農民A氏「今日はいい天気ですね」で魔王を攻略してしまう

やまだたろすけ

平凡な農民が恐怖の魔王に出会ってしまう

 コロンナ地方のサンシャ村はのどかな田園地帯だ。大きな平野に畑が広がり、ぽつぽつと人家がある。住民の大半は素朴な農民だ。都会の喧騒や乱世の混迷はこの村には見られない。


「今日はいい天気ですね」


 この平凡な挨拶がサンシャ村にはよく似合う。強い嵐やひどい干ばつは長らく起こらない。青い空、白い雲、温い光が春夏秋冬の風物詩だ。雨は穏やかに降り、風は清らかに吹く。悪天候は長く続かない。サンシャ村の雨上がりの空はまた一層にいい天気だ。


 この平和な村に一人の若い男がいた。寡黙な大人しい青年だ。彼の存在は村では全く目立たない。皆は彼を「あいつ」とか「あの人」とか「農民A」と呼ぶ。これは残念なあだ名に見えるが、くしくもアルバート・ハレルヤ・アスランの頭文字とは一致する。この伝説の勇者みたいな仰々しい名前は彼の本名だが、その平凡な風貌と控えめな性格と地味な生業には全く嚙み合わない。


「今日はいい天気ですね」


 他方、この平凡な台詞は平凡な農民Aと完全無欠にマッチする。そして、これ以外の言葉は彼の口からめったに出ない。面白い話題、珍しい話、悪口、陰口、日々の愚痴、そういうものはこの寡黙な若者とは無縁だ。平凡な挨拶と二言三言のありきたりな台詞、これを淡々と発するのが彼の特技の全てだ。


 この平和なサンシャの村に久々の災いが訪れた。魔王軍の襲来だ。魔族と魔物の軍団は破壊と混乱を全土に振りまき、人々を恐怖のどん底に叩き落す。百年前に突如として現れた魔王ガデスは北の果てのブリンザ地方のヘルフェインに居を構えつつ、人気の旅芸人のような神出鬼没の機動力であちらこちらに登場し、徹底的な侵略でいくつかの城や町を地図から消した。今やこの忌々しい名前はどんな王族や武将より有名だ。人々は天災や疫病などを語るようにこの名を口にする。


 その恐怖の軍団がのどかなコロンナ地方の平和なサンシャ村に忽然と現れた。村の住民たちは風の噂で逃げまどって、金持ちは館の門を固く閉じた。


「けちなところだな……」魔王ガデスは無人の農村を見回しながら言った。「宝はない。娘はいない。まともな兵士すらいない。ひどい無駄足だ。ジャズウよ、おれは空しくなるぞ」


「では、私の魔法で焼き払いましょう」邪悪な軍師ジャズウが言って、杖を振りかざした。


「焼き払うか」ガデスは虚無的に呟いた。「焼き畑に焼き芋だな。けちな放火魔みたいな仕事だ。魔王の仕業ではないな」


「そうでございますな」ジャズウは魔法をひっこめた。


「焼き払うなら、でかい城か宮殿を焼け。壮大な歴史的建造物が炎の中に崩れ落ちるのは爽快で美麗だ。おれが前に焼いた東方の金の社は素晴らしいものでなかったか?」


「白い雪の舞う中に炎に燃える黄金の伽藍。あれは素晴らしいものでした」


「あれが魔族の真骨頂だ。畑をちょろっと焦がすというのは魔族的ではない。焼き芋では魔王の心は満たされない」ガデスは拳をぎりぎり鳴らした。


「まさか私もコロンナがこんなに辺鄙な場所だとは思いませんで……」軍師は縮こまった。


「今日の遠征は外れだ」魔王は足元を蹴って、大地を揺らした。「しかし、このまま手ぶらでは帰れん。少し足を延ばして、ブレイトンに寄るか。あそこはちょっとした街だ。気休めの一つや二つはあろう」


「そう致しましょう」軍師は頷いた。

 

