13 朝っぱらから電話対応した後

 走行中、チラリとバックミラーを見る。真後ろの水戸角の様子を窺う。

 腕組み、足組み、むくれ顔。……じゃんけんの軍配は、黒白の方に上がったのだった。

 そして黒白は助手席で電話している。「とりあえず平野の方面に向かっといてください」とだけ俺に言い残してから、カーナビを操作しつつ。

「はい、……そうですね。上の者から連絡があったと思うのですが、……はい。今から大体、……二十分ですね。二十分後を目途に到着する予定ですので、…………はい、はい。ではそのご予定で。……はい。失礼します」

 通話を切る。「こ・こ・だ・よ・な、大阪市、平野区で、…………うん、合うてるかな」

 信号待ちでカーナビの画面を見ると、病院の名前が表示されていた。

「今から病院に行くんですか?」

「そ。壱陽に人生壊された被害者と触れ合おうのコーナーですわ。……ま、そないした方が色々イメージし易いしモチベーションも上がるやろっていう、ボスの粋な計らいですわ」

「……はあ。それはどうも」

「何が『触れ合おうのコーナー』や。被害者かなんか知らんけど人間に使う表現とちゃうやろ」

 野次が後方から飛んでくる。苛立ちというよりは呆れのテンションで。

「まあまあ、言葉の綾ってやつですわ。そこは多めに見てもろて。……ていうか、」

 黒白は後部座席の方に身を乗り出す。

「ミトちゃんは今日から計画に参加すんの? お店の人とかにスジ通したりした?」

 彼にとっても意外な事態だったらしい。リアクションが薄かったのは二日酔いのせいか。

「店の人には朝一で言うたど、しばらくお休みいただきますって。何の問題もあらへんな」

「……ふーん。職業柄の緩さって感じ?」

「さてね。てかどーでもようない? ウチの私生活についての話とか」

「……まあ、どうでもええかぁ」

 黒白は片手を後頭部に回しつつ、大欠伸する。二日酔いが眠気に出るタイプだ。

 青信号に変わり、発進する。

「あ、ちなみにですけど、朝飯は抜きっすね。今から二十分後に着くって言ってしまったんで」

「え、」

「ええ!? ウチみんなで食べるつもりでおったんやけど!?」

「いや、勝手に早合点されてビックリされてもね。……まあ、でも牛護さんに関しては大丈夫っすよね? ヤニ吸って空腹感まぎれたやろし」

「……まあ、昨日みたいに大食いを強要されるよりはマシですね」

「折れるの早いって牛護さん。……はー、先が思いやられるわいなぁ」

 水戸角は紙袋からズルリと平べったい箱を取り出し、開け始める。

「お詫びの品にってクッキー買うてきたけどやっぱええわ。そんならこれはウチと午護さんの朝食や」

 これが火種となって、道中は水戸角と黒白がクッキーの取り合いで紛糾することになった。先が思いやられるのは俺の方である。

 そうこうしているうちに病院に着く。

 まあ、総合病院なのかな? 団地のようなスケールのそれだった。

 一堂、玄関に向かう。黒白を先頭にして。

「大の大人がクッキーごときでハッスルしすぎや。……アレが案内役で大丈夫かいや」

 君も大の大人には違いないんだけどな、とは思いつつも、「あれだけ美味しかったら無理もないんじゃないかな」と感謝ついでに宥めておく。

 黒白が、玄関先に立つ婦人に対し、「あら、もしかして盛岡さんでいらっしゃいますか?」と尋ねている。

 推定六十代、女性。油絵のごとく濃い化粧、パーマがかった茶髪のショートボブ。両耳にはピアスを開けており、青色のワンピース越しでも明らかな肥満体型、そしてヒール。

 そこそこ裕福そうなおばさまだな、という所感である。

「ああ、……黒白さん?」

 彼女は庇の下で、ハンカチで汗を拭きつつ振り向く。

 被害者はきっと、この病院の患者のはずだから、彼女は被害者の関係者か何かなのだろう。……愛想笑いもせぬ、深刻そうに険しい顔つきをしていた。

「はい、北風探偵社の黒白と申します。本日はよろしくお願いします」

 恭しく挨拶し、ポケットから名刺入れを取り出して、紙片を渡す。

 ……探偵? 

