第38話 アリスは赤の女王と出会う

 アパートは風呂なしの六畳にトイレ付きで、キッチンは備え付けの電熱コンロが一口だけ。


 窓には、前の住人が残していったチェック柄のカーテンが下がっている。

 フローリングは磨いてあるけれど、年季の入った傷が所々に刻まれている。


 持ち込めたのはふとんと衣類、少々の食器だけで、家具家電は一切ない。有人が出した軽自動車の片道だけで引っ越しは終了してしまった。


 季節外れの衣類のダンボールだけクローゼットに押し込んで、アリスは外出した。


 このあたりに銭湯があればよし、なかったら鍋でお湯を沸かして、蒸しタオルをするしかなさそうだ。


 洗剤や物干しも買わないと行けないから、ホームセンターかドラッグストアがあると助かる。

 ひとまずあたりを散策して、買い物をできる店がないかどうか探そう。

 クリニックまでの道も覚えないと。



 引きこもっていたときは必要なかったから持たなかったけれど、クリニックとの連絡手段がなくなると困るからということで、入居する直前にスマホを買い与えられた。


 マップという機能を使えば目的地まで道案内をしてくれるらしい。あいにくスマホに触るのは初めてで、どれが道案内機能なのかわからない。


 アリスはジャンパーのポケットにスマホを押し込んで、見知らぬ町を歩いた。


 風に乗って、ふわりと白い小さな花弁が目の前を舞い落ちていった。


 どこから落ちてきたのかと目で追うと、川沿いに植えられている桜の木々がつぼみをつけ、数輪が花開いていた。


 初田のクリニックを訪問した頃にはまだ雪がちらついていたのに、アリスが気づかない間に季節は移ろっていた。

 自然と、足が川の方へ向く。


「ああ、もう春なんだ」


 誰にいうでもなくつぶやくと、アリスの近くを歩いていた少年が歩み寄ってきた。


「お姉さんには春がみえるんだ。どれ?」

「え?」


 少年は見たところ十代半ば。ストレートの黒髪に赤いパーカー、デニムにスニーカー。

 脇にかかえたノートに、マジックで“日記”と書いてある。

 時期的に考えて、高校が春休み中なのかと推測した。


 少年はもう一度アリスに問いかけてくる。


「どれが春?」

「あのさ、あんたがなに言ってるかよく分からないから、一から説明してくれない?」

「きのう診察の時に、初田先生が『今度は春を探してみなさい』って言ってたから」


 初田は珍しい部類に入る名字だ。そして診察。


「もしかして、あんたも初田ハートクリニックの患者?」

「あんたもってことは、お姉さんも初田先生を知ってるんだ? きぐうだね。俺はコウキ」

「……アリス」


 コウキが名乗ったので、アリスもつられて名乗った。すると、コウキの顔がほころぶ。


「そっか、それで、アリス。春ってどれ?」

「ああうん、散策と季節探しがあんたの治療の一環だってことは、なんとなく伝わったわ」


 コウキが普通の感覚とどこかずれていると、短い会話でわかった。


 コウキはどんな人生を送ってきたんだろう。気になったけれど聞くのは無粋な気がして、アリスは桜の木を指さして教える。


「桜が咲いている。桜は春の、このいっときしか咲かないから」

「そうか。これが春なんだ」

「それに、冬の間より暖かい日が増えたでしょ」

「そんなこと、考えたことなかった」


 初対面の他人ながらも、コウキのことが心配になった。どれだけ余裕がない生き方をしたらこうなるんだろう。コウキはアリスが持ち上げた手ーーいや、手首を見て聞いてくる。


「それ、痛くない? 父親にやられた?」


 普通、そんなこと聞いてこない。しかも傷痕を見て、父親にやられたのかと言うのが気になった。コウキ自身が父親にDVでもされているのか。


「……あたしが、自分でやったんだよ」

「痛くない?」

「痛くない」

「なんで切るんだ」

「あたしにもわからない」


 年齢不相応に思考回路が幼い。自分が聞いたことの答えがわかるまで、何度も同じ質問をしてくる。


(幼稚園児と話している気分)


 だからコウキは初田のクリニックに通っているんだとわかった。

 なんとなく仲間意識が芽生え、アリスは初めて他人に踏み込んだことを聞いた。


「コウキ、散歩しているってことはこのあたりに住んでいるの?」

「うん、そう。秋から。毎日ここに来ているけど、アリスとは初めて会ったよ」

「あたしは、今日引っ越してきたばかり。このあたりに住んでいるなら、商店の場所を知らない? あたし、スマホの使い方もわからないから、探せなくて」

「なら俺が案内するよ」


 あっさりとコウキが申し出てくれた。


「え、いや、口で言ってくれれば自分で行くから」

「俺、言葉で説明するの苦手なんだ。ほとんどの人に変な顔されるから、俺の言葉じゃちゃんと伝わらないみたい」


「……一部は例外ってこと?」

「初田先生はそもそも先生自身が変だし、ウサギだから顔色わかんないでしょ」


 笑顔で失礼なことを言うコウキだが、初田が突き抜けた変人なのも事実。アリスもつられて笑ってしまった。

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