34、裏庭の礼拝堂で待っていたのは
下手くそな櫂さばきのせいで、冷たい水しぶきが飛んでくる。自分の不器用な舵取りに顔をしかめながら、私はなんとか小舟を旋回し、大運河から脇道へそれた。
普段はゴンドリエーレがやすやすとゴンドラを操ってお屋敷横の小運河に入り、細い運河ばかりを通って大聖堂へ向かう。だが小舟の操作が苦手な私は、遠回りになっても大運河を通って来た。だが最後は、大聖堂前の広場に面した細い運河を進む必要がある。
左右から四階建ての建物が押し迫る。ただでさえ幅が狭いのに、建物前に立つ杭に小舟がつながれ、縦列駐舟されていた。止まっている舟に櫂をぶつけたり、自分の舟の腹と衝突させてにぶい音が鳴るたび、誰かが窓を開けて運河を見下ろしやしないかと鼓動が速くなる。
欄干のない小さな橋の下をくぐると、ようやく聖堂前の広場が見えてきた。
誰にも見とがめられずにたどり着いたことに胸をなで下ろしたのも束の間、また不安が首をもたげた。
「こんな時間に聖堂の扉、開いているのかしら?」
王都の教会はどこでも通常、夜の礼拝が終われば施錠される。当初の計画では、ミサにあずかったあとで聖堂内の翼廊から裏庭に出て、小さな礼拝堂で待ち合わせる予定だった。まさかミサが終わった後に外から聖堂に近づくことになろうとは。
「でも今夜は大建国祭の最終日だから開いているかも」
私は希望的観測で自分を奮い立たせ、石造りの雁木に小舟を近づけた。水中から突き出した杭に向かってロープを投げ、舟を引き寄せる。ロープを結んで舟を係留し、石畳に上がった。男装のおかげで動きやすい。
人目を避けて建物の陰に沿って走り、聖堂の扉へ近づく。
「開いていますように」
念じながら重い木製の扉を押す。
はたして鍵は開いていた。中からかすかにロウソクの明かりが漏れ出す。
明かりが灯っていて、鍵が開いているということは、人がいる可能性が高い。ほんの隙間だけ開けた扉から、私は体をすべり込ませた。
聖堂内部は夜風がさえぎられる分、外より少しだけ湿度が高いような気がした。大きな大理石の柱に身を隠して、広い聖堂内を見回す。
――いた。
正面の内陣に置いた机の上に聖書を広げて、若い神父様がロザリオを手に祈っている。
翼廊へ行くには、彼の視界を横切らなければならない。私は彼が顔を上げないよう祈りながら、柱のうしろから出て、告解室の陰に身を隠した。
神父様はまだ、身じろぎもせずに聖書へ視線を落としている。ブーツの踵が大理石の床を打つ音に細心の注意を払い、絵画の下を走り抜けたとき、
「ん、ゴホン」
突然、神父様が咳払いをした。私は慌てて聖人像のうしろに身を隠す。
「む、むぅ」
妙な声を出して、神父様は法衣の前を搔き合わせ、また下を向いた。
――居眠りしていらっしゃる?
よく見ると時々船をこいでいるようだ。
私は細く長い息を吐き、ゆっくりと翼廊へ近づいた。
裏庭へ出る木戸には、サビの出た丸棒かんぬきがかかっていたが、内側から開けるのは簡単だ。
音を立てないようにそっと木戸を押す。さっと夜風が舞い込むのとすれ違いざま、私は暗い裏庭へ出た。
王都にしては珍しく木々の多い裏庭の地面には、月明かりがあまり届かない。三方を建物に、一方を煉瓦塀に囲まれた小さな裏庭を見回すと、木陰にぽつりと礼拝堂が立っている。時間の流れに忘れ去られたかのような礼拝堂に、人の気配は感じられなかった。
石畳の隙間から顔を出す枯れ草を踏んで、私はわびしい礼拝堂に近づいた。
礼拝堂の窓から明かりは漏れていない。冷たい予感が胸を締めつける。落胆に
礼拝堂の中で待っていたのは暗闇だった。
わずかにかび臭いにおいが鼻をつく。静寂に支配された礼拝堂には埃が積もっていた。ステンドグラスは月明かりを
「そう――よね」
予想していたことだった。だけど悔いはない。伯爵令嬢として決められた規則に縛られてきた私が、人生で初めて自分で決断して、信じられないような大冒険をしたのだから。
涙を流したりしないわ。私は今夜味わった、自由という名の果実の味を、生涯忘れはしないでしょう。一生の宝になる経験をしたのだから。
自分に言い聞かせて木戸を閉めようとしたとき、うしろから夜風が吹き込んだ。せまい礼拝堂の中を、一陣の風が駆け巡る。
ぱらりと、かすかに紙がめくれるような音が聞こえた。暗闇に慣れてきた目が、傾いた椅子の上で舞いあがる楽譜をとらえる。
ドキッとした。咄嗟に駆け寄って楽譜を手に取った。ステンドグラス越しに差し込むかすかな月明かりに、楽譜をかざす。
「アルの筆跡だわ!」
間違いない、彼の手稿譜だ。
「アルはここにいたんだわ!」
いや、今も近くにいるかも知れない! だってオリジナル曲の楽譜を忘れて行くわけないもの!
私は彼の楽譜を胸に抱きしめて、礼拝堂から裏庭に走り出た。
せまい裏庭を見渡すが、人の姿はない――と思ったとき、塀の脇に立つ木の枝が揺れた。
─ * ─
リラはアルに会えるのか!?
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