06、お母様は高い声がお好き

「レッスンは終わりまして?」


 扉に寄りかかったお母様は、扇を片手に吐息を含んだやや低い声で尋ねた。自宅にいるというのに顔色はおしろいで真っ白。高く結い上げた髪型のせいで扉につっかえそうだ。これから夜会に出かけるのかと思うような、コバルトブルーに金糸の刺繍がふんだんにほどこされたドレスに身を包み、胸元には大きなサファイヤのネックレスが輝いている。


「ロザリンダ様!」


 オペラの続きかと思うような高い声を出してチョッチョが駆け出した。


 まるでロウソクの灯りに吸い寄せられる蛾のようだわ。


 これで今日のレッスンはおしまい。この男はお母様に会いに来ているだけだからね。


 チョッチョがいつも女性役の衣装で現れるのは、世間やお父様の目をあざむくため。私たち兄妹や屋敷の使用人たちにとっては、チョッチョがお母様の現在の愛人であることは公然の秘密だけれど。


 私が物心ついたときからいつも、母の隣には性別不明の愛人がはべっていた。それはいつも歌手だったけれど、カストラートとは限らない。正歌劇オペラセリアで英雄役を歌う男装の女性アルト歌手だったこともある。


 もちろん教会は同性同士の恋愛を固く禁じているが、母は性別にこだわらずに恋をする。母が惹かれるのは女性性で、生来のものでも、作られたものでもよいらしい。高い声や薔薇色の頬、やわらかくふっくらとした体つき――それが母のお気に入り。そして父には決して備わっていないもの。筋骨たくましいお父様はいつも威厳にあふれているのだから。


 両親を見て育った私は小さいころから学んで来た。愛とか恋とかいう甘ったるいものは舞台の上にしかないんだって。


 チョッチョと母が去って静かになった音楽室で、私は譜面台に置いた楽譜を閉じた。パタンという音が思いのほか大きく響いて、いつの間にか雨音が聞こえないことに気付く。


 中庭を振り返ると、うっすらと白みがかった空の下、石畳に残った水たまりが頼りない陽光を反射していた。


 廊下側の扉がひらいて、飲み物を持って入ってきた侍女が意外そうに音楽室を見回す。


「今日のレッスンはもう終わりですか?」


「そうよ。あの男、全く教える気がないんだから」


 チェンバロから譜面台を下ろしながら、つい不満を口にしてしまう。


「お手伝いします」


 侍女はティーカップの乗ったトレーを猫足のシェルフに置いて、チェンバロの屋根を慎重に閉めた。


「リラお嬢様は毎日のように練習されているのに、フィオレッティ様ときたら」


 若い侍女はあきれた様子で両手のひらを天井に向けた。


「私、お嬢様にはもっと熱心な先生が合うと思います」


 大きな布を楽器にかけながら、彼女が子供っぽい表情で頬をふくらませたとき、私は思いついてしまった。アルカンジェロと会って事件について話す方法を。


 でもひとつだけ懸念がある。美貌の男性アルト歌手に心惹かれていると誰かに誤解されて、母と同じような女性だと見なされないか。


 でも誰かって、誰? お屋敷の使用人?


 構うもんですか。私は昨日の夜会で、大勢の見ている前で婚約破棄されたけれど、今朝もいつもと同じ朝が来た。恥をかいたくらいでは死なないのだと、私は知ってしまった。


「雨、んだんですね」


 楽器の片づけを終えた侍女が、まぶしそうに目を細めて中庭を見た。


「最近陽射しが強くなってきて、春だなあって」


 雲間から放たれた一筋の陽光が、雨に洗われた草花の雫に反射してきらめいている。


 誘われるようにガーデンルームへ出た私のうしろで、


「もうすぐ大建国祭ですもんね」


 侍女の弾んだ声が聞こえる。


 この国に伝わる伝説では約千年前、ロムルス神の加護を受けた初代国王が、春分日の真夜中に蛮族へ奇襲を仕掛けて勝利し、ロムルツィア王国を建国したとされる。大建国祭では初代国王の偉業を称えて春分日に先立つ五日間を祝賀期間とし、一年に一回、身分にかかわらず国じゅうが喜びに湧く日々となる。王都では仮装して仮面をつけて素性を隠した人々が街を闊歩し、自由を満喫するのだ。


