第3夜 優男の功笑

◇◇◇◇◇



 時刻はちょうど昼飯時。町の定食屋はどこも満杯で、通りには店内からあふれた客がいくつもの行列を作っていた。

 どの店からも食欲をそそるにおいが立ちのぼり、道ゆく人々の鼻腔を刺激している。


 例にも漏れず、市中の中心地―樽屋町たるやちょうにある蕎麦処『葵家あおいや』の店内も、大勢の客でごった返していた。

 ひっきりなしに出入りする客の間を縫うようにして、女将は注文を聞いたり配膳をしたりと大忙しの様子。


 大将自慢の手打ち蕎麦が名物のこの店は、女将のほかに従業員が一人だけである。

 少し前までは主人と女将の二人だけで切り盛りしていたというのだから、店の盛況ぶりを見れば驚きだろう。


「ごちそうさまー」

「ありがとうございまーす」


 長い髪をうなじの少し上あたりで団子状にまとめ上げ、巴は店をあとにする背に声をかけた。

 幅広の白い絹紐リボンの下に縛った躑躅色つつじいろの結い紐が、頭を揺らすたびにちらりちらりと見え隠れしている。


「巴ちゃん、六番ざる蕎麦、上がったよ!」

「はぁーい!」


 女将からの呼びかけに明るく返事をした巴は、さっと食台を拭くと完食されたばかりの皿を片づける。

 するとすぐに次の客が暖簾を上げて顔を覗かせた。


「おばちゃん! いつもの!」

「あいよ! 天蕎麦一丁!」


 常連客からの注文に、女将が店の奥からふくよかな体を弾ませて返事をする。

 慣れた手つきで盆に小鉢を並べ、女将は打ちたての蕎麦を湯に放り込んだ。

 くつくつと沸く大鍋の湯の中で、コシのある麺が軽やかに踊る。

 網ですくわれ手早く湯から上げられた麺が、竹ざるの上でキンキンに冷えた井戸水に瞬時に熱を奪われていく。


「ざる蕎麦お待たせしましたー」


 女将の手によって美しく盛りつけられた膳と引き換えに、巴は差し出された小銭を受け取った。


「ありがとうございます。ごゆっくりどうぞー」

「おねーさん♪」

「はい、なんでしょう?」


 釣り銭を渡してきびすを返そうとしたときだった。

 六番座席の客からつんつんと肘をつつかれて呼び止められる。

 なにか粗相でもあっただろうか。注文も釣りの勘定も間違えていないはずなのだが。


 小首をかしげて振り返った巴だったが、次の瞬間に彼女の表情がわずかに固まる。

 巴は、その客の顔に覚えがあった。


(こいつはたしか……輝真組きしんぐみの、綾部聖あやべひじり……)


 巴を呼び止めた客の男は、にこにこと微笑みながら彼女を見上げていた。


 輝真組は、帝府お抱えの治安維持組織である。

 巷で起こる窃盗や喧嘩の仲裁、詐欺や暴行などのあらゆる事件事故に対応するために据えられた組織だ。

 時には辻斬りなどの凶悪犯罪の対処などもおこなっているようだが、近年はもっぱら、打倒帝府を掲げる浪人の取り締まりや鎮圧がおもな任務になっていた。


(『佑介』のときに出会っても気づかれないと思うけど、あんまり顔覚えられたくないなぁ)


 濃藍色こいあいいろの長い髪を後頭部の高い位置でひとつに結った男―綾部聖は、その輝真組の隊長格の一人だった。詰襟の隊服でないところを見ると、どうやら今日は非番であるらしい。

 白の稽古着と紺碧の袴姿は、まるで道場に通う剣術少年のような出で立ちである。

 当人はすでに少年という歳でもないのだが、彼の素性を知らない者は、まさかこの優男が輝真組の、しかも壱番隊隊長だとは到底思わないだろう。


「おねーさん、ここに住み込みなんですか?」

「いえ、まあ……」


 年季の入った一枚板の食台に肘をついて、彼はにこにこと小首をかしげていた。注文したざる蕎麦のことなどほったらかしである。

 巴は聖に気づかれないように、細く息を吐き出した。


(めんどくさいのに捕まったなぁ……)


 反帝府組織である忠軍に属する巴からしたら、輝真組とはいわば敵対関係にある。

 正直なところ、できればあまり関わり合いにはなりたくはない。


「ねぇ、おねーさん。お仕事終わったら、僕とおでかけしませんか?」

「……は?」


 聖からの思いもよらぬ誘いに、無意識に巴の眉間にしわが寄った。

 この男はいきなりなにを言い出すのだろうか。


(めんっどくさー……)


 こういうのはあいまいに相づちを打って、適当にやり過ごすにかぎる。

 しかし、どうもそれは許されないことらしい。

 聖は笑みを浮かべたまま、蕎麦に箸もつけずにじっと巴を見上げている。

 返答を催促するかのような視線に、巴はさっさとこの場から立ち去りたい衝動に駆られた。


「巴ちゃーん! 注文ええかー?」

「はぁーい、ただいまー」


 渡りに船とはまさにこのこと。常連の大工に呼ばれ、巴はこれ幸いとそそくさとその場を離れようとした。


「っ……!」


 しかし客のもとへ向かおうとしたのもつかの間、たすき掛けにした薄紅梅色うすこうばいいろの小袖のたもとをつんと引かれる。


「ね、終わるまで待ってるからさ」

「…………」

「よかったら一緒に」

「でかけません!」


 聖の言葉を遮ってぴしゃりと言いきる。

 彼の指先から袖を引き抜くと、巴は足早にその場をあとにしてやった。



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