 いや、そういう設定にするという話か。超越会として接するわけではないと。

 など考えていると、横から肘で突かれる。

「サングラスしとかんでええの?」と言われ、慌てて装着する。すぐ忘れてしまう。

「……そちらの方は?」

 盛岡氏は黒白の肩越しに、我々を覗き込んでくる。

「ああ、彼らは助手です。こちらが午護で、こちらが水戸角」

 黒白が先回りして紹介する。余計なことは話すなと、俺に合わせろと暗に言っている。

 俺と水戸角は目を見合わせてから、「本日はよろしくお願いします」と無難に挨拶する。

「はあ、どうもよろしくお願いします。……盛岡フクミと申します」

 そして踵を返し、「中に入りましょうか」と院内に入る。我々も追従する。



       *



 受付で所定の手続きを済ませた後、我々は院内のカフェに落ち着いた。

 四人席で、右に黒白、正面に水戸角、正面斜め右にフクミ氏が座る。手前側が男性陣、奥側が女性陣、左側が助手たちで、右側が探偵と依頼人。自然とそうなった。

「では、確認も兼ねてお尋ねしたいと思うのですが、……此度はどのようなご用件で?」

 黒白はテーブル上で手を組み、にこやかに促す。

 フクミ氏は膝の上に置いていたセカンドポーチから、一枚のチケットを取り出し、テーブルに置いた。

 横長のそれは、パッと見ると新幹線の乗車券のようである。青色のグラデーションが珍しくはあるが、レイアウトはそれっぽい。出発地と到着地まで記載されている。

 ただ、詳しく見ていくと、明らかにそうではないことが分かる。

 C“HORSE。……これは多分、社名か何かなのだろう。見覚えはない。

 注目すべきは、「乗船券」と記載されていることである。これは船のチケットなのだ。

 区間、大阪南から那覇。往復。……大阪から沖縄までのフェリー。

 そして、等級の代わりに「プラン」の項目があり、【船底】と記載されていた。

「今から半年ほど前のことです」

 フクミ氏はルージュを塗りたくった唇をムニムニ動かしつつ、呪文でも唱えるような重苦しさで、訥々と紡ぎ始めた。

「二人で暮らしとった息子がね、『一人で沖縄行ってくるから一週間は帰らん』言うんです。

「私ビックリしてね。……息子や言うても四十かそこらになるオッサンがね、急に一週間休み取って旅行するとか言い出した日にはもう、病んどるんかなとか、下手したら自殺とかするんちゃうかって疑っちゃってね。……色々勘繰って問い詰めたんですわ。

「そしたらタイラ、……息子はね、『』って言うんです。……そんで、そのフェリーは航行中ずっとレストランが開いとって食べ放題なんやとか、珍しい料理も出るらしいとか、目ぇキラキラさせとるんですわ。

「……息子はね、私に似たんでしょうね、子供の頃からとにかく食べるのが好きでね、……歳食った今でも大食いチャレンジとか挑戦するくらいですわ。その息子が『グルメツアーに行くからしばらく帰らん』って言うから、私も納得して送り出してもうたんです。……そこで引き留めていれば、あんなことにはならなんだのに………………(涕泣)………………(水戸角に背中を擦られる)………………ありがとうね、優しい子やね。

「(鼻を啜る)…………息子はね、一週間経っても家に帰ってくることはありませんでした。……後から警察に聞いた話やと、大阪南港からそう遠くない路地裏のとこで、……ゴキブリとかネズミとか捕まえて食って、食あたり起こして行き倒れとったらしいですわ。

「絶対に、航行中になんかあったんです。……でも警察の人らは、『調査しましたが船舶会社に問題はありませんでした』の一点張りで、…………それがもう悔しくてね」

「心中お察し致します」

 黒白はいかにも紳士そうな風を装いつつ、恭しく会釈する。

 ……あるいは、装ってもいないのかもしれない。極性同意の被害者やその関係者に対しては、このくらい誠実なのかもしれないなとか、云々。

「しかも、それだけやないんです」

 フクミ氏は顎を突き出し、前のめりになって訴える。

「息子は一旦は家に戻ってきたんですけどね、……あれだけ食べるのが好きな子やったのに、全く食べ物を受け付けんようになってね、……どんなにエエ店に連れてっても一切箸を付けんで、……そんななのに、本棚の上のホコリとか指で拭って舐めたり、犬の糞拾って食べよるんですわ!

