39、王子殿下からのプロポーズ

「ご息女リラ・プリマヴェーラ伯爵令嬢を私の妃にしたい。婚約を承諾してもらえるかな?」


「へっ?」


 お父様の口から間の抜けた声が漏れ、私は思わず両手で口を抑えた。


 アルベルト殿下は構わず、英雄の演説のように朗々と語り続ける。


「彼女は素晴らしい王国民というだけでなく、未来の王妃にふさわしい」


 未来の王妃!? 伯爵令嬢としての教育しか受けてこなかった私に務まるのだろうか?


 だがブリタンニア王国へ逃げ出す道が閉ざされた今、私たちはこの国で幸せになるしかない。


 アルは両腕を大きく広げ、月光の下、堂々と宣言した。


「リラ嬢は私を守り抜き、十年来の事件を解決に導いてくれた勇気ある令嬢だ。彼女のほかに私の妃となるべき女性はいないだろう!」


 十年来の事件を持ち出されては、お父様に立つ瀬はない。可哀想に冷や汗をかいているようだ。


「ありがたきお言葉にございます! しかし殿下にはすでに婚約者が――」


 その言葉を聞いた途端、アルの表情が憂いを帯びた。だが気が動転していたのか、父はつい口走った。


「あ、でもエルヴィーラ嬢はもう――」


 小さなつぶやきを聞き逃すアルではない。ふっと眉根を寄せ、オウム返しに尋ねた。


「エルヴィーラ嬢はもう?」


 海を渡る夜風に吹かれているというのに、こうべを垂れたお父様のこめかみから汗が流れ、舟の上に落ちた。


「エルヴィーラ嬢がどうしたと言うのだ?」


 アルが王族の威厳を放つ。お父様は息子の失態を打ち明けたくはないのだろう。押し黙っている。


「言え」


 テノールの美声が、しんとした大広間で大理石の床に落ちたコインのように、響き渡った。


「じ、実は」


 お父様は震える声で打ち明けた。


「わが不肖の息子と共に出奔しまして――、現在、セグレート家と我が伯爵家が必死の捜索をしております」


 月明かりに照らされたアルの表情が、彼の素顔に戻った。


「そうか――。あの女性も愛に生きる人だったのか」


 チョコレートブラウンの瞳に優しい色が浮かぶ。


 だが彼はすぐに冷たい王子の仮面をつけた。


「王太子妃という未来を捨てて逃げ出すとは。そのような女性を妃にむかえるのは甚だ不安だ」


 同じことを計画していた私はあさってのほうへ目をそらした。いやいやアル、あなたも同罪よね!? まったく大した演技力だ。これなら劇場に立ってもスターになれただろう。オペラに出演しなかったのが悔やまれる。


「どちらにせよ、私の元婚約者はあなたの息子に連れ出されてしまった。代わりにご息女を王家に差し出すということで、よろしいですな?」


「すべて殿下の仰せのままに!」


 震える声で答えた父を、アルは早々に舟から追い出しにかかった。


「では騎士団長。未来の妻と二人きりにさせてくれ。城に着くまで小舟バルカの周囲を護衛してくれると助かる」


「殿下に舟を漕いでいただくわけには参りません。騎士団の船にお乗りください」


 焦る父に、アルはいつもの自信に満ちた口調で答えた。


「私は十年間、暗殺者にいつ襲われても良いように鍛えてきた。お前たち騎士に体力で引けは取らぬ」


 体力の問題ではないと言いたげな父ではあったが、


「承知しました」


 うやうやしく頭を下げ、騎士団の船に戻った。父は教育係ではないのだから、やんちゃ王子をいさめる義務はない。


 アルは先ほどと同じように櫂を握り、舟を漕ぎ始めた。


「リラ、俺たちの未来のために戦ってくれてありがとう」


 切なげな微笑を浮かべる彼の白い頬に、濡れた黒髪が一房かかる。


「突然、噓八百を並べた俺のこと、嫌いになってない?」


 月光の下、黒い瞳が不安そうに揺れている。


 私はほほ笑んで首を振った。


「だって私のためについてくれた嘘でしょう?」


 彼の嘘のおかげで私は、王太子殿下をそそのかして国外へ連れ出そうとした反逆者とならずに済んだのだ。


「ああ、俺たちが一緒に生きていける未来のためだ。次は父上を丸め込んでやる」


 アルの瞳には闘志が燃えていた。国王陛下が首を縦に振って下さらない限り、私はアルの婚約者になれない。クリス兄様の行動を考えれば、不安はさらに募る。しかも――


「私は王妃教育なんて受けていないわ」


「安心してくれ。リラ、君は妃としてもっとも重要な資質を備えているのだから」


 アルは王族らしからぬ様子で櫂を漕ぎながら、数え上げた。


「申し分ない知性と教養、優雅な立ち居振る舞い、厳しい父上に従って来た忍耐力、そして愛のためなら揺るがない信念と行動力。この国の歴史や経済、政治について、さらに周辺国の言語についてもすでに学んでいるだろう?」


 確かに私は幼いころから、学ぶことが好きな子供ではあった。


「王宮だけの特別な儀式についてはこれから学ぶ必要があるけれど、明日から王妃になるわけじゃないんだ。真面目なリラならすぐにマスターできるから、俺は心配していないよ」


 本当に何の懸念もないのか、アルはさっぱりとした口調で言いきった。彼が私を信じてくれるから、私も自信を持てる。それに私は今夜、自分だけの力で屋敷を抜け出し、グイードの首も掻っ切ってやった。もう昨日までの私とは違う。私は何にだってなれるのよ。


 アルは真剣なまなざしで、夜の海に浮かぶ王都を見つめていた。


「ブライデン公爵家の者を次の国王にするわけにはいかない」


 彼の真摯な瞳が私をとらえた。


「リラ、俺と一緒にこの国を支えてくれるか?」


 尋ねた彼の声は強い意志を秘めたテノールだった。彼は密かに守られる王子ではなく、国を背負う王太子になったのだ。


「君となら、俺はこの国をもっと良くして行けると信じている。俺がこの国の舵取りを担うなら、意味のない堅苦しいルールは変えていく。子供が親に売られるような貧困もなくしていくんだ」


 アルは希望に満ちた瞳で夢を語った。今はもう、あきらめのまなざしで国を出られないと語った青年はどこにもいない。彼は自らの意志で王となる道を選択したのだ。


「そしてリラこそ、新しい時代に理想的な妃だ。伝統と変革のバランスを大切にできる、自立心にあふれた女性だから」


 この国で幸せになれないなら、外国へ逃げ出すしかないと思っていた。だけど今の私たちには、もうひとつの選択肢がある。逃げるのではなく、私たちの力で国を変えていくのだ。


 私はかごの中の小鳥でもなければ、運河に落ちて翻弄されるだけの木の葉でもない。この両手でしっかりと、自分の人生の舵を握っている。 


 だがこぶしを握りしめたとき、アルがふと悲しげにつぶやいたのが聞こえた。


「エージェントに断りの手紙を書かなきゃな……」


 私たちのもうひとつの夢は今夜、月光にとけて消えて行ったのだ――




─ * ─




第四幕を最後までお読みいただき、ありがとうございます!

終幕を残すのみとなりました。終幕ではグイードとパメラの末路、そしてクリス兄様とエルヴィーラ嬢のその後が明らかになります。


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