〈三〉短命な操り人形

 宵藍しょうらんは動かしていた手を止めて、ふと執務室の扉に目をやった。先程震える朱華が出ていった扉だ。

 来た時はそれなりに大きく開けられたのに、帰りは彼女の心境を表すかのように小さくしか開けられなかった。大きな扉が小さな動きしかしないと、どうにも忍んでいるような印象を受けてしまう。まるで自分から隠れようとしているかのようだ――宵藍は妻の胸中を推し量りかけて、無駄なことだ、と再び手を動かし始めた。


「――いやさっさと声かけてくださいよ」


 部屋の隅、衝立の陰から男が姿を現す。年の頃は宵藍よりも幾分か上だろうか。精悍な顔立ちだがどこか軽薄さを感じさせるその男は、衝立からずいと身を乗り出すと、当たり前のように宵藍の方へと歩いていった。


「俺の図体であんなとこずっと隠れてるって辛いんですからね。朱華様が離れたなら隠れてる必要なんてないのに」

「忘れてた」

「うわ、嘘っぽい」


 事実、男は宵藍の言葉が嘘だと知っていた。彼はわざと自分に声をかけなかったのだ。


「しっかしまァ、大将ってば本当に口が悪いんだから」


 男が腰に手を当てて言えば、宵藍は相手を見ないまま機嫌悪そうに顔を顰めた。


「ずっと隠れていればいいのに」

「うわ、言質取れましたー。この上司、部下が邪魔だから放置してたって言いましたー」

「騒音は職務の邪魔だ」


 ふうと溜息を吐いて、宵藍が男を睨む。


「茶化したいだけなら帰れ、志宇しう。お前まで残る必要はない」

「残業する上司残して副官が帰れるわけないでしょう」


 志宇と呼ばれた男はそう言うと、「全く、新婚が何やってんだか」と呆れ顔をした。


「しかも『子を作る道具に成り下がる気はない』って……よくごう家に生まれてそんなことが言えますね。江家男児は代々〝朱華様〟のお相手を務めてるってのに」

「ただの候補だ。江家じゃなくとも国主の分家筋なら誰でもいい。資質さえあればな」

「それでもここ三代は連続して江家でしょう。なんとなくみんな今回も江家の人間が選ばれるだろうって思ってましたよ」

「迷惑な話だ。俺は種馬になるために鍛錬をしてきたわけではないのに」


 志宇と会話する宵藍の目は手元に向けられていた。先程から全く自分を見ようとしない上司の姿に、志宇はなんて子供なんだ、と肩を竦める。

 宵藍とは彼が少年と言える頃からの付き合いだが、昔からこの男は都合の悪い話をされる時は相手のことを絶対に見ようとしない。そのお陰では見分けやすいが、その特性を知らない人間には自分は全く気にかけられていないという印象を与えてしまうだろう。

 これは朱華様も大変だ――志宇はこの部屋を出ていった時の少女の姿を思い出すと、「一体何が不満なんですか?」と首を傾げた。


「〝朱華様〟のお相手に選ばれただなんて、誉れ以外の何物でもないでしょう。それだけで血筋だけでなく、あなた自身の能力も証明されているようなものですよ。数年間夫として勤め上げればその後の再婚は自由ですし、朱華様だってあんなにお可愛らしい。俺に資格があれば是非とも名乗りを上げたかった」

「俺は名乗りを上げた覚えはない」

「言葉の綾ですよ。そんなことをせずとも、〝江家出身の優秀な方士にして史上最年少のせい軍大将〟だなんて言われたら、誰だって放っておいてくれません。しかも顔面まで一級品と来たもんだ。事実、必死に自分を売り込んでいた方々を押さえ込んで選ばれたんじゃないですか。彼らだって申し分がないほどの家柄と実績をお持ちですよ。ま、うちの大将にゃ負けますがね」


 志宇は身振り手振りを交えてぺらぺらと語り終えると、こっそりと宵藍の様子を盗み見た。この男が〝朱華様〟の夫という立場に全く興味を持っていないことは分かっているが、自らの能力を評価されることについてはその限りではないことも知っているからだ。

 自身の研鑽においては人並み以上の向上心がある人間なのだから、こうしてその努力が認められたという部分を強調すれば何か違うのではないか――という期待を持って、「もう少し誇ってもいいのでは?」と問いかける。しかし宵藍はやっと顔を上げたかと思うと、冷めきった目を志宇に向けた。


「ただの男娼と変わらないのに誇るのか?」

「言い方……」


 これも響かなかった、と志宇は額に手を当てた。別に上司の夫婦関係まで面倒を見てやる義理はない。ないのだが、相手が〝朱華様〟となれば話が別だ。

 もしこれで本当に離縁だなんてことになってしまえば宵藍の将来に関わる。おそらく江家からは勘当され、軍でも閑職へと追いやられるだろう。最後にはその麗しい容姿しか残らず、それこそ本当に貴婦人達の男娼にならなければ食っていけなくなってしまうかもしれない。

 流石に宵藍のそんなところを見たくはないと、志宇はううんと眉根を寄せた。


「そもそもなんですけど、何故あそこまで毛嫌いなさるんです? なんだかんだこのお役目も受け入れていたはずではありませんか」


 志宇の知る限り、宵藍は最初からこの結婚に乗り気ではなかった。しかし周囲の期待という名の圧力が、権力に無頓着な彼にすら拒否を許さなかった。結果として宵藍は渋々と結婚を受け入れ、こうなってしまったからには仕方がない、とお役目を果たす気でいたはずなのだ。

