第24話 幻と現実を見分けられる日が来るまで

「ここに住んでいるのはわたしとネルさんだけだよ」


 初田に言われて、ネルは初めて自分の見ているものが幻だと知った。

 これまでに何度も人に変な顔をされることがあったけれど、それはネルにしか見えていないものの話をしていたからだった。


 ネルの目には虎柄の猫が見えていたのに。毛並みの手触りも確かにあったのに。

 ナルコレプシーの症状には、幻覚もあるのだと初田が教えてくれた。



 初田と暮らし始めて数日。

 仕事から帰ってきた初田が、赤地に白十字と白いハートが入った札をくれた。


「これはなに?」

「ヘルプマークっていうんだ。脱力発作や睡眠発作が起きてしまったとき、周りの人にはそれがすごくつらい状況だってわからないだろう?

 この札の裏に緊急連絡先と、対処法を書いておいたから。これを見てもらえば、ネルさんの具合が悪くなったとき周りの人がすぐ助けられる」


 ヘルプマークは、緊急事態の助けが必要な人がつけるもの。

 言われるまま、ネルは学生鞄にヘルプマークをつけた。


 それから初田と二人でそうめんをゆでて、刻み海苔を散らしていただく。

 栄養が偏るといけないからと、トマトとキュウリ、ハムも乗っている。


「明日わたしはお休みなので、お母さんと一緒に高校に行きましょう。先生と今後のお話をしないといけません」


「わかって、くれるかな」


「わたしにできることは全部しましょう。

ですが、ネルさんの通っている高校は普通の学校なので、特別支援学校への転校を勧められる可能性もあることは覚えておいてください」


「……うん」


「希望があれば添えるようにするので、なんでも言ってください」


 今の学校に通い続けたいというのは、先生に迷惑をかけることに他ならない。

 特別支援学校っていうところなら、ネルのように病気を抱えた人でも通いやすいのだと聞いた。


(せっかく、お父さんの母校に入れたのにな)


 ネルの亡き父は、今ネルが通っている高校出身。同じ高校に入れば少しでも父のことを感じられると思っていたのだ。


 でも、移動教室の直前で寝てしまったり、体育の授業中に倒れたり、もう夏休みの時点で遅刻の累積がすごいことになっていた。


 初田と母で、昼休みに保健室で休憩できないものか学校に相談してくれることになっているけれど、許可が下りるかどうか不安になった。


 なんとか卒業できてもその先は?

 ずっと、成人した後もこうして初田や誰かの負担になってしまうのでは。誰かの手を借りないと生きていけないのでは?


 初田はまだ若いから、これから先結婚したい相手だっているのかもしれないのに。


 ネルのせいでそれができなくなるのではないかと考えてしまった。


「ネルさん、手が止まっていますね。なにか悩みごとですか」


「……ないよ」


「嘘はいけません。新米とはいえ、これでも精神科医ですから、それくらいは見抜けます」


 向かいの席から向けられるまなざしは、責めるような色がいっさいなくて、ただただネルを心配している。

 母と同じ、ネルを労る色だ。


(お父さんが生きていたら、こんな感じだったのかな)


 父を知らないネルにとって、親身になってくれる初田は父親のようなイメージだ。

 ごまかしても無駄だとわかったので、素直に口にする。


「今ここにいる初斗にいさんは、本物?」


「どういうことです?」


「まぼろしじゃ、ない? 私は本物と幻、見分けがつかないの。卒業できても、こんな状態で、やとってくれるところあるのかな」


「それが不安なんですね」


 症状が軽くなるまで、人によっては十年近くかかると白兎に言われている。

 早い人は十年かからず睡眠発作が出にくくなる。

 遅い人はどうなるんだろう。十年以上?


 初田は少し考えた後、席を立ってそっとネルの手を取った。大人の男性だから大きくて、そして温かい手がネルの手を包む。


「わたしは間違いなく初田初斗ですよ」


「本物だって言っているにいさんもふくめて、まぼろしかもしれない」


 ネルには、まぼろしと本当を見分ける方法がわからない。

 見えていたはずの猫の手触りも鳴き声も偽物、幻だった。ずっとこんな病気と付き合っていかないといけないのかと思うと、不安でたまらない。


「なら、ネルさんが見分けられるようになるまで何度でも言いましょう。

 帽子屋と眠りネズミのお茶会は終わらないのが常ですからね。ネルさんが嫌になっても言ってあげます。わたしはここにいるし、ネルさんはちゃんと、わたしと手を繋いでいますよ」


「初斗にいさんには、初斗にいさんの人生があるのに。初斗にいさんは、自分の病院を持ちたいって、言ってるのに」


 誰かの迷惑にしかなれなくて、自分が嫌になってしまう。泣きそうになるネルの心を、初田が引き戻す。


「ネルさんはやりたい仕事がわからない、夢を探している途中だと言っていましたね。

 卒業後もどうしても見つからなかったら、わたしのクリニックを手伝ってください」


「にいさんの、クリニックを?」


「そう。ほら、わたし犯罪者の弟じゃないですか。そのせいでうちの受付になりたいって言う人がいないんです。

 ネルさんが嫌じゃなければ、就職先の候補の一つにしておいてください。福利厚生として、お昼寝の時間をきちんと確保します」


 初田は冗談めかして、優しい笑顔で言う。きっと半分は本当だ。

 親戚の人たちですら、「殺人鬼の弟なんか信用できない」と陰で言っていたのだ。口さがない赤の他人ならもっと聞こえよがしに言う。


 初田本人は何も悪いことをしていないのに、味方になってくれる人はほとんどいない。それなのにネルのことを助けると言ってくれる。


 だから、ネルは迷わないで答えた。


「うん。初斗にいさんのクリニックで働く」

「うちで働くなら、医療事務の資格があると大変嬉しいですね」

「それは、何歳になったら取れる?」

「年齢制限はないですが、医療事務の専門学校に行けば詳しく教えてもらえるので資格を取りやすいです」


 どこを目指せばいいのかもわからない真っ白だった道に色がついた。

 初田の夢であるクリニック、その手伝いをしたいとネルは心から思った。


 幸い、学校は友子と初田の説得に応じてくれて、ネルはこれまで通りの高校に通うことができる運びとなった。昼休みに少しの間、仮眠を取ることを許してもらえたのだ。


 月に一回白兎の元に通院して、副作用や幻覚、睡眠発作の状態に合わせて薬を調整する。

 通院の際は初田が一緒に行ってくれて、普段のネルの症状を伝えてくれる。帰りに友子のところに行って経過報告するのが常だ。


 そして初田の元で暮らすようになって一年が過ぎ、二年生の秋。


 三者面談の場で、ネルは胸を張って担任に希望進路を伝えた。


「卒業したら医療事務の学校に行って、初斗にいさんの立ち上げる病院で働きます」

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