。中身がこぼれ出てしまったが、それどころではない。
ゆっくりとコウキの背中をさする。
「だいじょうぶ、コウキ。ていうか、秀樹って誰。あんたの名前コウキじゃないの?」
「……あれ、アリスの姉? スペアキー、渡さない方がいいよ。俺の元父親と同族の臭いがする」
ようやく口を開いたコウキは、震える声でアリスに忠告する。
「元父親って」
「中村秀樹って、去年母さんが別れた男の名前。一般的には家庭内DVっていうんだっけ、俺と母さんそういうのに遭ってた」
「お姉ちゃんは暴力なんて」
コウキは首を左右に振る。
「暴力だけが家族を傷つける方法じゃないよ。アリスだって、わかってるんじゃない? ほんとうにアリスが大事なら、そんなもの持ってこないでしょ」
買い物袋からずり落ちて出てきたのは、豚ロースかたまり肉や鯖といった生鮮品のパック。
アリスの食生活を知っているはずの人間が贈る物ではなかった。
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