「私もう辛ぁて仕方のうて、なんで息子がこないなことならなあかんのやって、怒りと悲しみとで狂いそうになってね、……でも、私がどないかせなあかんのやって何とか奮起して、息子を病院に連れてったんですわ。

「……ただ、容体は良くならんくてね。……病院食も受け付けんで、みるみる衰弱していって、……今は体に管を差し込んで、そこから栄養摂取させとるんです。

「でも、これはたまたま私がお金に余裕があるから出来とることでね、……同じ船に乗った他の人らとかどないしとるんやろって想像すると、もう堪らなく腹立たしくて。

「やからこないして、探偵さんを頼らせて頂いたんです。……どうか真相を暴いて、然るべき相手に報いを受けさせてもらいたいんです」

 フクミ氏はそう言い終えると、……周囲の目など気にせず、椅子から転げる落ちるように床に這いつくばり、黒白に土下座して涙声で訴えた。

「この通りです。息子の仇を討ってください」

 黒白はすかさず跪いて、「安心してください」と、「仇敵はきっと我々が仕留めますから」と宥めている。

 水戸角も遅れて立ち上がり、手を伸ばすが、……傍まで駆け寄ることはせず、伸ばした手を宙ぶらりんにしている。

 そして、こちらの方を見ている。表情までは分からない。俺は目を伏せているから。

 微動だにしない俺を「なんだこいつ」と訝しんでいるのだろう。ただ、俺なりに不動を貫く理由があった。

 一つは、俺が何かの間違いでフクミ氏に極性同意してしまった場合、目も当てられないことになるなと危惧したからだ。そういう意味では水戸角にもあまり動かないで欲しいが、それについてはまた後で相談するとして。

 もう一つは、違和感について考えていた。

 黒白が飲み会の時に言っていた話によると、暴食の同意による被害というのは主に「肥満」のはずなのだが、フクミ氏によるとタイラ氏はむしろ飢餓状態にある。……なぜ、このようなアベコベが起こるのか?

 元より大食漢だった人間が、ある時期を境に拒食ならびに偏食になる。

 船の上で、一体何が?



       *



 気を取り直したフクミ氏に案内され、我々は院内を無言で行く。

 エレベーターで昇り、廊下を進み、病室の扉の前に立つ。

 フクミ氏はノックし、「入るよ」と呼びかけるが応答はなく、溜め息して入室する。我々も後についていく。

 ……窓から陽光が差し込み、白を基調とした個室内を冷ややかに照らしている。

 ベッドに横たわる中年の男が、こちらを睨む。

 いかにも不健康そうに、目は落ち窪み、頬はこけ、唇は乾き、……上半身は裸で、鎖骨の下あたりに点滴の管を差し込まれており、首も胸も肩も骨張っている。

 そして、布団の上からでも分かるほど、妊婦のごとく腹が膨れていた。

「……貴様らか。ババアが余計な世話焼いて呼んだっちゅう下世話稼業は」

 タイラ氏は、掠れた声でおどろおどろしく、剥き出しの敵意を突きつけてきた。……他人を歓迎する精神的余裕とか、皆無の態度だった。

「余計なお世話って、私はあんたのことを————」

 余裕がないのはフクミ氏の方もで、身を乗り出しつつヒステリックを発動しかけていたが、黒白が平手をパッと掲げてそれを制す。……タイラ氏の枕元に歩み寄りつつ、語りかける。

「既にご存知かとは思われますが、私は北風探偵社より参りました黒白と申します。何卒よろしくお願いいたします」

 名刺を差し出すが、「ンな紙切れ誰も欲しとらんわ」とそっぽを向く。

「タイラ!」とフクミ氏は張り上げる。またも爆発しそうになるが、黒白がそれを制す。

「申し訳ないが」と強めの口調になりつつ、フクミ氏をにこやかに睨みつけ、

「息子さんへの叱責は後にして頂きたい。我々にはもっと優先して話すべきことがある」と。

 フクミ氏は不承不承ながら「すみません」と頭を下げ、黒白は「ご理解頂けて何よりです」と元の営業スマイルに戻る。「名刺はここに置いておきますので、また後ほど御目通し下さい」と紙片をテレビ台の上に置き、パイプ椅子に腰かけた。

「我々はあなたの食生活に多大なる影響を及ぼしたであろう団体または個人について、調査し突き止めるよう依頼された者です。お母さまから聞かされていますか?」

「………………………………………………」

 タイラは不愉快そうに小鼻にシワをつくりつつ、黒白を睨み上げていたが、……無視しても引き下がらない相手だと悟ったのか、舌打ちの後に返答した。

「……聞いとった。俺はそんなもん要らんとババアに突っぱねたが、貴様らはゾロゾロと来た。……面倒の極みじゃ。さっさと出ていってくれんか」

「なぜ拒むのですか? あなたはご自身の食欲を捻じ曲げられたことについて、憤りを覚えていないのですか? そうさせた者を吊るし上げ、鉄槌を下したいとは思わないのですか?」

