君に捧げるのは
冥夜 雨音
1
「――待ちくたびれたぞ、小僧」
「――――」
夕暮れ時の光が、木々の隙間から差し込む森の中――古寂れた神社の境内、賽銭箱の前に座り込む一人の少女が、彼女の前に立つ幼い少年に語りかけていた。
「この儂を待たせるとは、童とはいえお主も罪なものじゃ。これほど待たせたのだから、その手提げに入っているのはさぞいい物なのじゃろうな? 小僧」
「だから毎日同じ時間に来れるわけじゃないって何度も言ってるだろうが! 今日はたまたま帰りが遅くなっただけだよ! あと、小僧って呼ぶな、化け狐!」
「やれやれ。お主の口の悪さも留まることを知らんのう」
叫ぶように反論する少年の歳は十かそのあたりか。その腕に引っ掛けられた手提げカバンにあしらわれているデザインと背丈が、彼の年齢を正しく体現している。
一方の少女は、少年よりも一回り上くらいの年齢だ。だが彼女の言葉運びは、人間の老人そのもの――それでいて、見た目は歳相応の少女なのだからおかしなものだ。
そして、彼女の違和感は、それだけに留まらない。
「まあよい。早く座るのじゃ。儂は今日の『捧げ物』がもう待ちきれないのでな」
「わかったよ。ちょっと待てって……」
ゆらり、ゆらりと、背中で白い『尻尾』を揺らしながら、少女は横の地面を手で叩いて少年を誘う。
頭に生えた二つの『耳』の存在も、地面に散らされた白く長い髪――その色も、人間ならば決してありえないものだ。
だが、そんな少女を前にしても、少年はさして恐れる様子も見せずに、ため息をつきながら彼女の方に歩み寄った。
「ほらよ」
「おお。今日は中身の見えぬ『酒瓶』じゃな? 透き通って中身が見える『酒瓶』もよいが、儂はこっちのほうが、なにが入っているかわからぬ楽しみを感じられて好きじゃ」
「はっ。もしかしたら、とんでもなく不味い物が入ってるかもしれないぜ?」
「そんなことを言って、お主が飲み食いできぬ物を持ってきたことは一度もない。ほんの数日前もそうじゃ。大口を叩いておいて、お主が結局持ってきたのは美味い『果実酒』じゃった」
「う、うるせえな! ていうか、酒じゃなくてジュースだから。何度も言ってるけど」
少年が差し出した『酒瓶』――もとい『水筒』に目を輝かせながらも、少年に向かって薄く微笑む狐の少女。
視線を向けられた側の少年は照れたように悪態をつき、早く飲めと言わんばかりに手を振って少女を促す。
促された側の少女はその微笑みを崩さないまま、器用に水筒の蓋を開けて迷う素振りも見せずに口を付けた。
「――。む。これは『葡萄酒』じゃな? 儂が前に好きだと言ったあの『葡萄酒』じゃな!?」
「だから酒じゃなくってただのぶどうジュースだって! なんで全部酒にしちゃうんだよ! ……まぁ、中身はお前が好きだって言ってたやつと同じ種類だけど」
「ん~! 待たされたあとに飲むこの酒は格別じゃな!」
「お前な……! はあ。もういいや」
少年が持ってきたジュースを頑なに酒と言い張りながら、少女は遠慮なく水筒を傾けて中身を飲み干していく。
それが小さな喉を通って胃に落ちていく様子を少年は横目で窺っていたが、少女が「ぷはぁ!」と満足そうな声を上げると慌てて視線を逸らした。
「酒じゃ酒じゃっつってるけどよ、本物の酒飲んだことあるのかよ。父さんに聞いたら、ジュースとは全然違う味って言ってたけど」
「お主と違って儂は子供ではないからの。当然、飲んだことくらいはある。もっとも、ずいぶんと昔の話になるがの」
「じゃ、お前はジュースと酒の違いがちゃんとわかるってわけだ」
「当然じゃ。お主は『じゅうす』などと言っておったが、これまで持ってきた飲み物、本当はすべて酒なのじゃろう?」
「お前ってやっぱり馬鹿舌なんじゃねえの?」
胸を張って自信満々に答える少女に、少年は呆れた様子で返す。
その返答に少女は尻尾の毛を逆立たせながら「この儂が馬鹿舌じゃと!?」と少年を睨みつけるが、彼は意にも介さず再び手提げカバンに手を突っ込んだ。
「ほらよ。おまけだ。今日はしょっぱいの」
「む」
少年が取り出したのは袋に入った二枚組の煎餅だ。醤油味。やや大きめ。
彼が差し出したそれが少女の目に入った途端、逆立った尻尾の毛はみるみる元通りに。
そして、いくらか不満げな表情を浮かべながら彼女は煎餅を受け取ると、慣れた手つきで袋を開けた。
煎餅が少女の口の中で割れて、小気味いい音が森に広がる。
「なんだよ。しょっぱいの、嫌いになったのか?」
「そんなことはない。お主が『馬鹿舌』と言ったのを、煎餅で誤魔化されたような気がして納得がいっとらんだけじゃ」
「別にそんなつもりは……いや、あるわ」
「あるのか! 小僧! お主というやつは!」
「だから小僧って呼ぶな!」
煎餅を片手に立ち上がる少女に、少年もまた立ち上がって真っ向から叫び返す。
少年よりも背が高く、またその尻尾が多量の毛を伴って膨らんでいるため、少女のシルエットは見た目以上に大きい。
こうして二人が一直線に並べば、お互いがそれぞれ全く異なる種族であることを強く意識させられる。
もっとも、この二人の存在を正しく認識できるものがほかにいればの話だが。
「それにしても、お主もよく飽きもせずにここへ来るものじゃ。ほかに暇を潰せる友などはおらんのか?」
「毎日来いって言った化け狐はどこのどいつだよ。俺が来なくなって一番困るのはむしろお前のほうじゃねえの?」
