35、二人の未来へ漕ぎ出そう
「リラ?」
木の上からいとおしい人の声が降ってくる。
「アル!」
思わずその名を呼んだとき、腰にランプをくくりつけた彼が木から下りてきた。
「リラ、よかった。来てくれないかと思った」
彼は私をしっかりと抱きしめた。あたたかい。力強さと安堵に包まれて泣き出しそうだ。
「ごめんなさい。遅くなって」
「全然。君のことを考えていたら、時が過ぎるのなんて一瞬さ」
彼の言葉に冷え切っていた体が熱くなる。
「リラ、ほっそりしているから男装も自然だね。本当の少年みたいでかわいいよ」
ん? これって褒められているのかしら?
困惑する私の頭に、アルは大きな手のひらを乗せた。
「ふふ、髪型も俺とおそろい」
嬉しそうに笑う彼にホッとする。
アルは少しだけかがむと私の額に口づけを落とした。
「こんなに綺麗な銀髪美少年が俺の恋人だなんて。荷物を取ってくるね」
アルカンジェロは礼拝堂の中に入ると、上着を羽織り、大きな革の鞄を持って出てきた。その腕には毛織物のマントがかかっている。礼拝堂に彼の荷物や服が残っていたなんて全く気づかなかった。
「リラ、夜の海は風が冷たい。これを羽織ってくれ」
アルカンジェロが私の肩を、素朴な毛織物のマントで包んだ。貴族が身に着ける毛皮のマントのような装飾はなくても、充分にあたたかい。小舟を漕いだせいで全身がほてっている私にとっては暑いくらいだ。
「
アルは私を中庭の奥まで連れて行った。木に隠れてよく見えなかったが、煉瓦塀には鉄格子の扉が付いていた。小運河の
アルは慣れた手つきで格子扉の掛け金を外し、小舟の中に荷物を放り込んだ。迷いのない足取りで乗り込むと、私にうやうやしく手のひらを差し出した。
「リラお嬢様、お手を」
「ちょっとアル、二人きりなんだからお嬢様呼びはやめて。私もアルベルト殿下ってお呼びしますよ」
彼の手を取り、小舟に飛び移る。彼は楽しそうに笑いながら私を受け止めた。
「俺は殿下じゃない。ただのアルですよ」
言葉通り彼は下働きの青年のように手慣れた様子で縄を解き、軽々と櫂を操って舟を出した。
何か仕掛けがあるのではと疑うほど、小舟はすいすいと水の上をすべってゆく。
「自由自在に
私が感心すると、彼はニッと笑った。
「木に登っていたのはリラが来ないか運河を眺めていたんだよ。見逃しちゃったみたいだけど」
確かに礼拝堂の中にいては、外の様子は何も見えない。楽譜が置いてあったから、最初は月明かりを頼りに曲をさらっていたのかも知れないが、私が来ないので四方の運河を確認していたのだろう。
「アルがこんな遅くまで待っていてくれるなんて思わなかったわ」
「君は必ず来てくれると信じていた。でも本来なら俺が迎えに行くべきなのに、伯爵に軟禁された君を助け出せなくて、俺は情けないよ」
小さな舟の上で、向かいに座ったアルは形のよい眉をくもらせた。
「アルは私が父上に軟禁されていたこと、知っていたのね」
せめて彼が事情を把握していてよかった。
「フィオレッティが俺に教えてくれたんだ」
「チョッチョが?」
つい、ステージネームではなく本名で問い返すと、彼は少し笑って続けた。
「昨日の朝、君を迎えに行ったら伯爵邸の使用人に門前払いを食らったけど、あきらめきれなかった。お屋敷前の橋に腰かけてたら、フィオレッティが伯爵邸にやって来たんだ」
チョッチョは早朝のミサで歌ったあと、お母様を迎えに来たのだろう。
「フィオレッティに尋ねたら、前の晩に何が起こったのか説明してくれた。君が苦しんでいるとき、そばにいたかった」
「もう終わったことよ」
私はほほ笑んだ。絶望していた数時間前が、遠い過去のようだ。
「アルが王子殿下として王宮に閉じ込められていなくてよかったわ」
「近衛兵たちは今も、俺が宮殿の自室にいると思っているさ」
「えっ」
私は絶句した。
「俺は真夜中のミサで歌ったあと、聖職者に化けた近衛兵三人に引っ付かれて、王宮に連れ戻されたんだ。寝ると言って護衛を追い出したあと、寝室を抜け出したんだよ」
なんと私と同様、彼も見張りをまいて逃げて来たとは。
「宮殿の警備は厳しいから苦労したよ。屋根の上を歩いたり、塀伝いに移動する羽目になっちゃった」
アルは王子殿下らしからぬ、下町の悪ガキのような笑みを浮かべた。
小舟は狭い運河を器用に進み、やがて広々とした夜の海へ出た。櫂のまとう白浪が、月光に照らされ淡く発光する。
「アルの櫂さばきは本当にお上手ね」
「俺は十歳で孤児として教会に引き取られたことになっているから、下働きもたくさんしてきたんだ。
「大教主様はお止めにならなかったの?」
私は驚いて尋ねた。彼の大叔父にあたる大教主様は、彼が王子だと知っているのに。
「俺だけ雑務を免除されたら怪しまれちゃうよ」
暗殺者の目をくらますには、庶民の子供と同じように扱うしかなかったのだ。彼が王子だと知っているのは、大教主様と、聖職者に化けた三人の護衛だけなのだから。
アルは子供時代を思い出したのか、なつかしそうに語った。
「大教主様は厳しいお方でね、仕事中にも頭の中で外国語の単語を繰り返して、時間を無駄にせず勉強しなさいと言われたよ」
「努力されたのね」
「ハハハ、俺は頭の中で暗譜したい歌の歌詞を繰り返していたね」
ひとしきり笑ったあとで彼はふと真摯な顔つきになった。
「でも自分の状況を悲観したことはなかった。一番上のウンベルト兄上が襲撃されてから、俺の生活は制限されてばかりだったから、教会で暮らせるようになって嬉しかったんだ」
七歳の私が宮殿の中庭でアルベルト殿下に会ったころ、彼は見張りだらけの不自由な生活に嫌気がさしていたのだろう。
十年前の出会いをなつかしく思い出していたとき、アルが離れていく王都の方角へ目をこらしているのに気が付いた。
「どうしたの?」
私の問いに、彼は低い声で答えた。
「
─ * ─
誰かに尾行されてる!? 一体誰? 逃げ切れるのか?
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