第一章 死なずの少女
〈一〉拒まれた初夜
「気持ち悪い」
目の前の美丈夫からかけられた言葉に、
朱華は自分の装いを見て、何かおかしなところがないか確認した。白い寝衣は頬擦りしたくなるほど滑らかな紋意匠の生地で、光沢のある美しい牡丹の地紋が入っている。上から見える胸元に、畳んだ膝。そこを覆う寝衣に汚れはなく、着方が間違っているわけでもない。
ならば顔か、と目で鏡を探す。しかし閨にそんなものはない。ここにあるのは天蓋付きの寝台と水差し、それからその水差しを置いている小さな机だけ。仕方なく支度時の記憶を辿り、最後に見た自分の顔を思い出す。侍女達にきれいに整えてもらった顔はそうと分からないほどの化粧しかしていないが、我ながら自然で良いものだと思った覚えがある。その後は手でも触れていないから、知らず知らずのうちに崩してしまったということはないだろう。
では結局、何が気持ち悪いのだろうか。朱華はとうとう分からなくなって、「あのぅ……」とおずおずと相手の顔を見上げた。
「気持ち悪いというのは、
粗相なんてした自覚はないが、何かが相手の機嫌を損ねてしまったのかもしれない。朱華が不安げに答えを待っていると、問われた宵藍は呆れたように顔を
「あなたが気持ち悪い」
ぎゅっと、心臓が掴まれる。かあっと熱くなった全身の熱が、更に朱華を追い詰める。
「ぐ、具体的に何が……わたし、その、初めてで……!」
初夜なのだから当然だ。だが言いたいのはこんなことではない。不慣れを言い訳にするなどあってはならない。そう考えれば考えるほど、朱華の心臓の鼓動が速くなっていく。
「あなたの存在自体が。この状況に疑問を持たないあなたが。あなたのような人形を抱く趣味など私にはありません」
突き放す言葉が次々と放たれる。そして最後は本当に突き放すように宵藍は寝台から立ち上がって、扉の方へと歩いていってしまった。
「私の体調が優れないと報告しておきます。今日はもう戻りませんので、あなたは好きにしてください」
そう吐き捨てて部屋から去る夫の背を、朱華はただ呆然と見送ることしかできなかった。
§ § §
翌朝、慣れない新居の一室で朱華は物憂げに外を眺めていた。
朱華の結婚に合わせて建て直された館には、そこらじゅうに新品独特の匂いが漂っている。多くは調度品の塗料の色だ。不快な匂いではないが、あまり嗅いだことがないせいで落ち着かない。
日が経てば匂いは薄くなるだろうし、慣れもするだろう。だがこの館には昨日越してきたばかり。そんな場所では失敗に沈んだ気持ちが慰められることもない。
「何が駄目だったのかなぁ……」
机に突っ伏し、はあ、と大きな溜息を吐き出す。
初夜を失敗するだなんてあってはならない――教育係から口酸っぱく言われてきたことだ。なのに自分は失敗してしまったのだという事実が、夫に拒まれた以上の苦しさを朱華に与える。
失敗してはいけないと分かっていた。失敗するつもりだってなかった。だが現実に失敗してしまった。それも、何もできないまま。
何がいけなかったのだろうと考えてみても、ほとんど何もできなかったのだから分かるはずもなかった。寝台に二人で腰掛けて、向かい合い……それだけだ。なんだったら手すら触れていない。
思えば、婚儀の時から彼はおかしかった、と朱華は昨日のことを思い返した。結婚相手である宵藍は、婚儀の間、一度も朱華と目を合わせようとすらしなかったのだ。
それは軍人ゆえの振る舞いだと朱華は納得していた。若干二十二歳にして
ついでに言えば、その方が朱華にも都合が良かったという事情もある。宵藍の顔立ちは息を呑むほど美しい。男らしい筋肉質な肉体に、絶妙な塩梅で中性的な美しさを持った顔が乗っているのだ。
その二つの組み合わせではちぐはぐになってしまいそうなものなのに、宵藍の場合は熟練の職人の仕事かと思うほど見事に調和が取れている。あまりの美しさに、朱華は初めてその姿を目にした時からずっと気圧されていた。こんなに見目麗しい男性と目が合えば、きっと動揺して粗相をしてしまうに違いない、と。
