29、兄クリスティアーノの無謀な企て

 大建国祭最終日の夕方、私は侍女が置いて行ったかわら版ガゼッタを何度も読み返していた。運河をわたる風が、にぎやかな音楽とざわめきを部屋の中まで運んでくる。


「彼は王太子で、婚約者がいるんだわ」


 二日間、静かな部屋で考えるうちに少しずつ、私は以前の冷静な自分を取り戻しつつあった。


 頭にかかっていた煌めく霧が晴れてくると、今までと寸分変わらぬ現実が姿を現す。愛する人と結ばれないのは貴族社会の常なのに、なぜ少女のような夢を見てしまったのか。誰もが鳥かごに閉じ込められたこの世界で、自分だけ抜け出せると甘い望みを抱くなんて愚かだった。


 私はお母様のように愛のない結婚をする。最初からグイードと結婚しようとしていたのだから、振り出しに戻っただけ。


 婚約者であるマリーニ子爵様にお返事を書こうと、ライティングビューローの天板を下ろしたとき、扉がノックされた。


 私の返事を確かめてから入って来た侍女は、ティーカップを乗せたトレーを持ったまま声を上げた。


「まあ、お嬢様! こんな暗いところにいらっしゃってはいけませんわ!」


 花瓶の乗ったシェルフの隣にトレーを置くと、廊下の燭台からロウソクを持ってきて、私の部屋に火を灯す。部屋に明かりが満ちると、窓の外は夕闇に沈んだ。


 私はビューローの天板を戻して、明るい部屋から逃げ出すようにバルコニーへ出た。暮れゆく空には満月が浮かんでいる。


 大建国祭初日、満月へと向かう月を見上げて期待に胸をふくらませたのが、遠い昔のようだ。仮面舞踏会の興奮冷めやらぬ宮殿の中庭で、アルと口づけを交わしたなんて夢みたい。


 でもあの夜、私たちはすでに父上に目撃されていて、悲劇の歯車は回り出していた。


 手すりに両腕を置くと、ハウスドレスの袖を通して大理石の冷たさがしんしんと突き刺さる。中庭では月光を浴びた井戸が銀色に輝いていた。あの井戸の下でアルがリュートを弾き、二人で歌った日を思い出す。


 どうして愛してしまったのだろう。


 彼と出会えただけで幸せだったのか、それとも恋を知らない方がよかったのか、私はまだ答えを出せない。


「思い出を胸に抱いたまま、井戸に飛び降りて死んでしまえば、楽になれるのかしら?」


 悲観的な発想に、私はふっと笑った。そこまで自暴自棄になれるほど、私は愚かじゃない。


 やがて日が暮れて、今夜もまた夕食の時間がやってきた。食欲がないからと断ったら、マリアが私の部屋に運ぶよう命じたので、仕方なく口に運んだ。


 食後、マリアに手伝ってもらって身を清め、ネグリジェに着替え終わると、教会の鐘が真夜中を告げた。今頃人々は大聖堂でミサにあずかっていることだろう。


 アルカンジェロの歌、聴きたかったな、と思った途端、涙がこぼれた。


 マリアに気付かれないよう指先でぬぐい、寝台に腰掛ける。


「おやすみなさいませ、お嬢様」


 マリアは壁の燭台に灯る明かりを消して、部屋から出て行った。


 ベッドに入ったものの眠れそうにない。古典文学の本を読む意味もなくなってしまった。未来への希望を失った私は、寝付けない夜に時間をつぶす方法さえ分からなくなった。アルに出会う前の自分がどんな風に過ごしていたのか思い出せない。


 寝台の上で寝返りを繰り返していると、屋敷の一階からにぎやかな話し声が聞こえてきた。ミサが終わって、お母様とチョッチョが帰宅したようだ。夜中だというのに楽しそうな二人の笑い声から、大建国祭の余韻がほとばしる。


 本当なら今頃、私はアルと王都を出ていたのだろうか? まさか彼が礼拝堂で私を待っているなんてことはない――だろう。


 夜中だというのに馬鹿なチョッチョが歌い出したせいで、私は完全に覚醒した。


 サイドテーブルに置いたランプの傘を持ち上げ、部屋を明るくする。ベッドから這い出て布の靴を履き、クローゼットから出したガウンを羽織って、私はマリアが閉めた鎧戸を再び開けた。


 銀色の月光を浴びながら、冷たい夜風を吸い込んだとき、


「リラお嬢様はいらっしゃいますか!?」


 廊下から男の切迫した声が聞こえた。確かあの声は兄の侍従だったはず、と思っていると、


「お嬢様はすでにお休みになっています!」


 マリアの叱責が答えた。


「緊急事態なんだ! クリスティアーノ様がお戻りにならない!」


 言い返す侍従の様子がただ事ではない。


 私はガラス窓を閉めると、ランプの灯りを燭台に移し、大きな壁掛け鏡の前に立った。ガウンの前をしっかりと合わせて腰紐を結び直す。本来ネグリジェ姿で殿方の前へ出るべきではないのだが、今は侍従の言う通り緊急事態だ。


 その間にもマリアと侍従の口論は続いている。


「お嬢様ではなく奥様にお伝えするべきです」


「クリスティアーノ様がリラ様にお手紙を残しておられたのですよ! 行き先について書いてあるかも知れない。でも勝手に読むわけには行かないでしょう?」


 私は部屋の扉を開け、廊下に顔を出した。扉の左右に立っている私兵二人に、


「なんの騒ぎ?」


 声をかけた途端、兄の侍従が私のところへ飛んで来た。


「クリスティアーノ様が劇場から姿を消されたのです!」


「兄はミサへ行かなかったということ?」


 最終日の夜は皆、教会へ行く。オペラであれ仮面舞踏会であれ豪勢なディナーであれ、たっぷり楽しんだあとはミサで締めくくるものだ。


「行かれたはずだと信じていたのですが――」


 曖昧に答える侍従のうしろに立ったマリアが、彼に冷たい視線を向けている。


 彼は言い訳するように言葉を続けた。


「あまりに人が多いので大聖堂でもクリス様を見つけられず、ミサが終わった後に運河で待っているゴンドリエーレに訊いたところ、劇場から大聖堂までゴンドラに乗って行かれなかったと言うのです」


 大建国祭の最終日は特に、貴族たちを乗せるゴンドラは運河で大渋滞を起こす。劇場から大聖堂、そして大聖堂から伯爵邸まで、歩いても大した距離ではない。


「クリス兄様はゴンドラに乗らずに屋敷へ帰って来たのかも知れないと、あなたは思ったわけね?」


 私の問いに、侍従は気まずそうにうなずいた。


「ですが、お姿が見当たらない。ミサから帰って来た者たちに尋ねても、誰も大聖堂でクリス様をお見かけしていないと言うのです」


 侍従はわずかな期待を胸に、すでに閉まっている劇場へ戻り、門番に何か知らないかと尋ねたそうだ。


「そうしたら終演後、各ボックス席を掃除していた者が置き手紙をみつけたと」


 侍従は私に、ボックス席のテーブルに残されていたという手紙を差し出した。


 いつまでも廊下で立ち話をしていては体が冷えるので、私は暖炉のついている自室へ戻った。


「失礼します」


 侍従はマリアに睨まれながら、部屋へ入ってくる。


 私はソファに腰掛けると、震える指先で手紙を開けた。




─ * ─




クリスの兄貴はどこへ行ったのか!? その答えは彼からの置き手紙に?

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