26、アルはついているのか、いないのか、それが問題だ!

「その、アルベルト様のお体は……」


 しばしの沈黙が流れる。私は耐えられなくて、発泡白葡萄酒プロセッコの注がれたグラス表面に浮き出た水滴を指で撫でた。


 途端にアルが、ぷっと吹き出した。


 驚いて彼の顔を見る私の髪を撫で、


「ごめんごめん」


 謝りながらも白い歯を見せて笑っている。


 どんな顔をしてよいのか分からず視線を落とす私に、彼は軽い調子で答えた。


「取ってないよ。大事なものの話だよね?」


 仮面の奥を盗み見ると、アルの瞳はいたずら好きな少年のように輝いている。長い指先で、首に巻いたスカーフをずらして見せた。


「ほら、喉仏もあるだろう?」


 いつもの中性的なコントラルトの声に、私は狐につままれたような顔をしていたのだと思う。


 彼は優雅にスカーフを結び直すと、仮面を黒髪の上に持ち上げながら、私の耳元に唇を寄せた。


「俺が五体満足な男でも愛してくれる?」


 甘くささやいた彼の声は、低めのテノールだった!


 初めて聞いた彼の地声に、私は息を呑む。


「その声、どうやって――」


「テクニックだよ」


 まるで種も仕掛けもありませんと語る奇術師のように両手を広げた彼の声は、また中性的な美声に戻っている。


 私はまじまじと、彼の端正な顔を見つめてしまった。室内から漏れる明かりに照らされる彼の横顔に、髭を剃ったあとはない。不躾ぶしつけな私の視線に気づいた彼は、手のひらでさらりと自分の頬を撫でた。


「これでも苦労しているんだよ? 髭は抜かなきゃいけないし、必ず喉元を隠す服装をして―― 高い声で話すのはもう慣れたけど」


 確かに彼は、カストラートにしては精悍な印象だった。だがカストラート歌手が皆ふくよかというわけでもない。彼らの外見的な特徴は傾向であって、必ず全員に当てはまるものではないのだ。


 声に関しても、チョッチョのように軽いソプラノから、重くて迫力のあるアルト歌手まで様々だ。結局声とは、神様がひとりひとりにお与えになった楽器で、同じものはひとつとしてない。


 だが変声期を迎えたあともアルトの美声を保ち続けるのは、努力の賜物だろう。


「すごいわ。あなたってやっぱり素晴らしい歌手なのね」


 だが彼は少し寂しそうに肩をすくめた。


「歴史的には、カストラートよりファルセッティストのほうが長い伝統を持っているんだ」


 彼が言う通り、外科手術が発達する前は、裏声を磨いた男性歌手が少年たちと共に聖歌隊を支えていた。


「でもファルセッティストの声にはしばしば欠陥がある。二十台も後半になると段々声が重くなって、美しい音色を失っていく歌手も多いんだ」


 彼は静かに打ち明けた。


「そんな……」


 私はショックを隠せない。彼の天鵞絨ビロードのようになめらかな歌声が近い将来、失われてしまうかも知れないなんて。


「だから二十歳で正体を明かすことに――?」


「父上はそんなことまで考えていないだろうな。政局の安定や跡継ぎのことを考慮しただけさ。でも俺が父に同意したのは、期限付きの声かも知れないってことが理由だ」


 私が暗い顔をしているのに気付いた彼は、優しい笑みを浮かべた。


「もちろん人によるんだ。俺は三十になっても四十になっても歌えるかもね。だけど聖歌隊の先輩たちの中にはコントラルトの音域を維持していても、声質はカストラート歌手の軽やかな音色とはかけ離れていく人もいる」


 落ち着いた声で話す彼の横顔に落胆の色はない。むしろ爛々と輝く瞳で、祭りに沸く夜の街を見つめている。運河の上、街の灯りと月明かりが織りなす金と銀の絨毯を眺めながら、言葉を続けた。


「だから俺は作曲の勉強にも力を入れてきたんだ。父上が二十歳はたちなんて期限を言い出したのは去年のことだから、俺は音楽家として独り立ちしないといけないと思っていたからね」