 魔王の軍団はケチな集落の中に目ぼしいものを探しつつ、村道をのしのし歩いて、素朴な小屋の前に通りかかった。そこは例の平凡な農民の平凡な住居だった。ふとその扉が開いて、アルバート・ハレルヤ・アスランを表にころんと吐き出した。くしくも異形の行進はアスラン家の真ん前を横切り、さらに魔王ガデスの大迫力の巨体は戸口の正面にでんと立ちふさがった。両者はこの上なく完璧なタイミングでばったり鉢合わせた。


「今日はいい天気ですね」アルバート・ハレルヤ・アスランは反射的にそう言った。これは不自然ではない。家の真ん前にいるものに挨拶するのは世間の常識だ。そして、今日はいい天気だった。


「お、おう」魔王ガデスは突然の気安い呼びかけにひるんだ。かたわらの軍師ジャズウもこのような不測の事態に茫然と立ちすくんだ。


 たまたま通りかかった村の農夫は遠目にこの状況に気付いて、大声で次のように叫んだ。


「逃げろ! そいつは魔王だぞ! ぼさっとしないで早く逃げろ!」


「魔王?」アルバートはぼそっと言って、眼前の異形の巨漢を見上げた。「へー、大きな人だなあ。あなたが魔王さんですか?」


「そうだ! 魔王さまに気安く近寄るな!」ジャズウは我に返って、農民と魔王の間に入り、魔法の杖をぐいっと掲げた。


「おまえは何者だ?」ガデスは素朴な若者に困惑しつつ、両拳をすっと構えた。「やるか? 素手か? 格闘家か?」


「ぼくは平凡な農民です。今日はいい天気ですね」若者はそのように繰り返した。


「天気が何だ?」ガデスはきょとんとした。


「お昼寝には最高ですよ」若者はむにゃむにゃと欠伸をした。


「この体たらくだ」魔王はがっかりして、拳を緩めた。「人間はこれだ。すぐに怠ける。怠惰な生き物だ。天気で物事を決めるのは愚の骨頂だ。たしかに地を耕して生きる脆弱な種族には天気は重要だ。しかし、魔族のように他者から奪って生きる強き者に空模様ごときは些細なことだ。むしろ、荒天は修行の好機だ。弱肉強食がこの世の真理だ。奪え、争え、戦え! こら、どこに行く?」


「逃げます」アルバートは相手のご高説を無視して、すたこらさっさと逃げ去った。


「無礼者! 焼き払ってやる!」ジャズウは怒って、呪文を唱え始めた。


「はあ、最近の人間は真理すらまともに聞かんな。おれは完全に興ざめしたよ。とっとと引き上げるぞ」ガデスはむなしく嘆いて、指笛でドラゴンを呼び、その背にまたがると、あっというまに空の彼方へ飛んで行った。


「皆の者、魔王さまに後れを取るな!」ジャズウは配下の魔族と怪物に告げた。恐怖の一団は現れたときと同様に騒然と去っていった。


 我先に逃げ出した村人たちがぽつぽつと戻って来て、恐怖の軍団の後姿を茫然と眺めた。


「ガデス、噂のとおりに恐ろしいやつだった……おれは見た途端にビビっちまった……」


「あの魔王軍が何もせずに逃げ出したぞ……」


「家も畑も無事だ!」


 村人たちが安堵の吐息をついたところで、農民Aが散歩から戻って来た。


「今日はいい天気ですね」彼はそのへんで摘んだベリーをぱくつきながら、毎度の台詞をつぶやいた。


「のんきなやつだな! 魔王がこの村に来たぞ!」村人はやいやい言った。


「おまえが何か言ってあれを追い払わなかったか?」もう一人の村人が言った。


「ぼくは知らない。あの人らが勝手に引き返した。あの人らは何しに来たの?」アルバートは素朴な質問で皆を困らせた。


「知らん。あと、あいつらは人間じゃない、魔族だ」


「とにかく、この村は助かったぞ」


「しかし、魔王はブレイトンをどうかするとか言わなかったか?」


「うーん、町に知らせを送るか?」


「だれが行くよ?」 


 平凡な農民は喧々諤々の村人たちからすっと離れ、ぼんやりと欠伸しながら、家の中に戻った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る