第16話 聖女様は民の希望
それからは、奇妙なくらいに穏やかな日々が続いていた。自分がどうしてマリオットの屋敷に留まっているのか、忘れそうになるくらいに。
毎日のように、セルジュと一緒にイグリーズの町をぶらぶらした。
そうしていたらこの町の地理についてもすっかり詳しくなったし、行きつけの店なんかもできた。ちょうど、以前ルスタの町で遊んでいた時のように。
けれど、ルスタにいた頃とは違うこともあった。
あの頃私は、しょっちゅう他の女性に声をかけ、一緒に過ごしていた。
でも今は、あいさつやちょっとした世間話をするくらいで、女性を遊びに誘うことはなくなっていた。もちろん、セルジュが嫌がるからだった。
セルジュと女の子たち、どちらかしか選べないのならセルジュかなと、私は自然とそう考えているようだった。
彼と男同士でわいわいやるのは、とっても楽しかった。たぶん今の私たちは、はたからは仲のいい友人同士に見えているだろう。
私が女だということは、まだ周囲にはばれていなかった。エミールは感づいているようだったけれど、あの打ち明け話の後も取り立てて態度を変えることなく、涼しい顔をしていた。
そんなこんなで、私は思い切りのんびりすることにしていた。しかしある朝、ついに事態が動き出した。
いつもと同じように身支度を整えて離れを出てすぐに、異変に気づく。林の向こう、屋敷のほうから、耳慣れないざわめきが聞こえていたのだ。
忍び足で進みながら、耳を澄ませる。この感じ……玄関のすぐ外かな。それも、一人二人ではなくたくさんいる。
周囲を警戒しつつ中庭を抜け、いったん屋敷に入る。そのまま内側から玄関を目指して進んでいくと、ざわめきがどんどん大きくなってきた。やがて、人々が話している内容がはっきりと分かるようになった。
「エミール様、私たちは聖女様に一目会わせてもらいたいんだ」
「あの祭りの時に降臨された聖女様は、こちらにおられると聞きました」
「よくセルジュ様と町を歩かれていて……声をおかけしたかったんですけど、どうしても勇気が出なくて……」
どうやら玄関の外に集まっているのは、聖女様、つまり私に会いにきた町人たちのようだった。
エミールは、祭りのさなかに現れた青年について、特に何も言わないままだった。あの青年が聖女だと断言することもなく、そして私が彼の屋敷に滞在していることを公言することもなく。
どうやら彼は、聖女についての判断をあえて町の人たちに任せることにしたらしい。聖女の存在がこのままうやむやになって忘れられるか、それともさらに熱が増し、切望されるようになるか。
そしてその結果、町の人たちは聖女を求め、ここに殺到することになった。
彼ら彼女らが口々に騒いでいる内容をまとめると、こんな感じだった。
セルジュが謎の青年を連れていってから、何の音さたもなかった。聖女について公式の声明もなく、あの青年がどうなったかについても知らされず。
人々は戸惑いつつ、じっとエミールの言葉を待っていた。そうしているうちに自然と、噂が流れ始めた。やはりあの祭りの時の青年こそが、聖女様なのだと。
やがて私が町をふらふらしていることに気がついた人々は、私に近づいてみたいと、そう思うようになった。
しかし私のそばには、いつもセルジュがいた。最初の頃は私を護衛するかのように、そして最近では、仲のいい友人同士のように。
エミールが沈黙を貫いている以上、セルジュもたぶん同じ立ち位置なのだろう。そんな彼の前で、私に聖女様の話をするのははばかられる。だから町の人たちは、正面切って私を聖女扱いすることができなかった。
けれど、人々の間に広がっている不安と、聖女にすがりたいという思いは日に日に膨れ上がっていくばかりだった。
そうしてついに今日、みんなは思い立ってここに押し寄せてきたのだった。こうなったら何が何でも聖女様に会うのだと、そう意気込んで。
廊下の曲がり角に身をひそめ、こっそりと玄関の様子をうかがいながら、ため息をつく。
町の人たちのざわざわとした声の合間に、エミールの声もする。彼は、どうにかして町の人たちを落ち着かせようと頑張ってくれているようだった。
こちらに声がかからないということは、たぶん今私が出ていく必要はない。というか出ていったらかなり面倒なことになりそうな気がする。
でも、ああやって聖女に会いたいとこいねがう人たちの声を聞いていたら、何かしてあげられないかな、とも思う。私の顔を見て、みんながちょっとでもほっとできるのなら……。
「どうした、リュシアン。こんなところで」
「うわっ!?」
その時いきなり、背後から声をかけられた。びっくりして飛び上がった拍子に、大きな声を出してしまう。うっかり「きゃあ」と女らしく叫ばなかった自分を褒めてやりたい。
「せ、セルジュ……驚かせないでよ。ああ、びっくりした……」
振り返って息を整えながら、セルジュを見上げてにらみつける。思いっきり声をひそめて、ささやいた。
「今、『聖女様』に会いたいって、町の人たちが押しかけてるんだよ。僕がここにいることを知られたら、大変なことになっちゃう」
「騒がしいと思ったら、そういうことか。だが、それなら離れに戻っていたほうが……」
その時、またしても異変に気づいた、さっきまでざわざわしていた玄関が、すっかり静かになっていたのだ。
