第7話 殺すために捕まえるのと、捕まえたから殺すのは同じだろ?
初田ハートクリニックの予約を無断キャンセルして五日経った。
九月も中盤にさしかかり、冷え込む日が増えた。
中村秀樹は夜中に尿意を覚え、階段を降りた。
ベッドの宮棚に置いたデジタル時計は蓄光で4:04を表示している。
初田に来院するよう言われたが、コウキはこれまで通り部屋で勉強していると礼美から報告を受けている。
(ほらみろ、何もないじゃないか。だいたい精神科医なんて、本当に診療になっているか疑わしいんだ。危うくヤブの見立てに騙されて無駄な医療費を払うことになるところだった)
クリニックに苦情の電話をするのにだって有給を半日使ってしまった。
秀樹は入社してからあの日まで、葬式以外で有給を使ったことがないのが自慢だった。
(しかもクソ医者が児相に連絡を入れやがって。オレの経歴に傷がつくところだったじゃないか。最近の奴らは何かあるとすぐ虐待だなんだと騒ぐ。軟弱すぎる。これくらい勉強するやつ、オレがガキのときにはいくらでもいたのに。クソクソクソ!)
トイレに向かうのにダイニングキッチンの前を通らなければならない。
扉が薄く開いていて、なにやら音が聞こえる。
ダン、ダン、ゴリ。
木製の硬いものを叩くような音、合間合間にチチチという鳴き声らしきものも聞こえる。
近所に魚屋があるためか、家の中をきれいにしていてもネズミが侵入することがある。だからネズミ取りをしかけていた。
ネズミがかかっただけなら、鳴き声がするだけのはず。
キッチンの流し手元灯だけがぼんやりついていて、人影が見える。
礼美がこんな時間から料理の仕込みをすることはない。
秀樹が作りたての温かい料理を好むため、礼美が料理を始めるのは秀樹が起きる一時間前、朝六時からと決まっていた。
泥棒なら灯りをつけ音をたてるなんて馬鹿なことしない。
可能性がないものを引き算しながら、秀樹はダイニングキッチンに踏み込んだ。
パタ、と秀樹の立てたスリッパの音に気づいた人物が振り返る。
コウキだ。
「夜食でも作っているのか」
夜中にお腹が空くことは、十代の若者ならよくあること。
秀樹はホッとして歩み寄り、血の気が引いた。
ーーまな板に、首と胴がお別れしたネズミが乗っていた。
コウキは罠からネズミを出し、左手に肉切り包丁を持って振り下ろす。
鳴き声が途絶え、まな板に染みが広がる。
秀樹の喉は声を出そうとして失敗した。ヒュ、と乾いた音を出すのみ。
頭が一気に冷える感覚。
普段からやっているのか、振り下ろす刃に迷いがない。
(こいつは何をしている。なんなんだコレは)
右手を朱く染めるコウキの口元は、笑っていた。
秀樹は息子が笑うところを初めて見た。
「な、にを、している、やめろ!」
「なんで?」
怒られている理由が一切理解できないという顔をしている。
「殺すために毒餌の罠を仕掛けたんだよな。なら殺してもいいはず。初田先生が、猫を殺すのは法律で禁止されているって言った。殺すために捕まえたネズミを殺して何が悪いんだ」
「あ、う」
コウキは抑揚のない声で、おぞましいことを口にする。
毒餌のネズミ取りを仕掛けているのは確かだし、死ぬ過程が異なるだけで殺すことにはかわりない。
理論上は間違ってはいない。
だが、自ら手を下すか、放置した罠の毒を食って死ぬかは、同じようでいて違う。
秀樹は、コウキの凶行を止めるための正しい言葉を持っていなかった。
ーーあなたは崖っぷちに立っているコウキくんの背中を押そうとしている。
コウキはまたネズミ取りに手を突っ込み、ネズミの首をきつく握りしめる。
秀樹の寝間着のズボンが湿っていく。
トイレに行くため階下に降りたことなど、頭の中から抜け落ちていた。
ダイニングにかけたアナログ時計が秒針を刻み、短針がカチリと音を立ててる。
ーー次に狩る不要品は、
初田の言葉が頭の中で反響する。
次は秀樹が狩られる、あのネズミのように。
秀樹は悲鳴を上げ、玄関から飛び出した。
従順で成績優秀、将来有望。
そんな理想の息子はどこにもいない。
(あの初田とかいう医者がもっと強く言ってコウキを入院させるなり投薬させるなりしないからこうなったんだ。そもそも礼美がちゃんと教育しないならこんな愚かなことをするバカに育ったんだ。悪いのはあの医者と礼美で……)
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