 未来を見据える彼の視線を追って、私は運河の先を見つめた。橋を渡る仮装した人々が、月明かりを浴びて影絵のように浮かび上がる。建物に切り取られた夜空を見上げれば、月は昨日よりさらに満ち、満月へと近づいていた。


「大聖堂の方々は、アルの正体を知っているの?」


 音楽家として研鑽を積む王子を、聖職者たちが陰ながら支えているのかと予想したが、アルは首を振った。


「ほとんど知らないんだ。リラのお兄さんが大聖堂の音楽監督に手紙をくれたけど、『手帳の内容について話し合いたい』ってなんのことかと不思議そうに尋ねられたよ」


 彼は楽しそうに笑いながら、


「俺が持ち歩いてる対位法のノートだとごまかしたんだ。リラお嬢様は作曲技法に興味があるようですってね」


 秘密を明かしたあとで、小声で続けた。


「知っているのは大教主様と三人の護衛だけだよ」


 十年前、王宮の近衛兵が三人選ばれ、神官として幼い王子の身辺警護をするために同行したのだと言う。


「彼らも神学なんて収めてないし、俺と一緒に苦労したんだ」


「アルが苦労ですって? もとから素晴らしい歌声だったじゃない」


 私は十年前、宮殿の中庭で聴いた彼の歌声を思い出す。


「俺が苦労したのは庶民の子供らしい振る舞いや言葉遣いの方さ」


 確かに今でも彼のたたずまいからは気品があふれ出ている。


「父と側近たちは俺を守るために、大叔父である大教主様がいらっしゃる教会にあずける計画を立てた。生きているのは第二王子ジルベルトだと発表することで、教会に十歳の孤児が現れても怪しまれないよう工夫したんだけどね」


 彼は苦笑を浮かべながらプロセッコで喉を潤した。


「俺の言葉遣いや食事の作法なんかが貧しい家の子供とかけ離れていたせいで、危なかったんだよ」


 第二王子を失った毒殺事件のあと、国王陛下とごく少数の側近がどうやって第三王子を守るか話し合ったから、父含め関係者は離宮に拘束されたのだろう。


「そこまでして守られた貴重な方を国外に連れ出すなんて私、王国に背を向ける大罪人だわ」


 両手で自分の肩を抱き、私は身震いした。劇場からは華やかなヴァイオリンの音色が漏れてくる。オペラを楽しむ大勢の人々を裏切るようで、私は恐れおののいた。


 だがアルカンジェロはカタンと音を立てて椅子ごと近づくと、私を力強く抱き寄せた。


「ロムルツィア王国は国民のためにある。そして国王の仕事は民を幸せにすること。愛する女性ひとり幸せにできずに何が王子だ」


 力強い声にドキッとして、私はすぐ近くに迫った彼の美しい顔を見上げた。室内から漏れる黄色い灯りが彼の白磁の肌に繊細な陰影を施し、古代の優雅な彫刻のようだ。


「リラ、君には幸せになる権利がある。王国や家のために自分を犠牲にする必要なんかない」


 アルカンジェロは大きな手のひらで、私の両手を包み込んだ。


 私の脳裏に、新しい婚約者となったマリーニ子爵から受け取った手紙の内容がよみがえる。子爵は一言も、私を幸せにするとは書いていなかった。


「私は自分の幸せを選択していいの?」


 子供の頃からずっと、好きな歌手につぎ込む母を軽蔑し、王国のために尽くす厳しい父に憧れてきたのに、私も自分の情熱を見つけてしまった。


「当たり前だ。君は幸せになっていいんだよ、リラ。自分で自分の足を縛らないで」


 今まで私は、この社会の伝統や規則を守ることを優先してきた。社会のルールと自分が幸せになるためのルールが違うなんて、誰も教えてくれなかった。


 アルカンジェロは、私の手を強く握ったままほほ笑んだ。


「ほんの少し、勇気を出すだけでいいんだ」


 私は両手を固く握り合わせ、うなずいた。


「しあさって、真夜中のミサが終わったら、聖堂の裏庭にある礼拝堂へ行けばいいのね?」




─ * ─




しがらみも迷いも絶ち切って、逃避行を決意したリラに次回、最大の障壁が立ちはだかります!

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