第35話 目と耳があるなら、自分で判断してください

 診察当日。

 約束通り、アリスは皐月と一緒に来院した。

 受付にいたネルは、笑顔で保険証と診察券を受け取る。


「えへへ。おまちしておりましたアリスさん~」

「あのさ、病院で歓迎されるのってなんか違う気がするんだけど」


 ネルがいそいそと、ストリート系のファッション雑誌を取り出す。

 どれだけ勧めたい服があるのか、雑誌のあちこちからネコ耳ふせんがこんにちは。

 その中の一着を指さして、興奮気味に語る。


「前回お会いしたとき、アリスさんにこのジャケットが似合いそうだなって思ったの。ほら、アリスさんは目元が凜々しい感じでしょう」


 かっこいいなんて言われたのは初めてのこと。

 ネルの目がどうにかなったのかと疑った。


「……かっこいい? あたしが?」

「はい。あ、雑誌どうぞお持ちになってください」


 気圧されるまま雑誌を受け取った。

 いつまで経ってもアリスが診察室に来ないので、初田が診察室から出てきた。


「こらこらネルさん。仕事中なんだから、おしゃべりは後にしなさい。受付と診察室への案内を先にしないと」

「あー、だめですよにいさん。今の私は根津美さんです」

「根津美さん。受付をしましょうね」


 たしなめられて、ネルは頬を両手で叩いてお仕事モードに切り替えた。

 初田は皐月にやわらかく会釈えしゃくをする。


「お母さん、無理を言ってすみません。アリスさんから話を聞いた後に、中学時代の症状や通院の話を聞かせていただきたいのです」


「……本当にあなた、医者なの?」

「医者ですよ。県立総合病院で研修をして、きちんと医師免許を取得しました。疑うなら精神科に問い合わせてください。もともとそこにいたので」


 アリスが事前に話しておいたけれど、やはりウサギマスクをかぶって闊歩している姿は珍妙だ。皐月が呆気にとられている。


「アリスさん、今日は前回よりだいぶ顔色がいいようだね。きちんと食事を取ったのかな」


 初田に促されて、アリスは診察室のソファに腰をおちつけた。

 他の病院はパイプ椅子かデスクチェアだが、初田のクリニックは座り心地のいい革張りソファだ。


「腕を見せてください」


 腕まくりをして初田に両腕を差し出す。

 大きくて温かな手が、アリスの手首をとらえる。手首から二の腕付近までついているカッターの傷痕を診て、アリスの手を離した。


「この二週間はあまり傷を作らなかったようだね。よかった」

「初田先生って精神科医じゃなかったの? 切り傷を診るのって外科だよね」


「前期研修ーーいわゆる研修医時代に内科、外科など一通り履修して、ようやく精神科医になるための専門研修がはじまるんだよ。つまり、このくらいの外傷なら内科医や精神科医も診ることができる」

「へー。意外」


 初田が胸ポケットからペンライトを取り出し、アリスに口を開けるよう指示する。アリスの口内と喉を確認して、カルテに書き込んだ。


「吐き出すことが減ってきたのかな。声が前回来たときよりなめらかだし、喉と口内も荒れもない。いい傾向だ。よくがんばったね」

「どーも」


 褒められなれていないため、アリスはどう返答していいのかわからず視線をそらす。


 どこまでも不器用で可愛げがない、うまく生きられない自分が嫌になった。


「言ったでしょう。アリスさんはもっと自分を褒めないと駄目だって。前回来たときから今日までで、食事はなにをったかな」


「摂ったって言えるのかな。……ホットミルク。受付の子がくれたハチミツを入れて、毎日一杯ずつ。それから、冊子に載っていた、ヨーグルト、バナナをすりつぶしたやつを朝にちょっとだけ」