そんな下心があったから、宵藍が自分を見なくても気にならなかった。軍人然とした態度が出てしまっているだけだと、深く考えようともしなかった。今にして思えばそこに宵藍の真意が隠れていたのかもしれないのに、全て都合良く解釈してしまった自分には不甲斐なさしか感じない。
「――まあ、宵藍大将は愛想がないことで有名な方ですから」
項垂れる朱華に、侍女が慰めるように言う。名は
「でも気持ち悪いって……わたしが人形っていうのは、その……そういうことよね?」
朱華の問いに林杏が眉尻を下げる。「朱華様は尊いお方です」朱華の両手を取りながら言って、「どうかお気になさらないでくださいませ」と優しく微笑んだ。
「あなた様がおられるから、この
「それは分かってるわ。だけど宵藍様はきっとそうは思っていない……じゃなきゃあんなこと言わないでしょう? わたしと同じようにあの方にだってお役目があるのに、それを放棄するようなこと……」
不死鳥である朱華が子を産むことを役目とするように、その夫となった宵藍もまた子を成す努力をしなければならない。だからこそ朱華は、まさか初夜を拒まれるだなんて夢にも思っていなかったのだ。何かまずいことをしてしまったならまだしも、互いに触れもしないうちから夫が去るなんて前代未聞。今回はまだ体調不良という言い訳が通るかもしれないが、その手は何度も使うわけにはいかないだろう。
つまり、昨夜の宵藍の行動は彼の立場すらも危うくしているのだ。本来であればたとえ本当に体調が悪かろうと、宵藍はどうにか初夜を成し遂げなければならなかった。しかし彼はその努力を一切しなかった。夫に拒絶されたこともそうだが、そんな彼の行動が朱華には到底理解できなかった。
「もし宵藍様では役不足だと感じられるなら、彗王陛下にそう進言なさればいいのです。あなた様にはその権利があります。昨夜の話だって、どう考えたって朱華様に落ち度はありませんもの」
林杏の言葉が慰めるための嘘ではないと、朱華にも理解できていた。不死鳥の子を必要としているのはこの国で、それを産めるのは朱華ただ一人。その責務を負う者として、朱華には夫を選び直す権利がある。
「だけどわたしは、旦那様は一人がいいわ」
ぽつり、朱華がこぼす。
「例えば瑰国では複数の夫を持つという話だけど、そんな何人もの方々を平等に愛せる自信なんてないもの」
教わった他国の慣習を頭に思い浮かべる。瑰国での不死鳥は、朱華は、複数の夫と婚姻関係を結ぶのだという。
けれど朱華にはそんな自分が想像できなかった。一人の男性を夫として愛すものだと言い聞かされて育った。だからたとえ同時に婚姻関係を結ぶのは一人でも、この夫は駄目だから次の夫を、だなんてことは考えられない。
「朱華様は愛情深くていらっしゃいますね。こんなに素晴らしい方がこの国を支えてくださるなんて、これほど幸せなことはありません」
林杏が恍惚とした笑みを浮かべる。多くの人間が朱華に向ける表情だ。これが朱華の背負う期待の証で、それに応えるのが朱華の役目。
朱華は同じように笑みを返すと、「ありがとう」と言って林杏に身体を向けた。
「わたしね、乳母はあなたにお願いしたいと思っているの。あなたが一緒にいてくれて凄く心強いもの。自分の子供にも同じように安心して欲しいから、是非あなたに近くにいて欲しい」
朱華の言葉に林杏が息を呑む。きらきらと輝く目には喜びが顕になっており、その頬にもやや朱が差した。
だが林杏は自分を抑えるようにすうっと息を吸い込むと、胸に手を当てながらゆっくりと、噛み締めるようにその息を吐き出した。
「勿体なきお言葉、痛み入ります。ですが私は朱華様のお世話を外れる気はありませんよ?」
「なら一緒に子育てしましょう。たくさん産むことになるんだもの。人手はいくらあったっていいし、きっと賑やかで楽しくなるわ」
朱華が言えば、林杏が幸せそうに微笑む。そんな相手の反応を見て、朱華はやはりおかしいのは宵藍の方だと、気が楽になるのを感じた。
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