初恋はリラの花のように~私を溺愛する秘密の恋人は暗殺されたはずの王子様!?刺客から逃れて幸せになるために立ち向かいます!~

綾森れん👑12/31~1/3低浮上

第一幕:突然の婚約破棄と、運命の出会い

01、伯爵令嬢リラ・プリマヴェーラ、婚約破棄される

 夜会をいろどる優雅な音楽が、ブライデン公爵邸の大広間を満たしていた。木管フルートが鳥のさえずりを模倣し、ビオラ・ダ・ガンバの奏でる低弦の響きが対旋律を描き出す。時折り鍵盤楽器チェンバロ分散和音アルペジオが光の粒のごとく舞い上がった。


 絵画に埋め尽くされた天井からは、宝石を散りばめたようなシャンデリアが下がっている。そのきらめきを受けて、私の婚約者であるブライデン家令息グイード様と、派手なドレスに身を包んだ男爵令嬢が踊っていた。グイード様が私と踊ってくださったのは最初の一曲のみ。私は現在、絶賛壁の花と化していた。


「リラ、もう一曲踊るかい?」


 声をかけてくれたのは、私の付き添い人である兄クリスティアーノだ。


「いいえ、お兄様。私たちはすでに二曲続けて踊ってしまいましたわ」


 舞踏会には三曲続けて同じ男女が踊ってはならないという決まりがある。


「そんなルール、破ったって誰も気づかないよ」


 クリス兄様がいい加減なことを口走ったとき、男性歌手が流行はやりのオペラアリアを歌い出した。深みのあるコントラルトの歌声が大広間をやわらかく包み込む。


 その中性的な音色は、彼が世の人々の趣向のために、人工的に作り出された両性具有者アンドロギュヌスであることを物語っていた。声変わりが起こる前に禁断の手術を受けて、少年時代の高い声を保っている特別な歌手なのだ。貴族たちが美声を楽しむために、鳥かごの中に閉じ込めた夜啼き鶯が、今や王都を席巻している。野に咲く花々より、飾り立てた造花を愛するのが上流階級の嗜好らしい。


 だが私も、繊細な刺繍が施されたドレスと宝石で飾り立て、コルセットで体を締め上げて、愛してもいない殿方との婚姻に身を投じようとしている。恋を知る前に翼を奪われたかごの中の鳥なのだ。決められた未来からのがれるすべはない。


「お兄様、外の空気を吸ってきますわ」


 息苦しくなった私は、大広間の奥にあるバルコニーへと歩き出した。


 シャンデリアに立てられた数え切れないほどのロウソクは、大広間を煌々と照らし出す代わりに、空気をよどませるのだ。


 楽団の横まで来たとき、ちょうど音楽が止まった。ふと振り返ると、欺瞞に満ちた大広間は歪んだ鏡に映し出された幻のよう。着飾った男女の姿が私の胸に孤独を突き付け、虚しさを掻き立てる。


 さっきまで歌っていたアルト歌手が鍵盤楽器チェンバロの椅子に座った。私の手がガラス扉の木枠に触れた瞬間、彼の指先から音楽があふれ出した。


「この曲は――」


 華やかな鍵盤楽器チェンバロの音色がなつかしい旋律を奏で、心の琴線を優しく撫でる。ノスタルジックな感傷が波のごとく胸をさらう。気付けば私は十年前のあの日に連れ戻されていた。


 リラの花が咲き乱れる庭園で私は、当時十歳だったアルベルト王子に出会った。彼のチョコレートブラウンの瞳は陽射しを浴びて、甘い輝きを秘めていた。優しいまなざしを受けて、私は恥ずかしげもなく、お母様が好きだったアリアを歌ったのだ。


「初恋はリラの花のように

 僕の胸に今も香る」


 侍女のマリアは慌てて止めたが、アルベルト殿下は明るくほほ笑んで一緒に歌って下さった。


「リラの花が咲くたび思い出す

 きらめく春の陽射しを浴びて

 君を追いかけた少年の日」


 彼の透き通ったソプラノが風に舞い、純粋な響きが初夏の陽光にとけてゆく。優しく、心地よく、軽やかな歌声が祝福のように降り注いだ。彼の歌声に乗って、青空の上まで飛んで行けそうだった。


 歌い終わると彼は、


『僕のことはアルって呼んで』


 と自己紹介した。当時の私は、使用人を振り切って逃げてきたこの少年がアルベルト殿下だなんて知らなかった。


『私はリラよ』


 教えられたばかりのぎこちないカーテシーを披露した私に、彼は綺麗な声で答えてくれた。


『リラ――きみの美しい薄紫の瞳にぴったりだね』 


 だが数か月後、アルベルト殿下は避暑に訪れた離宮で毒殺されてしまった。私の心は今も、あの初夏の日に囚われたままだ。彼の歌声は幼い私の心に深く刻まれ、この十年間、消えることはなかった。いつでも目を閉じれば、あの庭園で彼が歌ってくれた。