嫌な予感がする。セルジュの眉間に、ゆっくりとしわが寄っていく。背後にたくさんの気配を感じる。うわあ、後ろを確認したくない。
「聖女、さまだ……」
割と近くから、そんな声がした。そろそろと振り向くと、そこにはずらりと並んだ町人たちの姿。みんな目をきらっきらに輝かせて、私をまっすぐに見ている。
その向こうでは、エミールがちょっと申し訳なさそうな顔で会釈していた。
「間違いない、この方こそあの祭りの日、祭壇に降臨された聖女様だ!」
誰かがそう言った次の瞬間、町の人たちが一斉に動いた。みんなして私を取り囲み、聖女様聖女様と連呼しながら、何やら訴えかけてくる。
とても騒がしくて、誰が何を言っているのかさっぱり分からない。でも必死に耳を澄ませると、私たちをお救いください、とか、この乱れた世を安らかにしてください、とかそんな感じの言葉がどうにかこうにか聞き取れた。
やっぱり、みんな不安でたまらないんだな。何かしてあげられればいいんだけど、私は本当にただの人間だし。困った。どうやって、みんなに下がってもらおうか。
うろうろと視線をさまよわせていたら、私をぐるりと取り囲む人垣の向こうにセルジュの顔が見えた。彼は背が高いから、ここからでも顔がはっきり見えた。そして彼も、この状況にものすごく戸惑っている。
セルジュをまっすぐに見つめて、助けて、と視線だけで必死に訴える。すると彼はやはり戸惑いながらも、そろそろと人垣に割って入ろうとした。あ、駄目だ、はじき出された。
少し考えて、今度は私のほうからじりじりと彼に近づいてみる。私を取り囲んでいる人垣も一緒についてくるのが、何とも恐ろしい。
うーん、やっぱりどうしようもない。さっきよりはセルジュに近づけたけれど、それだけ。私が自力でこの人垣を抜けるとなると、ちょっと荒っぽい動きになりそうだし。
「手を上に伸ばせ、リュシアン!」
困り果てていたら、セルジュが何かを決意したような顔で突然叫んだ。
訳も分からずに両手を上に伸ばすと、セルジュが腕を伸ばして私の両手をしっかりとつかんだ。彼の謎の行動に、町の人たちがひるんで左右に分かれた。
そして彼はその隙をつくようにして、私を上に引っ張り、引き寄せた。……畑で引っこ抜かれる大根の気分がちょっと理解できた気がする。
しかし、見事な腕力だなあ。あの不安定な体勢から、細身とはいえ女性を一人引っ張り上げるなんて。
などと考えているうちにも、セルジュは引っ張り寄せた私をひょいと抱き上げている。こう、右手で背中を支え、左手を膝の下に入れて支える……恋愛ものの小説の挿絵でしか見たことない、そんな抱え方……。
「えっと、セルジュ? これは?」
「つかまってろ」
言うが早いか、彼は駆け出した。私をしっかりと抱きかかえたまま。
ひどく揺れて安定しないので、仕方なく彼の首元にしっかりと腕を回す。予想よりもずっとたくましくてしっかりした感触に思わずどきりとしたけれど、今はそれどころじゃないので気づかなかったことにする。
セルジュは廊下を駆け抜け、中庭に出て、そのまま裏門に向かっていく。私たちの妙な姿に目を丸くした門番が門を開けると、そのまま敷地の外に飛び出していった。
マリオットの屋敷は、イグリーズの町の中でも外れのほうにある。屋敷の裏門から出たら、そこはもういきなり町の外だ。人の手の入っていない草原が、辺りに広がっている。
それでも彼はまだ止まらず、近くの森の中に突っ込んでいく。しばらく走って、ようやく立ち止まった。
「……ここまで来れば、さすがにあいつらも追いかけてこないだろう」
彼は私をそっと地面に下ろすと、深々と息を吐いた。さすがの彼も、ちょっと疲れたようだ。というか私のほうも、すっかり体がこわばってしまっている。伸びをしながら、セルジュに声をかけた。
「ごめん。いや、ありがとう。さすがにさっきは、かなり困ったから。」
「お前のことが噂になりつつあることは気づいていたんだが、まさかみんながいきなり屋敷に押しかけてきて、しかもあんなに熱心に迫ってくるとはな……」
さっきの町人たちの大騒ぎを思い出して、二人同時に身震いした。それくらい、町の人たちは必死だった。何もできないことを申し訳なく思うくらいには。
「……やはり、父さんの読み通りになってしまったか……それだけ、民の不安は大きいのだな……俺も、手をこまねいている場合ではなさそうだ。俺が、動かなくては……しかし……」
と、セルジュがひどく苦しげに目を伏せて、ぽつりと独り言を口にしていた。いつもと違うその様子に、ただ黙って見守ることしかできない。
明るい森の中、二人黙って立ち尽くす。何か声をかけたいと、そう思った。でも何をどう言ったらいいのか分からない。
ただ、彼がこんな風に思いつめているのは嫌だなと、そう強く感じていた。
自分の無力さにちょっぴり落ち込んでいたら、彼がはっと目を見張り、私を見つめ返した。そうして、苦笑を向けてくる。
「……いや、今のは忘れてくれ。ひとまず、ここでしばらくおとなしくしていよう」
そう言って、彼は近くの草地に腰を下ろしてしまった。もうすっかりいつも通りの雰囲気だ。
同じように座りながら、またセルジュをじっと見つめる。いつか、彼の悩み事を知りたい。そうして、手助けしてあげたい。そんな思いが、胸に渦巻いていた。
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