5. 視界
「それ懐かしむ事あるんですね」
「モノの怪喰ったのが懐かしかったわけじゃなくて」
ユエはモノの怪を喰う。
正確には、子宮に宿る「魂」のために喰う。その魂はユエが故郷を離れた原因でもあり、今まで死なずにいられた要因でもあり、もっとも恐れる対象でもあった。
ユエの子宮には、魔女の魂が寄生している。
魔女の魂が飢えれば、ユエは魂を
ユエが死に瀕すれば、魔女の魂は目を覚まし、
クォンと出会う直前にガノイの荘園でモノの怪を退治した。その時、犬の怪の猛攻を受けてユエは死に瀕し、魔女が出た。
なくした思い出の情報はリールーから聞いたが、ユエは喪失感すら覚えることができなかった。ユエしか知らない思い出をなくせば、なくしたことさえ気づかない。
ユエは、クォンをなくすことを、ずっと恐れている。
密林を割って通る道は分岐して、見覚えのある道は遠ざかっていった。
「あの時はね、自分に家族ができるなんて思ってなかったな」
「私はあの時から一目惚れでしたよ?」
「最初に会ったとき、わたし、そっけなかったよね。変なひとだなぁって思ったよ」
「懐かしいですねぇ。それで翌々日にまた会いましたね。まさか行商帰りに将来のお嫁さんに会えるとは、何があるかわからないもので――」
ユエが荷台からひらりと飛び降りた。
前方に何か出たのかとクォンが慌てて注視するのにかまわず、ユエは平笠を外して素早く、背伸びして夫の頬に口づけた。
夫が目を白黒させる。
ベッヘェーヒェ! とモンチャンが鳴き、ユエは耳長馬の鼻先にも口づけると、音もなく荷台へ飛び乗った。
「あの……ユエさん、急に来ましたね」
(うむ。急に行ったな)
クォンがどぎまぎと馬を引き、リールーが感慨深げにつぶやく。
ユエは、一緒に懐かしめる人が、たまらなく愛おしい。
荷台に立って見下ろせば、小さく丸まって、幽霊のくせにくぅくぅと寝息を立てるホァがいる。この子の事を、いまここにいるこの子の事を、右目と夫と三人で懐かしむ時が来るのかもしれないと、ユエは不意に思ってしまった。
「まいったね、リールー。情が移っちゃった」
(私としては、悲しむべきか、喜ぶべきか)
「安心してよ、後悔しないから」
腰をおろして長く息を吐く。こんなに短い間に、他者に情がわくとは思わなかった。
「幽霊が本人ではないっていうのが、ほんとうに本当だとしても、わたしたちはこの子に会ったんだなって、いま思ったんだ。昨日は大人しかったから、こんな元気がいいとは思わなかったよ。人見知りしないし。素直だし。いい子なんだね。生きてた頃とは違うんだとしても、わたしは、この子がいい子だと思った」
(うむ)
リールーは思う。
いま話しているユエは、ほんの十年ほど前まで使い魔として仕えた魔法使いとは違うのだ。すでに昔の彼女ではなく、もう昔の彼女でもなく、しかし、いま、素直に心情を打ち明けてくれているこの娘を、リールーは好ましく思っている。これからを見ていきたいと思っている。
「これからが」
ユエの声と共に、リールーの視界が突然に曇った。奥歯の軋りが、骨を通って眼窩に届いた。瞼が落ちて暗くなり、緩く圧力を感じ、光が届いた時には元通りの視界で、ホァの華奢な肩のあたりと、幽霊に特徴的な
ユエが深呼吸をしたようだった。
「……この子には、この子としてのこれからは、もう、あんまりないからさ。だからそれが穏やかであるように、最後までしっかりやるよ。見ててね。リールー」
(任された)
リールーの視界が動く。耳長馬の白い尻と、クォンの背中の震えが見える。
(ふむ。泣いておるなぁ)
「クォーンーん?」
「泣いてませんよ。泣いてません」
ユエは再び飛び降り、夫に近寄る。背中をさする音がリールーにも届く。
ユエは気づいているだろうか、とリールーは思う。
クォンを見るとき、右目の視界はいつも、ほんの少し明るくなる。
その夜、四人は予定通りホァの村についた。
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