第8話 実の成る木と、挨拶以下の些細なこと
診察予約の当日。
初田は電車で中村家に向かった。
チャイムを鳴らすと礼美がすぐに出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、お待ちしてま……」
扉を開けた姿勢のまま、礼美が言葉をつまらせた。
「青い帽子が嫌いなようだったから黄色い帽子にしたんだけど、お気に召さなかったかな?」
「あ、いえ。そのかぶりもののままクリニックからいらしたんですか?」
「わあ! うさたんがいるー。うさたーん! と小さな子に囲まれてね。やっぱりみんなウサギが大好きだ」
一瞬呆気にとられたものの、礼美はすぐに気を取り直して、初田をリビングに通した。
家の中だというのに、よそ行きの格好をしている。担任教師が家庭訪問に来たときの親そのもの。
もしかしたら、Tシャツにストレッチパンツというような、ラフな服を持っていないかもしれない。
掃除が行き届いているが、どうにも息苦しい家だと初田は思った。
単語一つで表すなら殺風景。
よく、マンションや一軒家のモデルルームというものがあるが、アレから生活感を一切取り払ったらこうなる、と言えば伝わるだろうか。
インテリア、観葉植物はおろか、写真や絵の類が一つも飾られていない。
カーテンは単色のグレー。
目につく家具は全部黒。
ビジネスホテルよりいっそ人間味がない部屋に、薄ら寒さすら覚える。
「今コウキを呼んできますね。それと、こちら頼まれていたものです」
「ありがとうございます」
電話予約した日から診察日までのコウキの様子をノートに記してもらっていた。
四人掛けテーブルセットの椅子に座って、ノートのページをめくる。
【食欲は変わらず、肉を好んで食べます】
【主人の目を盗んで、コウキを散歩に連れ出しました。コウキは嫌とも楽しいとも言いません】
【生ゴミの袋に、切断されたネズミが入っていました。コウキに聞いたら自分がやったと言いました。なぜ私は今まで気づかなかったのでしょう。虫殺しどころじゃなくなっていた】
【主人は仕事が繁忙期だと言い、スーツケースに大量の着替えを詰めて出ていきました。しばらくは会社そばのビジネスホテルから出社するそうです】
秀樹が出ていった日付は昨日。
礼美がネズミを見つけた当日だ。
ボールペンで書かれた文面はところどころ文字が震え、書き損じを黒塗りで消している。
礼美が震えるような状況を、おそらく秀樹も目の当たりにした。
妻にすべての責任と後処理を押し付けて逃げたのだと、すぐにわかった。
次に殺されるのは自分だと、本気で思ったんだろう。
やはり中村秀樹という男は、父親としての自覚と責任感が皆無だった。
あまり待たないうちに、コウキが二階から降りてきた。
ウサギ頭を見ても顔色を変えない。昨日ネズミを殺していたとは思えないような、普通の顔をしている。
「先生。今日は何を話せばいいんだ?」
「今日は絵を描こう。ほら、紙と鉛筆と消しゴムを持ってきたから。実のなる木が見たいな」
「それって治療に関係あるわけ?」
「意味のないことに意味があるのさ」
コウキが向かいの椅子に座り、初田はテーブルに筆記具を乗せる。
無地の白い紙。
2B鉛筆。
消しゴム。
「このA4サイズの紙に描いてほしい。学力テストじゃないから制限時間はない。思いつく木のある景色を描いてくれればいいから」
「べつに、それくらいかまわないけど」
初田はコーヒーを運んできた礼美にも声をかける。
「お母さんも、息抜きにお絵かきしましょう。実の成る木を描いてください」
「は、はあ」
困惑しながらも、礼美はコウキの隣に椅子を引いて席についた。
コウキは左手で鉛筆を握り、紙を横にして、デコボコな地面を描きはじめた。ガシガシと細かく動かして、地面を黒く塗りつぶしていく。
そして今にも枯れそうな細木を二本。枝は弱々しい数本しかなく、葉っぱもない。根もない。
たった一つだけ成っていた実は地面に落ちてしまっている。
片方の木には蛇が巻き付いている。
真っ黒な地面からいくらか雑草が生えているだけ。
その二本の細木が強風にあおられている。
草木がまともに生えない荒れ地に、なんとか生えている弱い木。寂しくて悲しい印象を覚える絵だった。
たっぷり十分かけて描きあげて、コウキは初田に絵を渡した。
「先生は描かないのか?」
「わたしはお仕事中だからね。仕事がないときに描くよ」
できました。と、コウキと同じタイミングで礼美も描き上げた。
傾斜のある地面、右に傾いた木が三本風に吹かれている。
葉が一枚もない木のうろにリスの親子がいて、どんぐりを抱えて身を寄せ合っている。
石や落ち葉が転がる寂しい風景の中、そこだけがとてもあたたかい。
じっと絵を眺め、初田は二人に確認を取る。
「この絵、もらってもいいかな」
「別にいいけど、もらってどうするのさ先生」
「絵を集めるのが趣味なんだ。根津美さんにも描いてもらったんだよ、ほら」
紙の真ん中に、堂々と根を張った大木が鎮座している。
広葉樹とわかるうねうねした葉のかたまりの線が引かれ、いくつもの木の実が枝からぶら下がる。
左上から注ぐ太陽の光を浴びて、元気いっぱいに育っていた。
それを見て礼美は感嘆の息を吐く。
「あの子そのものみたいな、明るくて元気を分けてもらえそうな絵ですね」
「ふふふ。お母さんはなかなか才能がありますね」
礼美がネルと対面したのは、コウキの初診日の一回きり。絵から人柄を想起するのはなかなかのものだ。
「なぜこの絵を見てそう思われたのですか?」
「なぜかしら。わからないわ」
「直感は科学で測れないですからね」
雑談を交えながら、いったん礼美には離席してもらい、コウキと一対一で話をする。
「コウキくん。前回の診察から今日までで、何か変わったことはあるかい。寝付きが悪かったとか、食べ物が喉を通らなかったとか、そういう些細なことでも気づいたことがあれば」
「病院に行くなって言われて勉強していたくらいで、他はとくにないかな」
「何もない?」
「あ、昨日は新聞配達のオジさんとあいさつした」
礼美の書いてくれたノートと照らし合わせると、父親が逃げ出したことなど、コウキにとって見知らぬ人との挨拶以下の事象なのだ。
秀樹のことは、父親どころか家族とすら認識していないかもしれない。
同じ家にいる他人。
いてもいなくても変わらない存在。
親子関係の修復が不可能に近いのは明白だった。
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