 若い侍女の高揚が感染したのか、私は思わずガーデンルームのガラス扉を開け放った。


 濡れた土の匂いと鳥のさえずりが早春の訪れを告げる。石畳にできた水たまりで木漏れ日が踊り、鉢植えから顔を出した若葉は雨上がりの空に向かって力強く背伸びしていた。




 夕食後、私は計画を実行するため兄クリスティアーノの書斎に向かった。


 廊下の片側に並んだガラス窓はすでに、勤勉な使用人によって鎧戸が閉められている。反対側の壁には燭台が等間隔に据えられ、ロウソクの炎がかすかにゆらめいていた。


 薄暗い廊下の突き当りに現れた古い木の扉をノックして、私は兄に声をかけた。


「お兄様、お話ししたいことがあるのですが」


 部屋の中でバサバサっと紙の束を動かすような音がする。続いてバタンと大きな本を閉じたらしい物音が響いた。


「リラかい?」


 ようやく答えてくれたクリス兄様の声は妙に落ち着きがない。私が返事をする前に、


「いま開けるからちょっと待って」


 お兄様は畳みかけた。 


「あの、ご迷惑でしたら明日でも――」


「いやいやいや、大丈夫だよ!」


 私の言葉を遮って、お兄様の足音が近づいてくる。なんだか様子がおかしい。つい眉間に力を入れていたら、扉が勢いよくひらいた。


「入りなさい」


 お兄様は布張りの椅子を書斎机の近くに動かして、私に座るよう促した。


「リラ、夜会の件は――」


 書斎机に片腕を置いたお兄様は、気まずそうに窓の方へ視線をそらした。


「その、残念だったな」


 屋敷の下を通る運河を小舟が通過したのか、かすかに水音が立ちのぼってくる。夜の静けさの中では二階にある書斎まで、櫂が水をかきまぜる音が届くのだ。


 婚約破棄された不肖の妹を気遣ってくれる兄に、私は一応こうべを垂れた。


「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」


「リラが謝ることじゃない。僕はリラに非があったなんてこれっぽっちも思わない。それは父上だってよくご存知だし――」


 そこで兄上は言葉を切って、わずかに眉根を寄せた。


「ブライデン公爵だって同じじゃないかな?」


 腕を組んで声をひそめる。


「この婚約は公爵家がうちを抱き込みたくて持ちかけた話だろう? それをグイード様がぶち壊したんだ。公爵閣下が息子を放っておくなんて妙だよ」


 まさか私が公爵家に入り込んで過去の罪につながるものがないか調べようとしていたと、勘付かれたわけではあるまい。


 兄は腕を組んだまま背中を椅子の背にあずけた。


「グイード様が選ばれたパメラ嬢は新興男爵家の娘だろう? 王家の血を引く公爵家とバンキエーリ家では家格が釣り合わないじゃないか」


 クリス兄様のおっしゃる通りだ。


 グイードに未練がなさすぎて気付かなかったけれど、ブライデン公爵は息子とパメラ嬢の婚約を許すのだろうか?


「まあ僕は、リラが危険な婚姻をしなくて済んでホッとしているけれどね」


 兄は憑き物が落ちたように表情をゆるめたが、私は逆に口をとがらせた。


「貴重な機会を失ってしまいましたのに」


「妹がスパイまがいのことをするなんて、僕は反対だったんだよ」


 やわらかい口調でたしなめるお兄様に、私は少し硬い声で告げた。


「その件なんですが、お兄様。すでに公爵家に入って、こっそり調査を進めている者がいたのです」




─ * ─




リラが書斎の扉をノックしたとき、クリスの兄貴は何を隠したのか? 次回、判明します!

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