化け猫おくる

帆多 丁

1. 迷子

 赤茶けた土埃の道を、よたよたと行く子供の姿があった。

 すり切れたわら山笠やまかさをかぶり、埃にくすんだ黄色の胴布イェムけ、裾の広い海老茶のつつはかまの裾を引きずる。

 道沿いの檳榔樹びんろうじゅや菩提樹の影を渡り歩くように進んで、どれほど経っただろうか。脚にこさえた虫刺されが腫れて痛む。目指すいちまでどれぐらいなのか、幼い頭では分からない。家から持って出たなけなしの酸肉テッチュアも食べてしまった。

 どこかから、猿の吠え声が聞こえる。

 ひもじく、疲れて、行くも帰るも難しく、何より父親の事が気がかりで、子供は鼻をすすりながら道を行く。

 道はいつしか別の街道と交わり、がらごろと音を立てて荷車が一台追い抜いていった。俯いて歩く子供の鼻に、吸管酒ズオウカンの香りがと漂ってきた

 吸管酒ズオウカンは、村の集まりの日に振る舞われる酒だ。その日にはちまきや、蒸し甘蕉バナナと焼き魚の春巻や、水牛の乳を万寿果ドゥードゥーの果汁で固めた乾酪やらを食べられる。

 そんな日には父親の機嫌もよく、たくさん構ってもらえるのが嬉しかった。

「とっと……」

 思わず父を呼んでしまう。小柄な馬の白い尻が目に入った。

 馬は荷車を引き、馬の端綱はづなを男がひとり、鼻歌まじりに引いている。男がちらりと振り返ったが、止まることはなく、荷車は徐々に遠ざかっていく。

「とっとぉ……」

 急に恋しさが勝って、ぼろぼろと涙が出てきた。足は重たくなり、まるで田んぼの中のようにとしか歩めない。

「待ってえ……とっとぉ……待ってよお」

 前を行く荷車の男がもういちど、子供をちらりと見た。頭の笠を外して、束ねた黒髪の頭をひとかきした。そして、馬に道草を食わせ始めた。

 男が振り向いた。

「小さいお嬢さん、どうしたんですか? 迷子です? いったいどちらへ?」

 人の良さそうな若い男だった。まっすぐな黒髪、浅黒い顔に困ったような表情を浮かべ、形のいい麻の襟付きを着て、首から赤いお守り袋を下げていた。

 子供はぐしぐしと顔をげんこつでぬぐって、身体の前で両手を握り、男の手が届かないところから答えた。

「お、おら、ガイドンいちまで買い物に行くんだ」

「そりゃ奇遇ですね。私の家もそこですが」

 男は少し驚いたような顔をして、続けた。

「しかしベソかきながらお使いっていうのも随分なことで。それに籠も何も持たずに、なに買おうっていうんです?」

「化け猫さん」

「ばけねこさん」

 男がきょとんとする。

「おらのとっとがモノの怪に憑かれたんだ。そいで、ガイドンにおる化け猫うんはどんなモノの怪でもやっつけてくれるって聞いて、だからおら、なんとか化け猫さんを買いたいんだ。なああんさん、化け猫さんはどこで買えるか知らねえですか?」

「化け猫さんは売りものではありません」

 男は苦笑いして、こう続けた。

「そのひとは、私のお嫁さんです」



 *  *  *



 そのころガイドン市では「化け猫さん」が買い物をしていた。

苦瓜コークァにもう一声くれたら、莚菜ザウモンも買っちゃいますよ!」

「おやおや奥さん気前がいいね。なんか良いことでも?」

「やだよあんた、決まってるじゃないか」と女将おかみが小突く「クォンさんが帰ってくるんだよ。ねー、ユエちゃん」

「そうなんですよ。だから好物を買っといてあげたくて。えへへ」

 店主は言った。

「かー!」 

 店主は繰り返した。

「かー!!」

 女将が巻き取った。

「じゃあユエちゃん、苦瓜コークァ莚菜ザウモンを一把オマケして二百ドン!」

「百九十!」

「百九十、売った! 持ってきなー!」

「ありがとう女将さん!」

 買った野菜を籠に足し、化け猫はいそいそと家路につく。

 名前をユエという。異人の娘である。

 西方の異国から来たという意味でも異人であり、猫の目を右目に持つという意味でも異人であった。

 路地を行く彼女の足取りは軽く、稲穂色の髪が肩口に跳ねる。

「ねえリールー。クォンは今日中に着くかな。明日になるかな」

 ユエが右目に問いかけると、右目リールーは細かく震えた。その振動が頭蓋を伝わり、音としてユエの耳に届く。

(さて、どうだろうか。商談の進み具合にもよるのだろう?)

「うん。会うの、久しぶりな気がする」

(今日が七日目)

「明日は八日目。わたしがセミなら死んじゃうとこだ」

(おや。その心配は要らぬようだぞ)

 右目が道の向こうへ焦点を合わせた。

 耳長馬みみながうまを連れた男が路地へ入ってくるのに、ユエの顔がぱっと華やぐ。

「クォーーン! おかえりー!」

 大きく手をふり、風のように駆け寄り、荷台を見て、酒のかめに紛れて座る少女にユエはうめいた。

「クォンんんんん……! この子どこで拾ってきたの……!」

「いやいや、ユエさん聞いてください。最初は迷子だと思ったんですよ。それで声をかけたんですけど――」

「違う違う。そういうことじゃないんだよ」

 野菜に興味しんしんの耳長馬から籠を遠ざけつつ、ユエは夫の腕をつかんだ。

「この子、幽霊だ」

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