 グイード・ブライデン公爵令息と望まぬ婚姻をするのも、いまだ未解決のままのアルベルト殿下毒殺事件を解決するため。グイード様の父上であるブライデン公爵は王弟であり、王子が命を落としてもっとも得をする人物なのだ。ブライデン公が私の舅となり、親しく交際できれば、何か手がかりをつかめるかもしれない。


 音楽が間奏に差し掛かって、私は現実に引き戻された。アリアは短調に移調し、B部分が始まる。


 歌手は鍵盤楽器チェンバロを弾きながら、天鵞絨ビロードのようになめらかな声で切々と歌い上げた。


「めぐる季節は容赦なく

 二人の道を引き裂いた」


 男性アルトの力強い響きが私を揺さぶり、芯のある歌声が心に突き刺さる。不思議とどこかで聞き覚えのある声だ。


 でも彼はなぜ、こんな昔のアリアを歌っているのだろう?


 劇場には毎年新作がかかり、過去作品が再演されることはほとんどない。昔のアリアなんて忘れ去られてゆく運命なのに。


「降りやまぬ雪に閉ざされて

 僕は悔やんで自問する

 なぜ君を追わなかったのか」


 B部分の歌詞は悲しくて、私はあまり好きじゃない。歌手に背を向けバルコニーへ出ようとしたとき、棘のある声が聞こえた。


「リラ・プリマヴェーラ、話がある」


 仕方なく足を止めて振り返ると、予想通り婚約者のグイード様が居丈高に胸を張って近づいてきた。


 七歳のあの日、幼い私の心には愛が芽生える余地があったのに、今ではまるで喪に服しているようだ。


 つかつかと歩み寄ってきたグイード様は、鋭い眼光で私を見下ろした。


「リラ・プリマヴェーラ、お前と交わした婚約を破棄させてもらう」


 私は耳を疑った。私たちの婚約は愛にもとづくものではなく、家同士の結びつきを強めるためだから、簡単に破棄などできないのだ。


 私の父上は、陛下から十年前の事件解決をせかされている騎士団長だ。疑いをかけられていることを知っているブライデン公爵は父と親類になるため、息子のグイード様と私の婚約を持ちかけてきたのだから。


 いつの間にか人々のざわめきは消え、音楽も止まっていた。


 目を見開くことしかできない私に、グイード様はなおも言葉を重ねた。


「お前のような真面目くさった女はいらない。僕は一緒に人生を楽しんで行けるパメラ嬢と婚約する!」


 グイードのうしろから、宝石をいくつも縫い付けた、目に痛いドレス姿の男爵令嬢が現れた。


「グイード様、我がバンキエーリ家が力添えいたしますから、お好きなだけ賭け事カードゲームをお楽しみくださいまし」


 数代前の当主が高利貸しで財を成したバンキエーリ家は、王家に多額の寄付をして男爵位を手に入れた新興貴族だ。


「パメラ、きみは僕にとって理想的な女性だ。それにひきかえリラ・プリマヴェーラ、お前はさんざん僕をいら立たせた!」


 グイードは憎々しげに私をにらんだ。


「リラ、何か言うことはないのか!」


「大変残念ですわ。賭博場に通いつめるグイード様をおいさめしたのが間違っておりましたのね」


 アルベルト殿下毒殺の首謀者に近づけるかもしれない機会をふいにされた私は、悔しまぎれに言い返してしまった。


「ふん、騎士団長の娘だけあって心臓も強いようだな」


 唇の端に冷笑を浮かべるグイードの言葉を受けて、周りの令嬢たちがひそひそと耳打ちしあう。


「本当ですわね。わたくしでしたら気を失ってしまいますわ」

「まったくですわ。こんな社交の場で恥をかかされて、顔色一つ変えずに立っていらっしゃるなんて」

「堅物令嬢という二つ名に恥じぬ豪胆さですわね。心が石でできているのかしら?」


 どうやらここは卒倒すべき場面だったようだ。私は観衆の求めに応じることにした。


 手の甲を額に当て、もう一方の手で苦しげに胸を抑える。


「はうっ!」


 気絶するふりをする私の耳に、


「リラ!」


 クリス兄様の悲痛な叫び声がむなしく響いた。


 だが私の頭が大理石の床に打ち付けられることはなかった。


 宙を翔けるがごとく走り寄ってきた美貌の青年が、力強い腕で私を抱きとめていたからだ。


「お嬢様、お気を確かに」


 チョコレートブラウンのまなざしが愁いを帯びて、私を見下ろしていた。




─ * ─




リラを助けてくれたのは誰!? 彼の正体は次話で明らかに!

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