「少量でも、食事を摂ったのなら進歩だよ。前よりもめまいや動悸が減って、イライラしにくくなってきたでしょう。偉い偉い」


 アリスの部屋は自宅の二階にあって、部屋に戻るのもおっくうなくらいだった。でもここ数日は足がきちんとあがるし、呼吸も苦しくならない。


 食事を摂っただけなのに偉いと言われて、胸のあたりがこそばゆい。


「今アリスさんの手を取ったとき、すごく冷たかった。食事を摂ることで冷え性改善も期待できるから、ちゃんと食べるんだよ。冷や奴より湯豆腐、ざる蕎麦より温の月見蕎麦という感じで、温かいものを選ぶようにするだけでも違う」


「温かいもの、じゃあホットミルクはちょうどよかったんだ」

「そう。アリスさんにはぴったりだったんだよ。牛乳には健康な体を作るのに必要な栄養素がバランスよく含まれているからね」


 ネルがそこまで考えてホットミルクを推したのかは不明だけれど、アリスの体質改善になっていた。


「これからも焦らず、一歩ずつ前に進めばいい。食事を摂ること以外になにか不安や疑問はあるかな」

「あ……。あたしのことでなく、お姉ちゃんのことなんだけど」


 アリスはリナがついた嘘について話した。


「お母さんにも同じことを吹き込んでいるかもしれないから、気をつけて」

「忠告ありがとう。気をつけるよ。よくリナさんの発言が嘘だって見抜けたね」


「なんでだろう。初田先生って、恋愛ごとや異性に興味なさそうに見える」

「ご明察。アリスさんは人をよく見ているね」


 実際、患者の何人かから「うちの孫を嫁にどうだい」なんて言われることもあったが、全て丁重にお断りしていた。


「それでは、お母さんの話を聞くときはアリスさん同席にしよう。リナさんに傾倒けいとうしている節があるなら、わたしを疑ってかかる。アリスさんが診察室にいたほうがまともな会話になるだろう」

「わかった」



 皐月を診察室に呼ぶと、予期していたとおり初田を問い詰めはじめた。


「質問に答える前に。今朝リナちゃんが話してくれたの。あなた、うちのリナちゃんに連絡先を聞いたんですって? そういうことを医者がするべきではないと思うの」


「聞きませんよ。興味ないですから」

「でもリナちゃんがそう言ったのよ。言い寄られて気持ち悪かったって。あの子は私に嘘をついたりしません」


 初田が否定しているのに、皐月は信じようとしない。


「初田先生は嘘をつかないよ。お姉ちゃんに言い寄るメリットがないもの。そんなことをしたら自分の病院の悪評が立っちゃうじゃん」


「じゃあリナちゃんが嘘をついているって言うの? アリス、あなた姉を疑うなんてどうかしているわ!」

「無条件にお姉ちゃんを信じるほうがどうかしてるよ」


 怒りの矛先がアリスに向かい、初田が遮った。


「お母さん。あなた、ご自分の目と耳がきちんとついているでしょう。“リナさんがそう言ったから”ではなく、自分で判断してください」


 リナの言葉ならなんでも受け入れてしまう皐月。そんな言動を、初田は叱った。


「わたしは何度でも言います。リナさんを口説いていないし、顔を見せた覚えもありません。本当に見たというなら、わたしがどんな顔か言えるでしょう。目立つ傷があるんだ」


 顔に傷なんてない。アリスは見せてもらったからわかる。けれどリナと、リナに嘘を吹き込まれた皐月は知らない。

 皐月は記憶を辿り、言葉をつまらせながら答える。


「は、鼻筋だって言っていたような」

「不正解です。患者を口説いたという嘘を広めるなんて、わたしでなかったら名誉毀損で訴えていますよ」


 皐月は青い顔になり、震える。

 

 初田はネルが持ってきた紅茶を一口飲んで、さっさと話題を切り替えた。


「さ、くだらない話はこれまでにして本題に入りましょう。アリスさんの症状がいつからはじまったのか、どこの病院にかかったかなど、覚えている範囲で教えてください」

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