07、兄クリスティアーノの秘めた恋人

「すでに公爵家に入って、こっそり調査を進めている者がいたのです」


 私は兄に、アルカンジェロ・ディベッラのことを打ち明けた。


「なんと」


 話を聞き終わったクリス兄様は目を見開いた。


「実際、音楽家ムジコたちの中には政治や領地経営に深く関わる者もいるからな」


 貴族の私的な場に入り込み、時には主人の心に深く影響を及ぼすのが、音楽家や画家などの芸術家たちだ。大きな信頼を得て要職を任されることも珍しくない。


「公爵邸の仕事を任せてもらえば、過去の帳簿をのぞいたり、公爵の日記を盗み見たりもできそうだもんな」


 兄は物語に出てくる怪盗のように目を輝かせた。


「それで考えたのですが――」


 私は表情を変えないように努めて、冷静に言葉を紡いだ。


「私が現在教わっている音楽教師――フィオレッティはお母様と過ごす時間が最優先でしょう? あの方はお母様専属のマエストロになっていいただいて、私には私の先生が必要だと思うのです」


 堂々と要求すると、兄はあごを撫でながらうなずいた。


「ディベッラ氏は大聖堂聖歌隊のソリストで、大教主様の寵愛を受けているらしいね。素晴らしい歌声を持っていながら稼ぎのよい劇場に出ないのは、彼が敬虔だからという噂だ。リラの先生にふさわしいと思うよ」


 前向きな兄の言葉に私の心は踊った。だが続く言葉が奈落の底へ突き落とした。


「でもリラ、噂では確か―― 彼は大建国祭が終わったらブリタンニア王国へ旅立つんじゃなかったかな?」


「え……」


 心臓が不吉な音を立てて跳ね上がった。


 アルカンジェロが外国へ行ってしまう? 大建国祭なんてほんの半月後なのに!? クリス兄様の言うことが本当ならば、アルカンジェロがこの国にいる時間はあと一ヵ月もないってこと?


 表情を取り繕えなくなった私に、お兄様が説明を重ねた。


「北の海を越えた先にある島国、ブリタンニア王国は新大陸の植民地経営で潤っているんだ。だから多くのエージェントを海外に派遣して、優秀な音楽家に高額で契約を持ちかけているんだよ」


「それは、聞いたことがありますが――」


 なんとか絞り出した声はかすれていた。


 お兄様は特段、私の変化を気に留めなかったようだ。


「彼を呼び寄せるなら急いだほうがいいな。大聖堂聖歌隊の音楽監督に手紙を書こう」


 ランプの灯りに照らされた書斎机へ向き直った。


 私の視線はぼんやりと、秘密を暴くような琥珀色の光に吸い寄せられる。雑然とした机の上には分厚い本が置いてあり、ページの途中から便箋が飛び出している。部屋に入る前、大きな本を閉じる音がしたとき、しおり代わりに手紙を挟んだのだろう。その筆跡は兄のものではない。やわらかい流麗な字体は――女性のもの?


 ほんの数行だけのぞいている、便箋の端に書かれた言葉の断片に、私は息を呑んだ。「夢の中でもあなたを想って」という文章がちらりと見え、その下には「私の心は永遠にクリスティアーノ様の」というフレーズがのぞく。明らかに恋文だ。


 だが何よりも大きな問題は、最後の行に書かれていた差出人の名前だった――「あなたの唯一の愛であるエルヴィーラより」。 


 エルヴィーラ・セグレート侯爵令嬢!


 鼓動が速くなる。


 王家の飼い殺し令嬢と嘲笑される未来の王妃は、兄の秘密の恋人だったの!?


 昨夜の夜会で覚えた違和感の正体が明らかになった。私がアルカンジェロに抱き上げられて控室に下がったとき、兄がついて来ないのは妙だった。もちろんすぐに侍女マリアがやってきたので、私の疑問がふくらむことはなかったが、今なら兄の心理が分かる。私の付き添いから解放された彼は、エルヴィーラ様と踊りたかったのだ!


 それにしてもクリスお兄様、第二王子殿下の婚約者と恋仲になるなんて、危険を冒しすぎですわ!


 血の気の失せた顔をしているであろう私を振り返ることなく、机に向かったままの兄がのんびりと言葉を続けた。


「アルカンジェロ・ディベッラ氏のスケジュールが許すなら、ぜひプリマヴェーラ家の令嬢に音楽を教えに来て欲しいと書いておこう」


 兄の言葉は私の耳に入らず、頭上をすり抜けていった。


 エルヴィーラ嬢の生家であるセグレート侯爵家は王家と血縁関係こそないが、ロムルツィア初代国王の忠臣で、代々王家を支えてきた由緒正しい家柄だ。新興貴族のように社交界での地位向上に拘泥することもない彼らは、第二王子の婚約者という立場に固執することもなく、むしろ娘の扱いに不信感を募らせている。


 愛情に満ちた侯爵夫人が茶会のおり、ハンカチ片手に娘の現状を涙ながらに話す姿を、幾度見かけたことか。毒薬の影響でジルベルト殿下のお体が不自由だとはいえ、婚約者を見舞うことすら許されない娘が不憫だと言うのだ。


 千年の長きに渡り忠誠を尽くしてきたセグレート侯爵家の娘にして婚約者であるエルヴィーラ嬢でさえ、ジルベルト殿下へのお目通りが許されない状況に、社交界では不敬な噂が飛び交っている。


 曰く、寝たきりなんて生易しい状態ではなく、精神を毒に蝕まれて狂人と化しているのではないか?


 曰く、毒薬の影響で全身が溶け、二目ふためと見られぬ変わり果てたお姿になっているのではないか?


「ブリタンニア王国のエージェントと契約したとかいう噂が本当かどうかも分からない。本当だったなら、ディベッラ氏に教えてもらっている間に次の音楽家を探したってよいんだから」


 兄の最後の言葉がまた宙に浮いて、たゆたっていった。


 私は心ここにあらずのまま兄に礼を告げ、心臓の鼓動を悟られないよう細心の注意を払って書斎を辞した。




 §




 クリス兄様のとんでもない秘密を知ってしまってから数日後、中庭には燦々と陽射しが降り注ぎ、音楽室は春の陽気で満ちていた。塀の向こうからは、ゴンドリエーレが舟を漕ぎながら歌う伸びやかなテノールが聞こえてくる。


 侍女が音楽室の扉をノックし、私に声をかけた。


「アルカンジェロ・ディベッラ先生がいらっしゃいました」


 伯爵邸に新しい音楽教師がやってきた。そう、私の計画は成功したのだ!




─ * ─




リラ、ついにアルカンジェロと二人きりで話すチャンスを手に入れました!

次話から恋が始まるのか、それともリラは真面目に密偵の件について、彼に尋ねるのか?

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