「……憤り。憤りか。……それは、ある」

「だったら」

「あんな美味い飯を食わされたのは、ある意味では腹立たしくもあるな」

 タイラ氏は、食事の話になると途端に、生き生きと目を輝かせつつ語り始めた。

「あの船内レストランで食うた飯は、ほんまに絶品やった。……でもそのせいで、俺は今まで美味いと思って食うてきた好物も何もかも、あの絶品と比べたらゴミ屑同然やって思うようになって、喉を通らんようになってしもたんや。それはもう腹立たしいことにな。……ただし、俺は後悔しとらん。あの美味さを知らずに死ぬ方が、よっぽど人生の損失やからな」

「……具体的に、レストランではどのような料理が出されたんですか?」

「レストラン言うても中華料理屋や。……普通の中華飯店で出てくるような餃子やらラーメンから、……名前も知らんようなモンも出てきたな。まあ仮に名前聞いとったとしても、他所の店で食うたら大して美味くないに決まっとるわ。名前が問題とちゃうねん。重要なのはどんな味をしとるのかであって————」

「レストランで出された料理にゴキブリやネズミの類は混入していましたか?」

 黒白の無遠慮な質問に対し、タイラ氏は洞のごとく落ち窪んだ目で見る。

 そして、「ハッ」と嘲笑し、天井を仰ぎつつ問い返す。

「それはアレか、つまりあの船内レストランでは害虫料理だか害獣料理だか、ゲテモノ料理が出されて、……でも、それが他の追随を許さん絶品だったから、タイラさんは船から降りた後もそこらへんのゲテモノ捕まえて食っとるんでしょっちゅう、探偵様のおん推理であらせられるわけか。……あのな、」

 タイラ氏は黒白の顔面をジロリと凝視し、

「適当なこと抜かしとったら殺すぞ、ボサ髪の青二才が」

 ガラガラの声で、呪詛のように吐き捨てた。

 しかし黒白も退かず、

「では、なぜあの船に乗ってからゲテモノを食べるようになったのか説明して頂けますか?」

 あくまでにこやかに尋ねた。それはもう不気味なほどに。

「ほな教えたるわ。愚かな貴様らにも分かるようにな」

 タイラ氏は黒白のへこたれなさに無関心で、天井に向かって説くには。

「どうせ貴様らのごとく腹の凹んだ若造は、食に関する造詣なぞ浅瀬もええとこやろが、……そんな貴様らでも、プリンに醤油かけたらウニの味がするっちゅう話くらいは知っとるやろ。

「これというのはつまり、プリンと醤油のそれぞれに、ウニ的な要素があるっちゅうことや。……とろけるようなまろやかさ、優しい甘さ、さりげない苦み、塩気といったウニ特有の要素はプリンと醤油にも備わっているから、それらを食べると口内でウニを感じることが出来る。……ウニは高くて手が届かんって貧乏人でも、プリンと醤油とを買える金さえあれば、ウニを食べたい欲求をある程度満たせるわけや。

「……何が言いたいか分かるか? 俺は例の船降りてから、『あの絶品料理にとってのプリンと醤油は何なんやろか』って、血眼で探しとったんや。

「あの船は年に二回しか出やん。次に乗れるのは半年後になるが、それまで娑婆のおもんない飯なぞ味わいたくない。……なら、せめてあの絶品を多少でも彷彿とするようなを、どうにかしてでも見つけ出さなあかんとなったんや。

「とにかくもう、飯屋にスーパーに駆け巡ってな。……が、そのいずれも俺を満足させるには至らんかった。……失意に果てに、俺は港まで戻ってきて、路地裏に頽れた。

「そこで俺は、ゴキブリに巡り合ったんや。

「『まさかな』思いながら、もう自棄になって口に運んでみたら、……俺はもう、涙すら流したほどや。

「羽の部分の香ばしさ、サクッと砕ける子気味良さ、卵のツブツブしつつまろやかな感じ、……そういった要素を口内で味わっていくと、

「そこで俺は悟った。……そうか。まだ諦めるには早い。俺はまだ全部の味を、食感を試したわけではない。答えは未知にあると確信した。

「そして俺は、途中で行き倒れたりしつつも、……タンスのホコリに、路地裏のドブネズミに、道端の犬の糞に、……あの極上中華を彷彿する何かがあることを、次々に解き明かしていった。これは俺の執念が為せた業や。

