5 大阪市に着いた後

 浴室。

 外観から薄々予想は付いていたが、割と旧式の浴室である。……青を基調としたタイル張りの、浴槽がステンレスの、……こじんまりとした一室。両腕を伸ばせば左右の壁に手が付く。

 二人して水着だったのだ、ここがプレイの主戦場だったのではと少し危惧していたのだが、……まあ、残滓みたいなのは所々ありつつ、無視できる範囲だった。

 傷が沁みる痛みに耐えつつ洗体し、血汚れを完全に流してから湯船に浸かる。

 ……全身のこわばりが嘘のようにほぐれていく。自然と溜め息が出る。

 なんというか、今になってようやく、大阪に来たんだなという実感が湧いてきた。

 まあ、食べては吐いて食べては吐いての繰り返しで、精神的にゆとりがないまま到着したのだから、さもありなんではある。……明日からさっそく仕事があるようだし、束の間の休息を満喫しておかねば……………………………………………………………………。

「大阪は修羅の国だ」

 ふと、親父の言葉を思い出した。

「一歩踏み入れば命はないものと思え」

 生前、あの人はそんなことを言っていた。……なぜだか、強烈な大阪アンチだったのだ。

 具体的には、絶対に大阪に踏み入らないし、横断すらしない。……自分だけじゃなく、俺やお袋にもさせなかった。

 アルバムを開いても大阪の写真だけは存在しない。午護家はそういう家庭だった。

 大阪禁止の一家。……が、俺は一人暮らしを始めてからも、もっと言えば親父が死んでからも、自分の意志で大阪に行くことはなかった。

 親父からのアンチ大阪洗脳教育は、そのくらいには効いていたのだ。……タクシー業で客を乗せて行くことはあっても、滞在はしないし観光もせず、そのまま東京に帰るのみだった。

 でも、いざこうやって、半ば強引に連れて来られてみれば、……今のところは何ともない。どころかお風呂まで頂戴している始末である。

 当の本人が死んでしまった以上、もうその理由を問い質すことは出来ないが、……親父は、結局何がどうなってあのような大阪アンチになってしまったのだろうか。

「…………………………………………………………………………」

 分からない。分からないものは分からない。

 そして、居候がいつまでも風呂場を占領していてもなるまい。……湯船から上がり、ドアを開ける。

 珪藻土のバスマットの上に、タオルや着替え等の入った四角い洗濯カゴ。これは新式。

 すぐ横で縦型洗濯機がゴウンゴウンと稼働している。俺が脱いだワイシャツなどが、あそこで洗濯されている。

 着替えなど自分で持って来ていないので、一旦は黒白の服を拝借することになったのだった。……下着は包装されたままのものが入っている。気遣いが光る。

 こうまで気遣いの出来る男の選ぶ服だ、まず間違いないだろうと確信しつつ、俺は体を拭き、用意された服に着替える。

 洗面台に向き合う。

 ゆったりとした七分袖のシャツに、同じくゆったりとしたジーンズ。

 上は白んだ茶色で、下は鈍色。

 色合い的には秋服っぽくもあるが、シンプルで無難なコーデだった。そこに文句はない。

 ただ、どうしても顔の傷が浮いていた。……およそハロウィンの日にしか通用しないような、それは異質さだった。

 横一文字の傷をなぞる。ビリビリとした痛みが左から右へ迸る。

 化粧でも覚えるべきだろうか。それで隠せるものなのか知らないが。……とか考えていると、不意に背後でドアの開く音がした。

 振り向くと、黒白がオクラホマミキサーの鼻歌と共に、廊下の角から現れた。

 毒毒しい柄のシャツを黒のスラックスの中に入れており、太縁でレンズの茶色いサングラスをかけている。

 そして、歩いてきた流れのまま、俺の両肩を掴んで完全に振り向かせ、サングラスを外し、……俺の両耳にかけ、また両肩を掴んで後ろを向かせた。

 洗面台と向き合う。

 すると、顔面に横一文字の傷跡は、フレームと色付きのレンズに隠されていて、……かなり目立たなくなっていた。

 もちろん完全に隠れてはいないから、まじまじと見つめられたらバレるだろうが、それでも何もしないよりは数段マシである。化粧以外にもこういう方法があったのか。

 が、そこでオクラホマミキサーが止むことはなかった。

 鼻歌と共に、次から次へと着せ替えられるのだ。……フードの深いレインコートかと思えば、次にはパンク系ファッションにチョーカーを合わせられ、燕尾服とペストマスクを取り合わせたら、少林寺の僧のような道着を着せられ、サンバイザーにランニングウェア、鼻下まで覆い隠れるウェーブがかったウィッグを被せられたり、兎のお面に巫女装束などなどなど……………………。