 それなのに何故か、たった一晩でだ。宵藍がそう簡単に役目を放棄するような人間とも思えない。となるとそれだけの何かがあったということなのだろうが、先程の朱華との会話を聞く限り、どうにも宵藍が一方的に嫌っているように感じる。

 という疑問を込めて宵藍を見つめれば、それまで志宇の方を向いていた彼はそっと視線をずらした。


「……あんな娘だとは思わなかったんだ」


 ぼそり、小さい声で呟く。それきり口を閉ざしてしまいそうな宵藍に、志宇が「どこかおかしなところが?」と助け舟を出す。すると宵藍はむむっと形の良い眉を寄せて、「どころか、全部がおかしいだろう」と話し出した。


「お役目のために嫌々自分を納得させているならまだしも、そうすることが全て正しいと言わんばかりの振る舞いじゃないか。おかしいことをおかしいと思えず、周りにいいように利用されるだけ……他の国でもきっとそうだ。赤子として生まれ直した〝朱華様〟をどう育てるかはその国次第。この国はまだ夫婦として形を整えるが、かい国では複数の男達の相手をさせられ、はい国では神と敬われながらも道具同然に扱われると聞く。なのにどこの国でも彼女は自分の立場がおかしいと自覚できない。再生で記憶を無くすのをいいことに洗脳されて育つからだ。分かっていたとはいえ、あんなに不気味なものだとは思わなかった……それをまざまざと見せつけられて、どうして自分も同じようにしようと思える? 善悪を知らない子供を犯すのと何が違う? 自分の置かれた状況を正しく理解していない相手にその役目を強要するなんて、そんなおぞましいことができるはずがない」


 一気に捲し立てた宵藍に、これは相当に思うところがあったらしい、と志宇は苦笑を浮かべた。これだけの疑念や不満を抱えてしまっては、確かに相手を抱くどころの話じゃない。

 しかもその内容だってそうだ。彼の性格からしてこれが解決しなければ次には進めない。相手を無垢な子供だと思ってしまった以上、その考えが覆されるか、それに等しい何かがない限り絶対に妻に手を出すことはないのだろう。

 これはなかなか手強そうだ――へらりとした顔とは裏腹に、志宇は内心で困ったぞと大声で叫びたくなった。


「……まあ、朱華様は大人ですかね」

「分かってて言っているだろう」


 苦し紛れの発言に、宵藍がすかさず不満げな声を上げる。そんな上司の反応に志宇は顔を天井に向けて、「当たり前でしょう」と力なくこぼした。


「でも他になんと言えと? あの方がいなければ国主一族が弱るのは分かっているんです。江家含めた分家の男性が朱華様を娶り、その子供を国主の一族と結婚させることでこの国は成り立っているんですよ。俺みたいな平民生まれの一軍人が、それを否定するようなあなたの発言を歓迎できるわけがないでしょう」


 先程の発言は宵藍だから大目に見られるようなものなのだ。分家とはいえ、彼にもまた国主と同じ血が流れている。そして、〝朱華〟の血も。かつてのすい王の血を引く宵藍が人並みの寿命を生きられて、方士としての才にも恵まれているのはそういうことだ。

 そして宵藍は朱華を娶ったことで、いずれは国主と今より近しい親戚関係になると決まったようなもの。いくら国の在り方を否定するような発言でも、宵藍の言葉となれば真っ向から反論できる人間はそう多くない。


 とはいえ志宇には宵藍を肯定することも、ましてや否定することもできなかった。血筋という点でもそうだが、彼は志宇にとっては直属の上司。仕事上の間違いを諌めることはなくもないが、こういう私的な部分に関しては意見を言いにくい。

 宵藍もそのあたりは理解しているのか、困り果てたように言う志宇をちらりと見て、「個人的なことでお前を困らせるつもりはない」と溜息を吐いた。


「この件に関しては俺が自分でどうにかするしかない。お前は関わらなくていい。全く、国主が自分で不死鳥を娶ればいいのに」


 疲れ切ったように宵藍がこぼす。それを冗談だと判断して、志宇は「無理ですよ」と茶化すように笑った。


「相手はこの土地の神たる不死鳥、いくら協力的と言っても複数の妻の中の一人にするには畏れ多すぎます。他の国でも国主の妻としないのはそういうことでしょう。まあ、他国のやり方が人道的かどうかは置いといて」

「妻なんて一人に絞ればいいんだ。どうせ五十年に一度しか順番は回ってこないんだから」

「それこそ無理だって分かって言ってますよね? 朱華様は国母には向かない――」


 国主の妻には、国主と同様に国を導くことが求められる。だが不死鳥を娶る三国のうちのどこでも、不死鳥と国主が直接契ったのは最初の一度きりとされていた。その後は国主の近縁者と不死鳥を交わらせ、生まれた子供を国主の配偶者とするようになったのだ。

 その理由は、この土地の誰もが知っていた。


「――なにせ彼女は、二十五歳で亡くなるんですから」


 その志宇の声は、少しだけ暗かった。



 § § §



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