「はて。儂は毎日来いなどと言った覚えはないのじゃがの。お主が勝手に来て儂に貢いでるだけじゃ」
「前に何日か行けなかったとき、泣きながら――」
少年の言葉に反応して少女の獣耳がピクリと動いた。そして次の瞬間には、少年の口の中には煎餅が一枚突っ込まれていて。
目を見開き、口元に押し付けられた煎餅を少年は見る。少女の手はすでに煎餅からは離れており、咥えられたそれが落ちる前に少年は慌てて手を添えた。
「相変わらず、お主には『でりかしい』というものが足りん。そのせいで儂は煎餅を一枚失ったではないか」
「煎餅を押し付けたのはお前の勝手だろ! 食えなくなったのは俺のせいじゃねえ!」
恨めしげに少年を見る少女だが、彼は悪びれもせずに押し付けられた煎餅を咀嚼して飲み込む。
売り言葉に買い言葉。こうして互いに軽口を飛ばし合うのは、もはや日常茶飯事だ。
「俺が来なくなったら、それこそ飢え死にするお前の姿が目に浮かぶわ。お前の命綱は俺が握ってるんだぜ? 化け狐」
「仮にお主が来なくなっても、ほかの人間から施しを受ければ済むことじゃ。あまり自分を過大評価しないことじゃの。小僧」
十歳前後の男児とは思えない言い回しで軽口を叩く少年。もっとも少女はそれに言及することなく同じように軽口を返す。
小僧、化け狐と互いに呼び合いながら鋭い視線をぶつけ合う二人。しかしそれも、長くは続かない。
「そういうことじゃ。わかったら、お主も――ぉ」
少年がまた手提げカバンに手を入れ、少女が言葉に詰まる。
彼がそこに手を入れたということは、その中にまだ『捧げ物』が残っている証拠だ。
そうして少年が取り出したのは、近所の店で買えるチョコレートで。
「甘い物を食べたらしょっぱい物が食べたくなる。逆もまたしかりだ」
「……お主、本当に歳に似合わず難しい言葉を知っておるのう」
言いながら、少女は少年が差し出した手の平サイズのチョコを受け取る。
冷ややかな視線を少年に浴びせていたあの姿はどこへ行ったのか、まるで何事もなかったかのように彼女はチョコレートを小さく齧り始めた。
その姿に、人ならざる者としての威厳はどこにも感じられない。
途端、先まで熱を帯びていた空気は静寂を取り戻し始める。
焦点の合わない視線を前に向けながら、差し出された甘菓子を口に運ぶ狐の少女。その様子を、少年は黙って見つめていた。
「小僧」
「なんだよ」
「どうしたというのじゃ? いつもより量が多いではないか」
「別に、そんな変わらないだろ。ジュースと、煎餅一袋と、小っせえチョコが一個だ」
「それが多いと言っておるのじゃ。前に言わなかったか? 儂への『捧げ物』は一つでいいと。お主の都合もあるじゃろうし、そもそも儂の食に対する感覚は人間とは違う。菓子一つでも、儂にとっては十分なのじゃぞ?」
ただでさえ小さかったチョコレートが齧られて、ほとんど欠片のようなものになったそれを少女が口に放り込む。
もう味も感じられないであろうそれを飲み下して、少女は少年の目を見ながら言葉を繋ぐ。
「たとえどれほど食らおうとも、明日になれば腹が空く。それは儂も人間も同じじゃ。じゃから、お主は儂が満足できる最低限の『捧げ物』を持ってくればよい。お主が持ってこれる量にも限りがあるのじゃからな。それに」
「……それに?」
「お主は儂に毎日会いたいようじゃしな」
そう締めくくって、少女は首を傾けて少年を下の方から見つめながら妖しげな笑みを浮かべる。
人間の女児のものとはまた違う美しさに打たれた彼は頬を赤らめながら視線を逸らし、胸中に抱く自身の気持ちを否定するように口を尖らせた。
「別に俺が会いたいわけじゃねえし。お前が……」
が、少年は最後まで言い切る前に口を閉ざした。
視線を落とし、彼は寂れた地面を見つめる。
「……そうじゃな。儂にはお主が必要。お主の言うとおりじゃ。じゃからこそ、じゃよ」
「…………」
少女が少年に視線を向けていたのは、それきりのことだった。
少年はどこか思いつめたような、少女はどこか寂しそうな笑みをそれぞれ浮かべて、二人は揃って顔を伏せる。
――静寂。それが何度も場を支配するのは、彼らがここに揃っているにしては珍しい。
弱い風が吹き抜けて、その沈黙を破ったのはまたしても少女のほうだった。
「お主よ、覚えておるか? お主が初めてここへ来たときのことを」
「なんだよ、いきなり。そんな昔のこと、もう覚えてねえよ」
「儂は覚えておる。ほんの数年前の話じゃ。儂にとっては、昨日の昨日くらいの感覚じゃ」
「……そうかよ」
「そうじゃ。それに儂にとっては」
少女が立ち上がり、長く白い髪と膨らんだ白い尻尾が揺れる。
どちらも地面に直接触れていたはずなのに、白い毛並みは土埃一つ付いておらず、元の美しさを保ったままだ。
それもまた、人ならざる者としての力なのか。
少年との違いを見せつけるように、彼女はゆっくりと少年を振り返ると、薄い微笑みを浮かべて言った。
「――忘れたくても忘れられない、大切な思い出じゃ」
君に捧げるのは 冥夜 雨音 @xTrugbild
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。君に捧げるのはの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます