09、アルカンジェロのチェンバロレッスン
「アルは、ブリタンニア王国へ行ってしまうの?」
私は置いてけぼりにされた子供のような声で尋ねていた。
楽譜をめくる彼の手が止まった。
「よくご存じですね」
困ったようにほほ笑むアルカンジェロに、私は言い訳した。
「お兄様が話しておりましたの。噂を聞いたって」
「クリスティアーノ様は情報通ですな」
人当たりの良い兄は男女問わず友人が多い。陰で堅物令嬢と呼ばれる私とは違って、社交界の噂話にも通じている。
私はアルの答えを待っていた。音楽室に静寂が落ち、中庭から小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。
「エージェントには断ったのですよ」
ようやく彼が答えてくれて、私はほっと胸をなで下ろした。
「しかしエージェントめ、図々しくも『お気持ちが変わるのをお待ちしています』などと言って宿の場所を渡してきたんだ」
憎々しげな口調とは裏腹に、アルカンジェロは楽しそうだ。抜け目ないエージェントを面白がっているらしい。
「エージェントさんったら、さっさとブリタンニア王国へお帰りになればいいのに」
私はアルカンジェロを奪われたくなくて、つい不機嫌な声を出してしまった。
「大建国祭中はロムルツィアに滞在するそうですよ」
祝賀期間中の王都には、周辺諸国から訪れる旅行客も多い。エージェントは大建国祭の観光も兼ねて、今の時期にロムルツィアへ来たのだろう。
「アル、ブリタンニアへ行きませんわよね?」
私は不安を抑えきれずに、隣に座るアルカンジェロを見つめた。
「ああ。俺はこの国から離れられませんから」
あきらめたような笑い方は、いつも自信に満ちている彼らしくない。深く尋ねられたくないのか、
「では初めから弾いてみましょう。途中で止めさせていただきますね」
楽譜の曲頭を指さした。
私は言われた通り一楽章を繰り返しながら、彼の言葉の意味を考えてしまう。まるで逃れられない重責を背負っているかのようだ。
「あ、そこまでで」
彼がすらりとした手の甲を差し出して曲を止めた。
「リラお嬢様の指はとてもよく動いているのですが、やや力が入りすぎているようです。必要最小限の力で弾くと、お嬢様の指にも楽器にも優しいですよ」
「必要最小限?」
オウム返しに尋ねると彼は、ええ、とうなずいた。
「二種類の弾き方をしますので、聴き比べてください」
爪の形まで美しい彼の人差し指が、木の鍵盤をゆっくりと押してゆく。
チェンバロの爪が弦をはじき、ポロンと綺麗な音が鳴った。
「次は強い力で弾きます」
彼の指が素早く動き、鍵盤をたたいた。弦の音と同時に、カタンと木片がぶつかるような雑音がかすかに聞こえる。
私は彼の言わんとしていることを理解した。
「美しくありませんわね」
「そうなのです。敢えて荒々しい演奏を求めるのでなければ、強い力は不要です」
「荒々しい演奏なんて下品ですわ」
私が貴族令嬢の感性をあらわにすると、彼は少しほほ笑んだ。
「劇場のワンシーンなら使えるかも知れません」
「あ、オペラの
「おっしゃる通りです。こんな感じで――」
彼は満足そうにうなずいてから手を伸ばし、力強く減七の
「かっこいいわ」
思わず褒めると、彼は照れた。
「いやいや、お嬢様がこれから弾かれるソナタには関係のないものでした。さあ、やさしく優雅に弾いてみましょうか」
彼のアドバイスを受けて私はまたソナタを弾いてみたが、五指すべてが均等に程よい力で鍵盤を押すのはなかなか難しい。音色こそまろやかになったものの、ミスタッチが増えてしまった。
「難しいわ」
途中まで弾いて彼に訴えると、
「手首の力を抜いてみましょうか。失礼」
彼が両手で優しく私の手を取ったので、また鼓動が速くなった。
「指先の関節も楽にして」
彼の長い指が、私の白い手を撫でてゆく。
「肩も下げてください」
風のようにふわりと、彼の手のひらが私の二の腕に触れた。
「もっと楽に、思いのままに、音楽に身をゆだねてよいのですよ」
アルカンジェロの魔法の指先が触れた場所から軽くなってゆく。体からこわばりが抜けてゆくと私は、今まで鎖でがんじがらめにされていたと気が付いた。
彼の手ほどきで私は一歩ずつ解き放たれて、空へと舞い上がってゆくようだ。
「こんなに力を抜いて弾けるかしら?」
「大丈夫。こんな感じで――」
私の右側に座った彼は、オクターブ上でソナタを弾いてくれた。彼の大きな手が空を羽ばたく翼のように鍵盤の上をすべってゆく。
簡単な練習曲を弾いているのに、その単純さがかえって美しく、聴き惚れてしまう。
「上手ね」
うっとりしていた私の口から心の声が漏れて、自分の馬鹿げた感想に恥じ入った。彼はプロの音楽家なんだから、私の弾く練習曲くらい巧みに演奏できて当然じゃない!