 巡り巡って、最初の格好に戻る。

 ゆったりとした七分袖のシャツに、同じくゆったりとしたジーンズ。

 上は白んだ茶色で、下は鈍色。それとレンズの茶色い太縁のサングラス。

 そして、にわかにバイブレーションの音がし始めた。……俺のスマホではない。あれは川に投げ捨てられてしまったから。

 黒白のものである。鼻歌を中止してポケットから取り出し、電話に出た。真顔から薄ら笑いにと変わりつつ。

「もしもしぃ? ……はい、午護金次でございます。どういったご用件でございましょうか?」

 黒白海老蔵が、午護金次を騙っている。

 本人を目の前に、どういう神経をしているのだろうか。……ただの優男ではないのだなと、警戒心が強まる。黒白は鏡を見ながら俺の前髪を弄りつつ。

「あ、いや俺は全然構わないすけど、……予約通った感じすか? あんまりにも急やったんで難しいかな思てたんですけど。指名通りの子ですか?」

 指名? 俺の名義で何者かが指名されたことになっている。誰が?

 黒白は俺のサングラスをずり下げる。傷が目立たないポジションを探りつつ。

「はい、お願いします」

 玄関でサンダルに履き替える。

「はい、そちちで間違いないです」

 玄関から手招きしてくる。

 ……先輩命令となれば断るわけにもいくまい。俺は自前の革靴に履き替え、外に出る。

 夜道を歩きつつ、黒白は照れくさそうに頬を掻いて。

「あ、ちなみになんですけど、ちょっと僕、人見知りなもんでして、……こないして電話越しやと饒舌なんすけど、面と向かってやとどうしてもアガってまうんすよね。きっと、そちらにお伺いする時にも。……なんで、そうやって僕がアタフタしとったら、おにーさん方には多少強引にでも進行してもらいたいんすわ。行きたい思とるのはマジなんで」

 フェンスで囲われただけの月極駐車場に入る。砂を踏む音がジャリジャリと。

 黒白は軽トラの助手席側のドアを開け、乗りこめと示してくる。

 ……ロクな目に遭わないことは分かり切っている。自ら泥船に乗りこむようなものだ。

 だから乗りこんだ。

 俺みたいな人間は、不幸な目に遭うだけ遭っておくべきなのだから。

「や、大丈夫です。こちらこそよろしくお願いします。はい失礼しまーす」

 黒白は電話を切り、助手席のドアを閉める。

 車の前を横切って運転席に入り、エンジンをかけると、

「おにーさんも大概スケベっすねぇ」

 ハンドルに突っ伏し、顔はこちらにニヤケ面。

「……は? どういう意味ですか?」

 黒白はウフウフと喉を鳴らして笑い、俺の下腹部に注目しつつ、

「電話ァ盗み聞きしてて察しとったんでしょ。今から自分がえっちなお店に連れてかれること。……誤魔化しても無駄っす。ほら、ビンビンのギンギンやないすか。店着く前に発射してまうんとちゃいますか?」

 俺は思わず自分の股間を見る。そんなはずはないと知っていながら。

 現に、俺のそれは怒張していなかったし、むしろ萎びていたくらいである。……嘘じゃないか。からかわれたのだ。

 ……ムッとはするが、しかし、ここで怒鳴るというのも狭量だ。

 いくら後輩とはいえ、こちらが年上のはずである。……ここはどっしりと構えて、余裕たっぷりに対応しなくては。拗ねている場合ではないのだ。

 俺は運転席を振り向き、何かしら返事しようとした。ヘラヘラと人当たりよく、上司にするような感じでやろうとした。

 その出鼻が挫かれる。黒白は爆ぜんばかり大笑いし始めたのだ。

 ハンドルをバンバンと叩き、夜中の住宅街にクラクションが連発して鳴り響く。車の中から外からけたたましく、肌で感じるほどの振動がある。

 俺の返事はキャンセルされた形になる。呆然とするばかりで何も言えない。ただただ狂ったように笑う隣人を、目を丸くして眺めるだけだった。

 黒白は大笑いの冷めやらぬまま、ギアをローに入れてエンジンをふかす。

 クラッチの繋ぎ方が雑すぎて、車体がガッタンガッタンと揺れながら発進する。

「あー、あんまりにもおにーさんがピュアなもんやから、車もこないなってしまいましたわ。……折角やしこんまま店行きましょか。縁起良さそうっすもんね、神輿担いどるみたいで」

 俺は助手席から身を乗り出し、エンジンキーをロックに回す。

 車体の揺れが徐々に収まり、惰性で二秒ほど前進した後に停車した。……駐車場がガラガラで助かった。あわや衝突事故するところだった。

 黒白を睨み上げつつ、

「代われ」と。

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