第34話 「あなたのために言ってあげているの」

 初田の診療を受けた翌朝。

 アリスは太ってしまうことへの恐怖が拭えないから、せめてホットミルクを飲むことにした。


 ずっと、食べることが怖くて仕方がなかった。

 中学生の頃の、鏡餅のような体型には戻りたくない、その一心だった。


 キッチンに誰もいなくなったのを確認してから冷蔵庫を開けた。

 ミルクパンで牛乳を温め、ネルがくれたハチミツをひとさじ加えてカップに注ぐ。


「なんだ、ようやくなにか食う気になったのか」


 振り返ると、部屋着姿の父・有人あるとがいた。血圧の薬を飲むつもりらしく、グラスを手にしている。アリスの持つマグカップを見て、長いため息を吐いた。


「それ一杯だけか? どうして若い女ってーのは、ダイエットしたがるんだろうな。いいかアリス。お前はリナみたいになれやしないんだから、無駄な努力なんてするもんじゃない」


 アリスは有人の言葉を無視して、キッチンに立ったままホットミルクを飲んだ。


 フライドチキン屋のマスコットみたいな体型をしている父親に、ダイエットが無駄だと説かれるこの腹立たしさをぶつける先が見当たらない。


「ごちそうさま」


 ミルクパンとマグカップを手早く洗って流し台の前を離れる。


「おいアリス」

「なに」


 嫌な気分で振り返ると、有人が腕組みしながら説教を始めた。


「おれは来月で六二。三年後には定年なんだ。いい加減バイトするなり高卒資格を取るなり身の振り方を決めてくれ。リナを見習え。立派に自立しているじゃないか。

 それに比べてお前ときたら、高校受験に失敗しただけでなく、その後も働きにも出ないし部屋にこもりきり。

 どこで育て方をまちがえたんだろうな、同じに育てたリナは真っ当なのに」


 昨夜のうちに母・皐月がアリスの現状を伝えてくれたはずなのだが、有人はあまり理解してくれていないらしい。


 昨日、初田もアリスの体型について指摘してきたけれど、それは医者としての注意であり、アリスの体を心配するがゆえの発言だ。

 初田は体の回復を最優先にと言った。仕事をするだの高卒資格を取るだのは二の次三の次だ、と。

 有人はそれを聞いた上で、こんな発言をしている。



 アリスがあえて入試を放棄した事実を知らずに。

 有人が「家からの距離も近いし県立だから学費も安い、だからリナと同じ高校を受験しろ」と言って譲らなかった。皐月も、「姉妹で同じ高校に通ってくれたら嬉しいわ」なんて言う。


 中学で散々比較されて嫌な思いをしたというのに、同じ高校になんて入学したら、また馬鹿にされる。そんなのご免だ。


 だから、試験は全て白紙で提出した。

 アリスの気持ちを理解しようとしない両親に対しての、反抗だった。



「お父さん、あまりアリスをいじめないで。アリスだってアリスなりにがんばっているのよ」


 有人を止めに入ったのはリナだった。

 仕事に行くときに使うバッグを肩にかけている。


「それにお父さん、もうすぐ出勤時間でしょう。早く着替えて準備しなきゃ。ね?」


 この時点でスーツになっていなかったら、いつも乗る電車にギリギリ間に合うかどうかと言ったところ。

 有人はまだ何か言いたげにしながら自分の部屋に戻っていった。

 その背中を見ながら、リナはアリスに声をかける。


「アリス、あの先生に言われてなにか食べたの?」

「……ホットミルクだけ」

「言ったはずよね。男なんてみんな同じなんだから、信用しちゃ駄目だって」


 リナは端から初田を悪い男だと決めてかかっているけれど、初田と言葉を交わしてみて、アリスの気持ちは変わった。


 アリスの容姿を馬鹿にしない、心と体調を気遣ってくれる男の人もいる。



「お姉ちゃん。あの先生、変なかぶり物をしているけど、話してみたら悪い人じゃなかったよ」


「そうかしら? 私、診察室であの先生と二人になったとき、しつこく連絡先を聞かれたわ。もちろん断ったけれど。以降の通院について来るなっていったのも、ばつが悪かったからでしょ」


 たしかにアリスが一人で話をしたあと、リナも初田と一対一で話をしていた。

 少しの間しか会話をしなかったけれど、アリスは初田がところ構わず女性を口説くような人間だとは思えなかった。



「お姉ちゃん、そのとき初田先生の素顔を見た?」

「ええ。不細工なのが恥ずかしくて、人に見せられないから仮面をかぶるんだって言っていたわ」


 リナの答えに、アリスは思わず笑ってしまった。

 初田の素顔を見て不細工だという人はいないだろう。リナを見慣れているアリスが目を見張るくらいには、整った目鼻立ちだった。


 そして何より、本当に初田の顔を見たなら、「殺人犯本人じゃないの」とでも言うはず。指名手配されている嘉神平也と全く同じ顔をしているんだから。


「なにがおかしいのかしら。ああ、先生が不細工だってことがおかしいのね」

「そう思いたいならそれでいいんじゃない」


 いつでも言い寄られて美人だと褒めちぎられるリナ。

 初田は一度も褒め言葉を口にしない上に、あまつさえリナに来るなと言った。だからこれはリナなりの腹いせなのかもしれない。


 初田の評価を落とすつもりで、言い寄られた、不細工だ、なんて嘘をついた。


 仮面をかぶり素顔を見せないと噂の医師。

 リナが嘘の容姿を口にしたって、誰にも真実はわからない。


 けれど、初田はアリスに自分の素顔を見せた。だからアリスはリナが嘘をついているとわかった。初田を陥れる嘘をつくリナの方がよほど信用ならない。


「あたしは初田先生が不細工でもいいよ。あの人なら信用してもいい気がする」

「私はアリスのためを思って言ってあげているのに」

「あたし、もう二十二だよ。誰を信じるかは自分で決めるから」


 それだけ伝えて、アリスは自室にこもった。

 これまでの病院でもらった薬をまとめてゴミ箱に突っ込む。

 有人とリナと言葉を交わしたときは不快で苛立っていたのに、今は不思議と気分が落ち着いている。


 ーーアリスのために言ってあげている・・・・・


 リナはいつもそう。

 親切を押し売りしてくる。

 アリスは一度だって、リナについてきて欲しいなんて頼んでいない。

 リナが勝手についてくるだけ。


 初田に「お姉さんのこと苦手なんじゃない」と聞かれたとき否定してしまったけれど、今ならハッキリと言える。


 アリスは、姉のことが苦手だった。

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