だがアルカンジェロは素直に相好を崩した。
「ありがとうございます」
彼の笑顔に私まで明るい気持ちになる。彼は天使の微笑を浮かべたまま、
「しごかれた甲斐があるってもんです」
と続けた。
「音楽院の先生、厳しかったの?」
「いいえ。俺、音楽院には通っていないんです」
少し意外だった。カストラート歌手はたいてい音楽院で学ぶものだから。
各地に点在する音楽院には、教会が運営する孤児院から発展したものも多い。そのため音楽院は子供たちの寄宿舎も兼ねている。貧しい農村出身で声だけは美しい少年が、衣食住の面倒まで見てもらいながら音楽だけでなく、貴族の家に出入りしても失礼にならない教養を身に着けるのだ。
「大聖堂の音楽監督に習ったんですよ。俺、教会で育ったから」
アルが親しげな口調で自分のことを話してくれるのが嬉しい。
「そうだ」
彼が手のひらで自分の膝を打った。
「俺が子供の頃、音楽監督がよく使っていた指導法を試してみましょう。俺が右手の旋律を弾きますんで、お嬢様は左手だけ弾いてみてください」
私たちは息を合わせて一つの曲を演奏した。
左手だけなら新しいタッチに集中できて、私は綺麗に弾けた。片手ずつ連弾するのはとてもよい方法だったが、どうしても彼と密着することになる。
私は必死で曲に集中しようと試みた。どうしてこんな、水の上を飛び跳ねながら歩いて行くみたいに、心が浮き立つんだろう。
家族でもない殿方と距離が近づくから?
いいえ、私は少女ではないわ。婚約者だったグイードと夜会で踊るときは、体が触れ合う距離だった。
でも一度も胸の高鳴りを覚えたことなんてない。
それなのにアルカンジェロが隣にいるだけで、世界が鮮やかに色づいて見えるなんて!
私とアルカンジェロは、互いに右手を弾いたり左手を弾いたりしながら、レッスンを続けた。
ようやく両手でゆっくりと、すべての音のタッチに気を配って弾けるようになったころ、
「お疲れになりましたか?」
アルカンジェロが声をかけてくれた。
全神経を指先に集中していたので気付かなかったが、頭の芯のあたりに心地よい疲労感を覚える。
壁際に控えている侍女がすぐに察して、
「ではお飲み物とお菓子をお持ちしますね」
音楽室から出て行った。
「今日はこのくらいにしておきましょう」
首元に手を添えていた私の様子を見て、アルカンジェロが提案する。
「そうね。お手紙で伝えていた件についてもお話ししなければならないし」
私たちはテーブルセットの置かれたガーデンルームへ移動した。大きなガラス扉から燦々と降りそそぐ陽光が、テーブルに入った螺鈿の装飾に反射する。
カートを押して戻って来た侍女が、優雅な猫足のテーブルにハーブティーとビスケットを並べてくれた。
カモミールの湯気が立ちのぼり、あたたかい香りが鼻先をくすぐる。
「リラお嬢様を危険な仕事に巻き込みたくはないのですが」
先に口をひらいたのはアルカンジェロだった。
「それでしたらどうして、この屋敷に来てくださったの?」
私は純粋な疑問を口にした。
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