「ここまで言うたらもう分かるやろ。

「例の極上中華料理に、ゲテモノの類が混ざっとった可能性なぞ万に一つも有り得ん。美食家の俺が言うんやから間違いない。

「ただ、一部のゲテモノにはあの絶品を彷彿することの出来る『何か』が備わっとる。だから俺はゲテモノを欲する。……それだけの理屈じゃ。分かったかドサンピンどもが」

 俺は、……もう、無理だった。

 理屈としてどこまでの整合性がありそうかとか、真面目に吟味する余裕などなかった。……タイラ氏の実体験に基づくリアルなゲテモノレビューで、最低の気分になっていた。

 水戸角も口元を手で隠しつつ「うげ」といった具合に舌を出している。助手陣は全滅だった。

 なお、黒白は腕組み、フーと鼻で溜め息していた。……思案しているという体は装いつつ、疲弊した感じは僅かに滲んでいた。

 そして、やおらに立ち上がり、「分かりました」と。

 我々を振り向き、

「一旦この場はお開きにしましょうか。あまり長居してもお体に障ると思いますので」

 爽やかに号令をかける。タイラ氏に向き直り、

「ご療養の最中に大変お騒がせしました。一刻も早く回復されることを願っております」

 最期まで丁寧にお辞儀すると、速やかに退室しようとした。

「待て」

 その背中に、タイラ氏がガスガスの声で呼びかける。

「念を押すけどな、余計なことはすんなよ。……、貴様らがあの中華料理屋に因縁でもつけるつもりなら、俺の方も取れる手段は全て講じて貴様らを妨害するからな」

 黒白は薄ら笑いを浮かべて振り向き、

「その体たらくで何が出来ると?」

 仕事の邪魔をするつもりなら被害者とて容赦はしないぞと、最後の最後では釘を刺した。



       *



 病室を出ると、フクミ氏からの猛烈な謝罪を受けた。「あんな物言いですみません」とか、「ああなってしもたのも全部例の船のせいなんです」と慟哭した。

 それを黒白が宥めつつ、我々は廊下を逆向きに戻りながら玄関の方を目指す。

 そして、今まさにエレベーターに乗り込もうという間際だった。

「あれ」と、黒白がにわかに慌てだしたのだ。……全身のあらゆるポケットに手を突っ込んで叩いて、……見かねたフクミ氏が「何か失くされたんですか?」と尋ねるほどの。

「はい、名刺入れですね。……どこかで落としたのかな」

「それでしたら、私も探させてもらいます。せめてそのくらいはさせてもらわんと」

「いえいえ、そんなお気になさらず。……このとおり人手は足りてますので、盛岡さんは先に帰られてください」

 その後も色々と応酬しつつ、最後はフクミ氏の方が折れて、一人エレベーターに乗り込んで去っていった。……黒白は手を振り見送ると、「さて」と踵を返して歩き出した。

 迷いのない歩調。物を探している気配などもない。

「北風探偵社とは?」

 俺は黒白の右隣に並んで尋ねる。

「超越会が運営しとる探偵社ですわ。……数名の社員でちまちまと利益上げつつ、『探偵』って肩書きを俺らみたいな実働部隊に貸してくれたりとか、そういう役割の下部組織っすね」

「……探偵を騙った方が、極性同意の被害者やその関係者とコンタクトしやすいから?」

「騙るって表現されると頷きにくいっすねぇ。依頼者様の要望を叶えて差し上げようっていう精神性に嘘はないわけで、……何してんの? 人のケツ急に触ってから」

 黒白が左を向くと、水戸角は名刺入れを手にしていた。

「後ろポケットに入っとーやん。なんで失くしたって嘘ついたん?」

 黒白は水戸角から名刺入れを回収しつつ答える。

「フクミさん抜きでタイラさんと話したかったからやな。先に帰ってもらうための口実作りや」

「なんで?」

「そらもう、仕事の邪魔されんようにっていう人払いやな」

 黒白はノックもなしに病室のドアを開ける。タイラは寝そべった体勢のまま、ギョッとした顔つきになって我々を見る。

「そう驚かないでください。我々はただ、忘れ物を取りに来ただけですから」

「……なんや知らんが、用済ませたらさっさと去ねや」

「はい。では聞き忘れていたことを、さっそく質問させて頂きますね。午護クン」

 急に振られてビックリする。「な、なんでしょうか」と尋ねる。

「この通り、タイラさんは気が立っていらっしゃるから、……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る